この世の果ての中学校 【 目次編】

 

 

 

 

 

 

自然が崩壊し、人類が絶滅した21世紀の終わり、地球に生き残ったわずか6人の中学生が、巨大ドームの中に造られた中学校で生き延び、助け合いながら逞しく成長していく物語です。

 

目次  

 

あらすじ

21世紀の末、地球の温暖化が進み、地球上では生命体による生き残りを賭けた絶滅戦争が起こった。捕食ピラミッドの頂点に立つ人類に、崩壊が進む自然界が秘かに送り込んだ最終兵器は未知のウイルスだった。

人類をはじめ、この戦争に勝者はなかった。人類最後の砦として、ウイルスの侵入を許さない巨大ドームが創られた。世界からドームに集められた人類は、男女3人ずつ、わずか6人の中学生だった。

 

子供たちを育てるのは、すでに命を無くして幽体に身を移した両親や、人工知能・AIとなった先生たち。戦いの相手は、知的ウイルス、魔女、異形のもの、アンデッド、それにブラックホールに暮らしている未知の知的生命体です。 

 

主な登場人物

中学三年

裕大・・・YUTA アフリカ原住民の子孫 東京在 孤児  

咲良・・・幻想の世界・ファンタジーアの王女 

 

中学二年 

匠・・・六甲山 日本 武道家の跡継ぎ

エーヴァ・・・パリ フランス 宇宙飛行士の娘

 

中学一年

ペトロ・・・米国 ナパバレー 少し変わった科学少年

マリエ・・・ワルシャワ ポーランド 牧師の娘

 

パパやママたち

生徒たちのパパやママ・・・ファンタジーアの女王 リアルの王 他

                  

先生

カレル教授・・・生命科学者

ハル先生・・・教授の恋人 宇宙物理学者

校長先生・・・中学校の経営者

医務室のおばさん・・・プロのヒーラー

 

そのほかの人物

虚構の手品師・・・時空の旅の手配師

三界はぐれ・・・三界から追放された男

 

クオックおばば・・・魔女

アンデッド・・・死んでも死にきれない者たち

ホラー・・異界の者

ゴルゴン一族・・宇宙の犯罪人・追放された一族

 

ファー・・・惑星テラ1の森の家族のパパ

マー・・・同じく森の家族のママ

カーナ、キッカ、クプシ・・・同じく森の家族の子供たち

 

大きなエド・・・惑星テラ2の最後の住人

小さなエド、アナ、クレア、ボブ・・・惑星テラ3に住む大きなエドの子供達

 

緑の風のおじさん・・・惑星テラに潜む緑の怪物

ホワイト・スモーキー・・・天上の案内人

 

連載長編になりますので、ゆっくりお読みくださいね。

 

 

この世の果ての中学校 3章 黄色いバス停

 

灼熱した地球でたくましく生きる6人の子供たち

 

 

 

 

 

 

 

の~んびりした人類絶滅小説です

今回は、地球に生き残った六人の子供達が、先祖の魂が暮らす黄泉の国へ体験旅行に出かけます。

黄泉の国では、誰でも一人だけ好きな人に出会うことができるのです。

 

 匠は大好きだったおばあちゃんに会うことに決めていました。

 

・・・長編の連載ですので、ゆっくりお読みください。

 

(前回の話は下記をご覧ください)

この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(後編)

 

3章 黄色いバス停

 

「おはよー」

 Tシャツに紺のブレザー、Gパンにスニーカーというお得意のオールド・ファッションに、愛用のハットを斜めにかぶったカレル教授が、金曜日の朝一番に教室に入ってきた。

 これが先生の正装だった。

 

 今日は特別の日、生徒たち全員で黄泉の国を訪問する記念すべき日だ。

 先祖の霊に、地球に残された人類である六人の子供たちをお披露目する大事なセレモニーの時だ。

 

 先生はハットを脱いで教壇のデスクに置くと、教室の窓に近づいて、顔を外に突き出した。

 校庭の空の雲の具合を眺めたり、空気の湿り気を嗅いだり、指を突き出して風向きを調べたりして、今日のドームの天気を予測している。

 

「みんな!今日は絶好の散歩日和だ。暑苦しい身体なんかは脱ぎ捨てて、魂一つになって、風に揺られて黄泉の国へいこうじゃないか!」

  カレル先生はよっぽどの悪天候でなければ、今日は子供達を黄泉の国の体験旅行に連れ出すことに決めていた。

 

 黄泉の国は生身の身体では行けない。

 そんなことをしたら、二度とこの世には戻ってこられない。

 

 幽体離脱して魂だけになれば一度だけの体験旅行として、黄泉の国に行ける。

 そしてどうしても会いたい人に、一人だけ面会することができるのだ。

 

「いつかは逝かねばならない処だから、少し早い目にどんなところかこの目で事前に確かめておきましょう」 

 そう言って、カレル先生は黄泉の国への招待状であるバスの乗車券を、六人の生徒たちに一通ずつ手渡した。

 

「カレル先生、僕はこのツアーに参加できません。実は僕の魂は身体からなかなか離れてくれないのです」

 大柄な生徒会長の裕大が乗車券を手にして情けない声を出した。

 

「私もファンタジーアの王女なのに、肝心の幽体離脱で失敗ばかりしています」

 咲良が悔しそうに口をとがらせた。

 

「幽体離脱が出来るのは子供の時だけなのだよ。身体が大きくなると、幽体離脱が難しくなってしまう。年長の裕大と咲良はこれがラスト・チャンスかもしれない。リラックスしてもう一度チャレンジしてみようよ」

  カレル先生はみんなを隣のトレーニング・ルームに連れていった。

 

 そこには六つのマットが床の上に整然と並べられていた。

「よーく聞いてくれよ!幽体離脱の方法は二つある」

 

 マットに座り込んだ生徒を前にして、先生は魂を肉体から離脱させる方法を教えた。

「一つ目はいつものやり方、意識を分散させて魂の分身を作りだす方法だ。意識をもうろうとさせて、魂を二つに仕分けるタイミングがキーポイントとなる。ペトロはすでに自分の分身をマイワールドに作っているから、三体目を作ることになる」

 

 先生は裕大と咲良に視線を合わせて、話を続ける。

「次に成功が確実な新しい方法だ・・・肉体を極限まで痛めつけて、耐えきれなくなった魂が肉体から逃げ出すのを待つ方法だ。こちらの方は臨死状態つまり『ひとだま』ができあがるのと同じ理屈だ。痛みの極限状態をどこまで我慢できるか、そこがポイントだ」

 

 カレル教授は鋭い目つきで、生徒を見渡した。

「一つ目は医務室のヒーラーおばさまにお願いして、ヒーリングの超絶技法を駆使して睡眠状態の君たちから魂を分離させる施術をしてもらう。これには30分から40分が必要となる。二つ目はこの私が瀕死の状態を作るお手伝いをさせて頂く。こちらは簡単で5分でできる。ではどちらでも好きな方法を選びなさい」

 

 しばらくしてカレル先生が手持ちぶさたに部屋から出て行った。

 入れ替わりに、緊急連絡を受けた医務室のヒーラーおばさまが、秘蔵の「ハーブ・ボックス」を六つ抱えてトレーニングルームに駆け込んでいった。

 

 30分が経過してトレーニング・ルームから四人が元気に出てきた。

 中学二年のエーヴァと匠、一年生のマリエとペトロが「準備完了です」と、カレル先生に報告した。

 

 本物の身体より少し小さくなった四人の身体は、プラズマのように白く輝き、その上に軽いシャツにジーパン、スニーカーを履いていた。

 さらに10分が経過して、咲良と裕大が身体を小さくして教室に現れた。

「まただめでしたわ」咲良がうつむいた。

「修行不足でした」裕大がつぶやいた。

 

「仕方がない、臨死覚悟でやってみるか!」

 カレル先生が腕まくりをして、いやがる二人をトレーニング・ルームに連れて行くと、ヒーラーおばさまが部屋に一人残っていた。

 

「あら、裕大も咲良もこんなところで何をしてるの。あなたたちのマットをよくご覧なさい!」

 二人はマットを見つめ直した。

 

 六つのマットの上では生徒たちが静かに寝息をかいている。

 その中には咲良と裕大の姿があった。

 

 二人は幽体分離に成功していた。

「ヤッター」咲良と裕大が跳び上がった。

 

「さーてと、先生もそろそろ準備をして、みんなに同行するとしますか」

 カレル先生が恥ずかしそうに、呟いた。

 

「あれっ? カレル先生も黄泉の国のご体験は初めてなのでしょうか? そのお年で随分と奥手ですこと。ヒーラーおばさま! 追加であと一人施術をお願いしますわ」

 咲良が教授をからかった。

 

「咲良! 驚くんじゃねーぞ!」

 カレル教授がいきなり自分の服を脱ぎ始めた。

 

 咲良が慌てて目を逸らそうとしたが、そらせない。

 ハットと服を脱ぎ捨てると、その下から同じようなTシャツにジーパンと紺のブレザー姿の先生が現れた。

 

 その身体はぱちぱちと火花を発して、怪しげな青い色に輝き始めた。

 教授は、プラズマ用の軽いハットをどこかから取り出して斜めにかぶり、ふわりと宙に浮かび上がった。

 

 そして空中から、妖しく咲良に微笑む。

「咲良、このファッションどうかな?」

 

「せ、先生は・・」

 咲良の顔は真っ青。

 

「・・・や、やっぱり・・・本物のひとだま」

 倒れかけた咲良の体を、そばにいた裕大が慌てて支えた。

 

 カレル先生が肉体を失った魂であることを咲良も裕大も、生徒たちみんなも感づいていた。

 カレル先生はとても軽くて、走ると宙に浮かびあがる。

 

 その上相当のお年寄りの筈なのに、とても若く見える。

 いつでもどこでも、エネルギーが切れるとすぐに寝込んでしまう。

 

 でも、カレル先生の正体がたとえ幽体であったとしても・・・大好きな、尊敬する先生であることに疑いはなかった。

 

「みんな集まってくれるかな」

 カレル先生は軽やかに床に着地すると、いつもの調子で生徒を呼び集めた。

 

・・・白状すると、先生は大昔に本物の幽体離脱を済ませているので、今さら離脱の必要は無いんだよ。

 みんなも先生が幽体であることを知っていて、知らない振りをしてくれていたんだと思う。

 幽体の活動に必要な特殊エネルギーを補給するために、先生は週に一度、黄泉の国と往復をしなければならない。

 その物質は先祖の幽体から少しずつ分けて頂くとても貴重なものなので、無駄には使えないのだ。

  今は週に一度、みんなを教えるために、学校と黄泉の国を往復している。

 そんな先生だけど、みんなには、この姿をあるがままに受け止めて欲しい・・・

 

  カレル先生は辛い出来事を思い出して、思わず言葉に詰まってしまった。

  ヒーラーおばさまが椅子から立ち上がって、教授を優しく抱いた。

 

  「出発!」

 元気を回復したカレル先生が、大事のハットを教室の窓から校庭の空高く放り上げて、宇宙遊泳を開始した。

 

「匠、宇宙遊泳って、どうすりゃいいの?」

 咲良と裕大が匠に聞いた。

「簡単だよ。まず両足で思い切り地面を蹴る。幽体は軽いから、宙に浮く。それから遊泳開始だよ。一番スピードが出るのは、クロールをすればいいんだ。腕で水の代わりに空気を掴まえて、身体の下を、後ろに送るんだよ。いつでも息ができるから楽だよ」

 カレル教授が「整列!」とみんなに声をかけた。

「僕の姿が見えるところから決して離れないように! 今日は初心者のために二人ずつペアーを組んで雁形の二列縦隊で行く」

 生徒たちは隊列を組み、地面を蹴って空に飛び立った。

 

 カレル教授が先頭に立ち、エーヴァが咲良を、匠が裕大を横からサポートして続く。

 マリエとペトロがお喋りしながら空を飛ぶ。

 

 上昇を続けてドームの天井に到着した。

 薄青い天蓋をくぐり抜けると、「バス停留所と書かれた黄色い看板が雲の中で揺れていた。

 

 そこには黄色い宇宙バスと黄色い制服を着た運転手が待っていた。

 全員がバスに乗り込んで、シートに落ち着くと、逞しい体をした若い男の運転手が黄泉の国の説明を始めた。

 

「今日は皆さんの人生でただ一度のチャンスです。一番会いたい人に面会が可能です。懐かしいおばあちゃんや、お爺ちゃん、亡くなった友達、誰とでも会えます。尊敬する過去の偉い人に会って、どうしても聞きたいことを質問しても良いのですよ」

 

「いまからお渡しするのは面会希望カードです。会いたい人の名前を書いて下さい。願いを込めて運転席の横の黄色いポストに入れて下さい。面会の時間はきっかり30分です。これだけは守ってください。黄泉の御霊は疲れやすいのです」 

 

 匠は大好きなおばあちゃんのフルネームをカードに書いて、黄色いポストに入れた。

 

・・・小さかった頃、匠の夏の日は毎年暑くなっていった。

 大好きな夏休みがやって来ると、朝早くから畑や森に出かけて、トンボ取りや、魚釣りをして過ごした。

 オスのヤンマは自分の飛び回るテリトリーを決めていて、同じところをグルグル廻って来る。 通り道でじっと待ち構えていて網で捕る。

 

 一匹獲れば後は棒の先に長い糸でくくりつけて飛ばすと、他のオスが誘われて追いかけて来るので、網で獲る。

 

 おばあちゃんや、おじいちゃんが子供の頃は、大きなかごがいっぱいになってヤンマの羽根が痛むので、可哀相だから掴まえたらすぐに放してやったと言っていた。

 

 最後の夏休みの日、午前中かかってようやく銀ヤンマを一匹捕まえた。

 森の中の池からは魚の影が消えたので、もう魚釣りはあきらめていた。

 

 遊び友達が、なぜだかどんどん少なくなって、とうとう一人になった。

 午後になると木陰を探してもなかなか見つからなくて、お腹も空いたので急いで家に帰る。

 

 おばあちゃんが一人で留守番をしていて、匠が大好きな冷たいお素麺をいっぱい作って待っていてくれた。

「今朝は遠くの《牛が首池》までトンボ取りに、一人で行ってきたけど、フナもコイもきれいなタナゴもみんないなくなってたよ」

 

 お腹がふくれた匠は、縁側で寝っ転がりながらおばあちゃんに《今日の報告》をした。

 昼寝を始めた匠を、おばあちゃんは長い間うちわで仰いでくれた。

 

 夕方になるとおばあちゃんが「さー匠、そろそろトンボを家に帰してあげましょう」と言った。

 かごから庭に放してやると、銀ヤンマは真っ赤に燃え上がった夕空に舞い上がって、嬉しそうに山に帰っていった。

 おばあちゃんも目を細めて嬉しそうに笑っていた。

 

 次の日、朝からママが目を真っ赤にしているので、どうしたのと聞くと、おばあちゃんが亡くなったよと言った。 

 匠は思い切り泣いて、おばーちゃんにお別れをした。 

 それ以来トンボも姿を消した。

 

 今日はもうすぐ大好きなおばあちゃんに会える。

 本当に久しぶりだ。  
 

「終点です」

 運転手の声が聞こえて、匠の目が覚めた。

 

 広場の真ん中に「バス停・終点」と書かれた黄色い案内板が立っていた。

 広場はいくつものふわふわの白い雲が小さな小山のように折り重なってできていた。

 

 黄色い髪をした案内人が二人も待っていてくれて、生徒を一人ずつバスから離れたところに連れて行った。

「匠君だね、お待たせしました」

 

 最後に残った匠は、案内人に先導されて、雲の小山をいくつか越えて、小さな窪地に着いた。

 凹みには小さな可愛いベンチが匠を待っていた。

 

 ベンチに座って、おばーちゃんを待つように、と言って案内人はバス停に戻っていった。

 ベンチは雲で出来ていて、座ると身体が沈み込んで、とても居心地が良かった。

 

 ふと気がつくと、仲間の姿がどこにも見えなかった。

 心細くなった匠は、肩に担いできた小さなリュックを横に置いて、腕組みをした。

 

 それから、おばあちゃんの事だけを考えて、静かに待つことにした。

 時間がたって、匠は立ち上がった。

 

 足踏みをして、、また座り込んだ。

 もう待ちきれなくなったとき、白い雲の切れ目からおばあちゃんが現れた。

 

「匠!」おばあちゃんは大きな声を上げて両腕を拡げた。

 匠はおばあちゃんの胸に飛びこんでいった。

 

 おばあちゃんは昔のままでちっとも変わっていなかった。

 二人で隣り合わせにベンチに座ると、匠はおばあちゃんがいなくなってからいっぱい溜まってしまった《今日の報告》をしたくなった。

 

「あの日縁側でどこまで話したっけ」

 匠が聞くと・・・。

 

「《牛が首池》の魚がいなくなったとこまでだよ」

 おばあちゃんはあの日のことを覚えてくれていた。

 

 匠はそれから友達が一人もいなくなったことや、緑がどこかへ消えたこと。

 大阪の田舎の家から東京の学校にママと一緒に移ってきたこと。

 

 新しい学校には世界から集められた五人の仲間と家族がいて、一緒に暮らしていること。

 おじいちゃんに習った武術の練習を今でも毎朝一人で続けていること。

 何から何までみんな話した。

 

   おばあちゃんはにこにこ笑いながら、匠の話を最後まで聞いてくれた。

 匠はリュックを開けて、おばあちゃんとおじいちゃんへの贈り物を取り出した。

 

 匠のマイ・ワールドで育てた大きな柿の実だ。

 昔、おじいちゃんとおばあちゃんが結婚記念日に田舎の家の庭に植えて大事に育て上げ、毎年食べるのを楽しみにしていた柿の木は、東京の学校へ移ってくる前に枯れてしまった。

 

 匠は悲しくて、マイ・ワールドに柿の木の苗を植えて、育てた。

 実が見事に大きくなって、今が食べ頃だ。

 

「今朝、僕が木に登って取ったんだよ。二人で食べてくれるまでは、幻になって消えてしまわないように念力をかけてあるんだ」

 匠が自慢をすると、おばあちゃんは柿の実をバッグに大事にしまい込んで、匠をしっかり抱きしめた。

 
 おばあちゃんはとても軽くなっていた。

 匠がおばあちゃんを抱きしめ返すと、おばあちゃんの身体が空中に浮かび上がってしまった。
 

 慌てておばーちゃんをベンチに戻して、二人で大笑いした。

 おじいちゃんから匠へのメッセージを預かってきましたよ、とおばあちゃんがいった。

 

「匠の身体にはおじいちゃんからの贈り物がしっかり組み込まれているそうですよ。それは《絶対諦めないアスリートの魂》ですって。苦しいときはおじいちゃんを思い出してその魂を取り出して、自分を励ましなさい。きっと役に立ちます、そう言ってましたよ」

 

 匠は、武道や遊泳の基本を教えてもらったおじいちゃんを思い出して、何が何でも会いたくなってきた。
 

 ピッ、ピッ! と腕の時計が鳴った。

 あっという間に約束の30分が過ぎてしまった。

 

「ママと元気に暮らすのですよ」

 最後にもう一度匠を抱きしめると、おばあちゃんは何度も何度も振り返りながら、雲の中へ消えていった。

 匠は、おじいちゃんはきっとおばあちゃんと一緒に暮らしているのに違いないと思った。

 

 どうしてもおじいちゃんに会いたくて、我慢できなくなった匠は、おばあちゃんのあとをこっそり付けて行った。

 

 雲の小山に隠れながら、見え隠れするおばーちゃんの後ろ姿を追いかけている中に、乳白色の濃い霧が出てきて、視界が遮られた。

 

 気が付くとおばあちゃんの姿が消え、匠は迷子になっていた。

 その上、風まで強くなって来た。

 

 強い風が吹きつけてきて、匠の身体はいつの間にか黄泉の国の暗い片隅に運ばれていった。 

 

 ・・・集合場所のバス停に生徒たちが次々と帰ってきた。

 マリエはいつも一緒だった教会の近くの農家の親友、エーヴァは一枚も売れない気のいい画家のおじいちゃん、裕大はよく怒られた部族長のおじいちゃんに会ってきていた。

 

 咲良は作家のミハエル・エンデ先生とファンタジーアの将来をどうするか相談してきたわよ、と自慢した。

「なんてったって先生の小説の世界『ファンタージェン』は、咲良の世界『ファンタジーア』と見えないトンネルで繋がってるんだから」と咲良は断言した。

 

 ペトロは、真っ白いもじゃもじゃ頭のアインシュタイン博士に会って、2016年の宇宙物理学界での出来事を報告していた。

 ペトロは壇上の科学者に、宇宙の法則を修正してあげた話をする。

 

 感激したアインシュタイン博士は、ハル先生が取り組んでいる宇宙の第二方程式のヒントを思いついて、ペトロの用意した電子メモ帳に書き込んでくれた。

「ハル先生が大喜びするぞ」と、ペトロは電子メモを持って跳びはねていた。   
 

 黄泉の国の案内人が慌て始めた。

 面会の時間はとっくに過ぎているのに、匠だけが帰ってこない。

 

「ベンチの側の白い雲に残されたスニーカーの足跡では、匠は祖母の後をつけていったものと思われます。行方不明です」 と案内人が言った。

 今度ばかりはカレル先生も途方に暮れた。

 黄泉の国に結界の張り出し保険はかけられない。

 

 匠が迷い込んだ黄泉の果ては、リアル・現実の領域だった。

「匠が危ない!」

 

 先生は匠を求めて、頭上を流れる白い霧の中に飛び込んでいった。

 黄泉の案内人が数人、一斉に後を追っていった。

 

・・・こんな雲ばかり広がる世界で、霧が流れて、風が吹き荒れて、視界がゼロで、カレル先生はどうやって匠を見つけるつもり?・・・

 五人の生徒は顔を見合わせた。

 

 ペトロが小声で聞き覚えのある唄を歌い始めた。

「こんな時に童謡なんか歌って何事よ!」

 匠と仲良しのエーヴァがペトロに目をむいた。

 

 ペトロはリュックを肩から外すと、水筒を取り出して、一口水を飲んだ。

 それから、リュックの底をかき回して、大きな鍵を取り出した。

 

 鍵を自分の胸のポケットの鍵穴にさし込んで、カチリと廻す。

 ペテロの胸のあたりから青い風船のようなものが現れて、プーッとみんなの背丈の三倍ぐらいに膨らんだ。

 

 ペトロは、マイ・ワールドの鍵をいつもリュックに入れて持ち歩いていた。

「ヤットコ、ヤットコ繰り出した・・」

 

 ペトロが調子外れに歌い始めると、風船の中から10頭の騎馬と10人の兵隊がばらばらと転がり出してきた。

 ペトロの歩兵軍団は、羽の生えた騎馬軍団にパワー・アップされていた。

 

「いいかお前達、霧の中から匠を探し出して、ここへ連れ戻して来るんだ。必ずだ!」

 騎馬兵に命令を下すと、匠はリュックから指揮棒を取り出して振り上げ、一拍おいた。

 

「サー、みんな、いこうぜ! おもちゃのマーチだ」

 目を丸くしているみんなの前で、指揮棒が一気に振り下ろされた。

 

 みんなは「おもちゃのマーチ」を空に向かって声を合わせて歌った。

 歌声が風に乗って舞い上がると、騎馬軍団は空高く雲を蹴り、白い霧の中に消えていった。

 

 匠は懸命に泳いでいたが、何の目印も無い霧の中では、黄色いバス停の方向が分からなくなった。 

 疲れ果てた匠は灰色の霧の中を流されていった。

 

 疲労が限界までやってくると、魂が抜け落ちていくように心地よかった。

 匠は風と霧に身を任せて漂い始めた。

 

「匠! 諦めてはだめだ!」
 叱咤する声が身体の中から聞こえた。

 

 おじいちゃんから受け継いだ「アスリートの魂」が目を覚まして、五感を蘇らせる。

 遠くから、仲間の歌う声が風に乗って聞こえてきた。

「ペトロだ! ペトロの兵隊の歌だ」

 匠は声を張り上げて歌った。

 

 霧の中から、一騎、二騎と騎馬兵が現れてきた。

 先頭の騎馬兵が匠を担ぎ上げ、馬上に乗せた。

 

 騎馬兵は集合して一列に並び、生徒たちの歌声に向かって戻っていった。

 霧が晴れて、騎馬軍団が生徒たちの頭上に現れた。 

 

 先頭の馬上で、匠が元気に歌っていた。

 天馬の背中から飛び降りた匠に、ペトロが駆け寄った。

 

「こら匠、一体どこで遊んでたんだよ!」

 ペトロが背伸びして匠の頭をゴンと叩いた。

 

 みんなが走りよってきて、匠の頭をぼこぼこにした。

 

・・・帰りの宇宙遊泳はとても楽だった。

 バス停からジャンプするとあっという間に学校の校庭に着陸した。

 

 みんなはトレーニングルームに駆け込んで、

 気持ちよさそうに寝込んでいる自分たちの身体を確認した。

 

「ただいま」と言いながら、幽体から生身への帰還を無事果たしていった。

 

・・・それにしてもペトロのサイコキネシスは進化したもんだ。ファンタジーアを離れた黄泉の国でも幻想を実体化するまでの力を身につけていたとはね。参った参った!

 

 カレル教授はぶつぶつと独り言を言いながら、ペトロの頭を一撫でして個室へ戻り、そのまま特殊魔法瓶に潜り込んで、ぐっすりお休みになった。

 

   ペトロはハル先生を探していた。

 ハル先生の部屋まで行って、ドアをノックしてみたが、返事がない。

 

 部屋の中から小さな音が聞こえるので、ノブを回してドアを少し開け、中を覗き込んだ。

 部屋の中には誰もいない。

 

 デスクが窓際にあって、その上のナノコンが勝手に軽やかな音を立てていた。

 

「ハル先生!」と呼んでも誰も出てこないので、ペトロは諦めてドアを締め、Uターンして教室に戻り始めた。

「ペトロ! どうかしたの?」

 いま閉めたドアが開いて、中からハル先生が顔を出した。

 

「あれっ、先生、部屋にいらしたのですか?」

「お入りなさい。デスクに向かって仕事していたのですよ」

 

 さっきは確かに誰の姿も見えなかったのに、僕の勘違いかなと思いながら、部屋に入って、小さなメモリーをハル先生に差し出した。

 

「これ、お土産だよ。黄泉の国でアインシュタイン博士とお会いして、議論して来たんだ。これは博士から頂いた宇宙の第二方程式のヒントだよ。ハル先生のお役に立てれば良いのですが、とおっしゃってたよ」

 ハル先生は「きゃっ!」と叫んで椅子から飛び上った。

 

「ペトロ、一緒に見てみましょう」

 先生が震える手で、ナノコンにメモリーを差し込むと、博士からのメッセージと手書きのサインがディスプレーに現れた。

 

「ハル先生! 気をつけてください。宇宙はやはり加速膨張を続けているようです。宇宙の第2方程式を完成するのには、宇宙空間の歪みの解明と幸運が少し必要かもしれません。A・アインシュタイン」

 

 ハル先生は「宇宙空間の歪みの構図」と書かれた同封のファイルを開けると、ナノコンに慎重に写し替え、直ちに計算に取りかかった。

 ハル先生の目がめらめらと燃え上がっていった。

 

 これはだめだ! ハル先生はもう半日は計算の世界から帰ってこない。

 ペトロは先生の邪魔にならないようにドアをそっと締めると、教室に戻った。
 

 教室で匠が一人残って、ペトロの帰りを待っていた。

「ペトロ、今日は助けてくれてありがとう!」

 

  匠はぺこんと頭を下げてペトロにお礼を言った。

 それから「さっきのお返しだ」といってペトロの頭を軽く叩いた。

 

 匠のスマホでラインが騒いだ。

「門の前にいます。ママ」

 

 カレル先生からの緊急連絡で匠のママが迎えに来ていた。

 おばあちゃんと話した「今日の報告」をママにしたくて、匠は一目散に校庭に駆け出していった。

 (続く)

続きはここから読んでくださいね。

https://tossinn.com/?p=871

 

【すべての作品は無断転載を禁じております】

この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(後編)

 灼熱した地球でたくましく生きる6人の子供たち

 

 

 

 

 

 

の~んびりした人類絶滅物語です。

 21世紀の末、人類が絶滅した地球に残された六人の中学生が、カレル先生に連れられて2016年の東京へタイムワープします。

 リアルな世界、東京は一度逝ったら決して戻れない怖い世界です。

 初めての繁華街で迷い、遊んで、大きなホテルで休憩した後・・・生徒たちはカレル先生が子供時代を過ごした郊外の実家で、楽しい一夜を過ごしました。

 その夜、少年時代のカレル君とハルちゃんの秘密の計画を知ってしまいます。

 翌日、六人はネイチャーアドベンチャー号で東京近鄕の山に出かけて、初めての自然観察と川遊びをします。

 しかし、そこで六人を待っていたのは、突然の極地豪雨と恐ろしい暴風でした。 

 

全編は、下記をご覧くださいね。

この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(中編)

 

2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(後編)

 

めっちゃ腹減った!

 朝早く、マリエがベッドで叫んだ。

「ワオ―!昨日の晩ご飯、あんなに沢山頂いたのに、どうしてこんなに飢えてるの?」

 エーヴァが両手を天井に向けて思い切り伸ばす。

 

「ここは空気がきれいだから、あっという間にお腹が減るのよ」

 咲良が窓を開けて、朝日が届けてくれる柔らかい風を胸一杯、吸い込む。

 

 朝の食事はカレルのママが用意してくれたものではとても足りなくて、生徒達はリュックか

ら非常食と飲料水をいっぱい持ち出して来た。

 カレルのママが目を丸くして見守る中、みんなは昼食用に少しだけ取って置いて、残りを完食してしまった。

 

 軽くなったリュックを担いで、生徒たちがカレル家の門の前に集合した。

 おじさんとおばさん、カレル少年とブー太郎が見送りに出てきた。
 

 集合時間きっかりに、カレル先生が寝ぼけ眼で現れた。

 最後にマリエが「遅れて御免なさい」と言って道の向こうから走ってきた。
 

 全員がそろうと、生徒たちは横一列に並んで、カレル家の人々にお礼を言った。

 「たいへんお世話になりました。ごちそうさまでした」

 

 ブブー!と騒々しい音がして「ネイチャー・アドベンチャー号」の表示板をつけた10人乗りの小さなバスが現れて、門の前に止まった。

 ものすごく大きなサングラスをかけた背の高い外国人みたいな運転手が降りてきた。

 

「お待たせしました。ただいまからネイチャー・アドベンチャーの旅にご案内いたします。どうぞご乗車ください」

英語みたいな日本語で運転手が喋った。

 

「裕大兄ちゃん!あの運転手どこかでみたことあるよ」

「何言ってんだペトロ、ここは2016年の東京だぞ。バスの運転手を知ってる訳ねーだろが・・」

 

 ペトロは首をかしげながら、バスに乗り込んで、一番後ろの席に着いた。

 バスがゆっくり動き出すと、生徒たちは窓から身を乗り出して、カレル家の人たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。

 

 カレル先生は一番前の助手席に座ると、すぐに椅子をリクライニングした。

 サングラスの運転手に、登山口に着いたら起こしてくれるように頼んで、愛用のハットで顔を隠し、さっさと寝込んでしまった。

 

 マリエがペトロの席にやって来て、横の空いているシートを指さした。
「ここ、座ってもいい?」

「いいよ。でもさっきはどうして集合時間に遅れたの?」

「カレル家のすぐそばに可愛い教会があるのを、昨日見つけておいたの。朝の礼拝に行ってきたわ。昔からのお勤めなの」

 

 マリエはポーランドのワルシャワ郊外にある小さな教会の娘だった。 

 教会は丘の上にあった。

 

 丘の麓からどこまでも続く一本道は緑の畑に囲まれていて、その先は地平線に重なって消えていた。

 マリエは教会の自分の小さな部屋から、外の世界を眺めるのが大好きだった。 

 

 一本道の両側には農家が点在していて、どの家にもマリエの友達がいた。

 日曜日には友達が両親に連れられてミサにやって来た。

 

  ミサのあと、マリエは友達とお喋りをして遊んだ。

 そんなある日、急に丘の空気が熱くなってきた。

 

 黄色い太陽のせいで、地平線が黄色くなった。

 そのうち、畑も丘も茶色い荒れ地に変わっていく。

 

 マリエには病気の原因がよくわからないのだけれど、友達や、知り合いの人やその家族が次々に亡くなっていった。

 教会の毎日はお葬式でとても忙しくなる。

 

 日曜日は逆にミサに来る人の数がどんどん減っていく。

 ある日の朝、牧師のパパの姿が消えた。

 

 ママはパパが天に召されたと言ったけれども、マリエは信じない。

 マリエに挨拶なしでパパが黙って消えるはずがない。

 

 パパはどこかにいる。

 マリエはパパがいつか帰ってくるまでお祈りを続けることにした。

 

「さっき教会でお祈りしたら、神様に私のお祈りが届いて、しっかり聞いてくれてたわ。ドームの世界ではね、いくらお祈りしても神様の声はもう聞こえない。人間を守ってくれる神様はいなくなったの」

 となりのシートからペトロに話しかけるマリエの表情がふっと曇った。

 マリエはいつもどこか遠くを見ている。

 

 ペトロはそんなマリエのことがとても心配で気にかかる。

「はい、これ!カレル君からペトロに秘密のプレゼントだって」
 

 マリエがこっそりペトロに新聞を手渡した。

 日付は今日、朝刊だ。

 

「宇宙物理学会は大混乱!天才少年かいたずらか?」

 一面に大きな見出しで、監視カメラのぼやけた顔写真と「少年の行方を捜しています」と言う囲み記事が掲載されていた。

 

「その新聞、先生には絶対見せない方がいいよってカレル君が言ってたわ。むちゃくちゃ怒られるって」 

 慌てたペトロはバスの助手席にいるカレル先生を、身体を伸ばしてちらっと見た。

 

 先生はいびきを掻いて熟睡している。

 ペトロは一安心して、マリエにお礼を言ってから、さっき別れたカレル君にも小さくお礼を呟く。

 

 それから新聞を小さく畳んで自分のリュックの底に隠した。

 

 みんなを乗せたバスは山の斜面をS字にカーブしながら、坂を登り切って目的の登山口に着いた。

 カレル先生は、運転手に荒っぽく起こされて急いでバスから飛び降りる。

 

 「うーん」一つ大きな伸びをして、先生は周りの山々を懐かしそうに眺めた。

 マリエがまねをして小さな伸びをして、まわりの山々を眺める。

 

「今日は午後から天気が変わるかもしれないから、皆さん気をつけて下さいよ」 

 運転手がラジオの天気予報を伝えて、「帰りのお迎えはいいのですね?」とカレル先生に何度も念を押した。

 

 先生が頷くと、運転手はでっかいサングラスをかけ直してバスをUターンさせ、元来た道を戻って行った。 

 

 カレル先生は子どもの頃、夏休みにパパに連れられてこの山を何回も登っていた。

 

 曲がりくねった細い登山道や、迷い込んだら危ない脇道や、冷たくておいしい飲み水の湧いているところや、雨が降るとでっかいミミズが出て来て、たまり水で足が滑ってひっくり返るところや、絶対に近寄ってはいけない崩れそうな崖や、瓦礫で危険な川筋を今でも良く覚えていた。
 

 今日は一番安全な道を選んで、生徒たちを先導して行く。

 急坂をしばらく上ると、少し開けた場所にたどり着いた。

 

 そこは日当たりのいい小さな広場になっていて、生徒の背丈くらいの樹木と小さな草花でいっぱい覆われていた。

 

「全員集合!いまから昆虫採集を始めまーす」

 先生の大きな声が青い空に突き抜ける。
 

 カレル先生はナップザックから大きな白い布を取り出して、ふわふわした白い花が一杯咲いている樹木に近づく。

 匠とペトロを呼んで、布の四隅を持たせて、木のすぐ下の空間に拡げさせた。

 

 次に細長い枯れ枝を裕大に渡して、花の付いた樹木を上からとんとんと叩かせた。

 甘い香りに誘われて白い花に集まっていた昆虫が、ばらばらと白い布の上に落ちてきた。

 

 白い布の上では色の付いた昆虫は丸見えだ。

 ひっくり返っている昆虫たちを、咲良とエーヴァとマリエがピンセットでピックアップして、小さな観察用のガラス瓶に入れていく。

 

「これは新種だ。おまえは珍種だ」

 ガラス瓶の中の昆虫を、カレル先生が一匹ずつ生徒に解説していった。

 

「カメちゃん!元気か。久しぶりだな」

 先生はカメムシというくさい匂いのする虫にキスをした。

 

 匠がまねをしてカメムシにキスをした。

「おえーっ!」

 

「匠、仲良くしろよ!虫も人間も生き物は先祖をたどれば、みな海の中で生まれたらしいぞ。

 おれたちみんな海から生まれた兄弟なんだ」と先生はいう。

 

 生徒たちが暮らしているドームに昆虫はいない。

 指の先ほどの小さな生きものが、ガラス瓶の中から命がけで逃れようとする様子に生徒達は心を奪われていた。

 

「お疲れさん。君たち解放の時だ」

 先生の合図で、生徒たちは観察を終えた昆虫を、ガラス瓶から白い捕獲網の上に放してやった。

 

 一センチほどの小さな金色のコガネムシが捕獲網から飛び立とうとして、薄い羽根を必死でぷるぷると震わせた。

「がんばれ!」マリエが両手を握りしめて叫んだ。

 

 マリエの大きな声に驚いた虫たちが一斉に飛び立って逃げていった。

 

・・・再び山道を登ると、道幅は狭くなり、危ない急斜面が続いた。

「確かこのあたりだ」先頭のカレル先生が立ち止まった。

 

「小休止!」

 カレル先生は、愛用のハットを脱いでバタバタと顔を仰いで、辺りを見渡す。

 

「先生、前方、右斜め下に渓流発見!」

 匠が、木々の隙間から、急斜面の下に細い渓流が日光を浴びて銀色に輝いているのを見つけた。

 

 飛び散る飛沫の中に小さな影がちらちらと動いていた。

 「ここだ。間違いない、あの渓流は先生が中学生の頃、魚獲りをした秘密の場所だ」

 

 先生は細い下り道を見つけると、周りの木に掴まりながら後ろ向きに降りていく。

 六人が大騒ぎをしながら先生のあとについて降りる。

 

「しっ!静かに!」

 先生が川の流れを指さした。

 

 流れの速い岩場を、数匹の魚が流れに逆らって上流に向かって泳いでいる。

「あれは岩魚(いわな)だ」

 

・・・上流から落ちてくる昆虫とか、エサになるものなら何でも食べようと待ち構えているんだ。

川魚は人の影が見えたらさっと岩陰に隠れるからな。

いいか、隠れた場所をよーく覚えておくんだぞ。

隠れている岩魚にそーっと近づいて、一気につかみ取りだ・・・。
 

 先生は用意しておいた軍手をナップザックから取り出してみんなに手渡した。

「岩魚をつかんでも滑りやすいから、これでしっかり押さえるんだ!」
 

 水辺に近づくと、人影が水面に落ち、泳いでいた岩魚はさっと散って、岩陰に隠れ、姿を消した。

 ペトロは靴を脱いで、ズボンの裾をまくり上げて、流れに忍び込んだ。

 

 覚えておいた岩陰に近づくと、そーっと両手を下から伸ばした。

 魚の身体に手が触れると、一気に両手で掴みかかった。

 

 魚はすばしこく跳ねて逃げていった。

 裕大がようやく小さい岩魚を一匹掴まえた。

 

「10センチに届かないのは子供だからリリースしなさい」

 先生に促されて、裕大が渋々放してやった。

 

 エーヴァと咲良とマリエが三人チームで追いかけ回して、砂場に追い詰め、でかいのを一匹掴まえた。

 

・・・しばらく姿を消していた匠が、上流から戻ってきた。

 20~30センチぐらいの脂がのった立派な岩魚を10匹も獲っていた。

 匠は、2本の岩笹で結わえた岩魚をみんなの目の前でぶらぶらさせた。

「お前すげーな、どうやってとるんだ?」 

一匹も掴めなかったペトロが匠に聞いた。

 

「ペトロ、大発見だ!いいか、魚は後ろ向きには泳げない。魚の気持ちになって、頭の方から逃げ道を抑えるんだ。あとは両手で素早くゲットだ!」

 ペトロが「了解!」と言ってトライしたが一匹も掴めない。

「集合! 匠のおかげで旨そうなのがいっぱい獲れたからもう十分だ。自炊の準備だ」

 

 みんなは川岸に打ち上げられている乾燥した木ぎれを集めて来た。

 川のそばで火を起こし、小さな枝をナイフで削って串を作った。

 

「ご免なさい、お命、頂きます」

 両手を合わせて拝んでから、カレル先生は用意した塩を岩魚にまぶして、一匹ずつ頭から串に突き刺した。

 マリエが横で十字を切った。

 

 先生は、できあがった串を焚火から少し離して、地面に斜めに立てた。

 焼き上がってきた岩魚の脂がしたたり落ちて、香ばしい匂いがみんなの鼻を突く。

 

 こんがり焼き上がると紙の取り皿に移して身をほぐし、先生の用意してきたショウガ醤油をかけた。 

 飯ごうで炊き上げたご飯に、岩魚の身をまぶして一気に食べた。

 

「ウメーッ!」 全員でがっついた。

 

 食事が済むと水生動物の生態観察が始まった。

「川にはトンボのヤゴや、カゲロウやトビケラの幼虫や、小さな山椒魚の子供やいろんな生き物が隠れてるよ」

 

 カレル先生に教えられて、生徒たちは大きな岩をひっくり返して、底にへばりついている生き物の観察を始めた。

 みんなは時間を忘れて夢中で遊んだ。
 

 カレル先生は岸辺の草むらに入って、昼寝を始めた。

 先生は中学生の頃、この岸辺の草むらに一人で入り込んだ時のことを思い出していた。

 

・・・あのとき、僕の足音に驚いた蝶の大群が、隠れていた草むらや低木から一斉に飛び立って、空をピンク色に染めて舞った。

 薄いピンク色をした中型の蝶々、アサギマダラは夏が近づくと、遠いところからはるばる海を渡って山深い渓谷に集まってくる。

 きっと子孫を残すために大きな群れになるんだ・・・。

 先生は少年に戻って、優しいピンクの風に身を任せ、蝶の群れに乗って飛翔していた。  
  

「さわさわ!」 

 不思議な風の音が上流から聞こえて来た。

 川遊びをしていた咲良が物音に気付いて小首をかしげた。

 咲良は、音の正体を確かめようと、流れの中の大きな岩に登って立ち上がった。

 

 幻想の世界「ファンタジーア」の王女・咲良には、ときどき誰にも聞こえない音が聞こえた

り、誰にも見えない景色が見えたりする。

 ひとときが経ち、川の上流から淡いピンク色をした、目も覚めるような蝶が群れをな

して風に流されてきた。

 

 咲良はアサギマダラの群翔の中にいた。

 蝶たちは咲良にぶつかりそうになるとひらりひらりと身をかわす。

 

 そして慌てた様子で集まり、下流の方に群れて飛び去っていく。

 咲良は岩の上に立ち尽くして蝶の群れが飛び去るのを眺めた。

 

 さわさわという音の正体は蝶の群れを運ぶ沢風の音だった。

 咲良には、その音がなにかよくないことが起きる前兆に聞こえた。

 

 蝶はなにかに怯えて逃げている。

 咲良は岩の上で待ち構えた。 

 

 「ざわざわーっ!」

 風の様子がいきなり変わった。

 蝶の群れを追い立てるように、上流から強い風が吹き付けてきた。

 風に巻き込まれた木の葉が咲良の顔や身体にぶつかっては散っていく。

 

 咲良は風に吹き飛ばされそうになりながら、岩の上に両足を踏ん張って堪えた。

 蝶の群れを追いかけて遊んでいたマリエとエーヴァが、突風に身体を持って行かれて流れに倒れ、悲鳴を上げた。

 

 咲良は、乱暴な風に向かって両手を力強く伸ばして、命令を発した。

「私はファンタジーアの王女、咲良! どうか静かにして下さい! お願い、止まって下さい! こら、止まれ!」

 

 咲良の声が渓谷に響いた。

 咲良には乱暴な風の正体がはっきりと見えた。

 

 それは半透明で緑色の輪郭をしていた。

 咲良は岩の上で背筋を伸ばし、握りしめた両の拳を、風の心臓部めがけて突き刺した。

 

「鎮まりなさい!」咲良の声が響き渡った。

 勢いよく沢を駆け下りてきた風は、不意に咲良の拳に体を貫かれて、慌てて立ち止まり、その姿を現した。

 

 巨大な二つの緑の目が、岩の上に立つ咲良の顔を見つめ、咲良の心に探りを入れた。

「俺様に鎮まれだと? 何だ、この娘は・・・森に住む幻想一族の者じゃないか」

 

 風は、警告のひと風をビユッと咲良の顔に吹き付けた。

 そして散らばった身体を集めると、蝶の群れを追いかけて、川下に向かって通り抜けていった。

 咲良には風が吹きかけていった一声が、はっきりと聞こえた。

「咲良とやら!俺よりもっとでかい奴がすぐやってくるぞ。危ないぞ、気をつけろよ!」

 風の声は警告をしていた。

 「早く逃げろ!」

 

 咲良は岩の上から仲間を振り向いて叫んだ! 

「みんなよく聞いて! いまの強風よりもっと大きなのがすぐここへやってくるわ! お願い! 急いで岸辺に逃げて!」

 

 エーヴァとマリエは蝶の群れの残りを追いかけていた。

 裕大と匠とペトロは川の中で水を掛け合っていた。

 

 咲良の声はまるで耳に届いていない。

 咲良は、血相を変え、声を限りに叫んだ。

 

「恐ろしいのがすぐにやってくるわよ! みんな早く川から逃げなさい!」

 咲良の顔が、今まで見たことがないような鬼の形相に変わっている。

 マリエとエーヴァは怖くなって、慌てて岸に上がった。

 

 木陰で、のんびりと昼寝をしていたカレル先生が咲良の甲高い声で目を覚ました。

 ポケットの中で、昨晩のお礼に、ドームで出会うまでカレル少年から借りてきたスマホがなにか叫んでいた。

 取り出して見ると画面に緊急避難警報が入っている。

 

 先生は驚いて立ち上がり、生徒たちに向かって大声を上げた。

「この川の上流で局地豪雨だ! 早く川からあがりなさい!」

 

 水際に残っていた男子生徒も水をはね飛ばして、岸に駈け上がった。

 

「ゴーッ!」

 大地が震えるような音が上流から響いてきた。

 突然、川の水かさが増して、上流の水面はふくれ上がっている。

 

「鉄砲水だ、みんな川から離れろ!」

 カレル先生が慌てて叫んだ。 

 生徒たちは近くの森に向かって逃げ出した。

 

「あれっ?」

 森の手前で、裕大が仲間の数が一人足りないことに気が付いた。

 

 振り返ると咲良がまだ川の真ん中にいた。

 逃げろ!と叫んでいた咲良が一人岩の上に残っている。

 

 裕大は慌てて川岸まで走って戻った。

「咲良、戻ってこい。咲良!」

 裕大がいくら呼んでも咲良は振り返りもしない。

「止まれ! 静まれ! 消え失せろ!」

 咲良は両手を拡げて、上流から迫ってくる水の流れに向かって叫んでいた。

 

 咲良は幻想の世界、ファンタジーアの王女だ。

 

 ファンタジアーアでは咲良が三回表現を変えて命令すると邪悪な者たちは立ち去って行く。

 緑の怪物は理解したのに、どうしたのか、今度の邪悪な奴は姿も見せない。

 

「止まれ! 静まれ! 消え失せろ!」

 咲良は濁流に向かって両腕を突き出し、命令を繰り返した。

  
  裕大が気が付いた。

 アフリカの原住民の子孫、裕大は現実の怖さを知っていた。

 リアルから一度、危険な旅に足を踏み外すと、この世に戻ってくることができない。

 幻想の森から出てきた咲良は、現実というものの怖さをまだ知らない。

 

 迫ってくる濁流に向かって、恐れることはないと、一歩も引く気がない。

 裕大は咲良を助けようと決めて、頭から流れに飛びこんでいった。

 

 カレル先生が、咲良と裕大が濁流の中にいるのを見つけ、茫然と岸辺に立ちすくんだ。

 先生の軽い身体では、こんな流れの中では二人に近づく前に自分が一気に押し流されてしまう。

 

 濁流が音を立てて盛り上がり、岩の上の咲良を呑み込もうとした。

 裕大は岩に飛び乗ると、咲良の身体を後ろから両腕で担ぎ上げ、岸辺に向かって力の限り放り投げた。

 

 咲良の身体が水際に落ち、カレル先生と匠が咲良の手を掴んで岸に引っ張り上げた。  

 咲良と入れ違うように、濁流が裕大を襲った。

 

 裕大は流れに足を取られて岩から転び、うねりの中に呑み込まれていった。

 カレル先生が、覚悟を決めて裕大を助けに飛び込んで行った。

 

 瞬く間に、二人の姿は荒れ狂う流れの中に消えていった。

 

 震えている咲良を真ん中に囲んで、生徒たちは森の大きな木の下で身体を寄せ合って、雨と横なぐりの風をしのいでいた。

 冷え切った身体を足踏みをして温め、声を掛け合いながら、先生と裕大が戻ってくるのをいつまでも待った。

 

 夕闇が近づいた頃、びしょ濡れのカレル先生が疲れきった様子で戻ってきた。

 先生の表情が凍り付いていた。

 

「裕大を見うしなった!」

 先生は咳き込みながら、声を絞り出した。

「裕大は濁流に呑まれて、川下へ流されてしまった」

 

 生徒たちは声もなく青ざめ、雨の中を立ちつくした。

 咲良が声を上げて泣き出した。

 

 雷鳴が轟いて、すぐ側に稲妻が落ちた。

 カレル先生と五人の生徒は身動きが取れなくなった。

「ここにいると全員が危ない。いったん元の世界にもどろう!」

 先生が深刻な顔つきで、タイムトラベル・スオッチを、学校を出発した日の翌日の午後1時に合わせるように生徒たちに指示した。

 

 「GO!」

 先生の合図でみんなは一斉にスオッチを稼働させた。

 一瞬にして世界は銀色に輝き、豪雨と雷鳴はあっという間に遠い過去へと流れ去って行った。  
 

 見慣れた教室が目の前に現れ、みんなはびしょ濡れのまま、椅子に座り込んだ。

 だが、どこかへいってしまって戻らない生徒が一人出てしまった。

 

 カレル先生は「リアルの世界と実習講座」と書かれた教壇の大きな電子ボードに「裕太は

逝ってしまった」と書き加えた。

 咲良がまた泣きだした。

 

 他の四人は泣くのを必死にこらえている。

 カレル先生はボードの「逝」という字を二本線で消して、「行」という字に書き変えた。

 

「咲良がみんなを助けて、代わりに裕太が『行って』しまった。先生はこれからもう一度、裕大を探しに出かける」

 先生はスオッチをもう一度ONにした。

 

 先生の身体は銀色の光に包まれて輝き、次の瞬間四方に飛び散って時空の薄闇に消えていった。

 

・・・医務室のヒーラーおばさまが、教室にやってきて、大きな乾いたタオルをみんなに優しく配った。

「さー、みんな、このタオルで身体をよく拭いて、温まりなさい。心配しないで、二人の帰りを待ちましょう」

 
 教室のドアがバタンと開いて、突風が吹き込んできた。

 愛用のハットを斜めに被ったカレル先生が、全身ずぶ濡れの裕大を連れて帰ってきた。

 

 裕大が元気に手を振ると、咲良が裕大めがけて飛びついていった。

 カレル先生が黒板の前に立って真面目な顔をして講釈を始めた。

 

・・・リアルの世界には気をつけろと、みんなに言っておいたはずです。

21世紀の始め頃から地球の環境は大きく乱れ始めたのです。

さっきの山も緑が少なくなって、保水能力が落ちたところに、局地豪雨に見舞われて、とんで

もない鉄砲水があふれたのです・・・

 

 カレル先生は濡れたハットをタオルで包んで水気を取った。

・・・でも今回は初めてのタイムトラベルなので、万一に備えて私たちの世界から「結界」を設けておいたから裕大を無事取り戻せました。

昔の世界は本物でしたが、実は皆さんの身体だけはここの世界の内部にいたわけです。

過去に張り出した結界越しに、昔を覗いたり、接触したりしていたというわけでした。

 

 カレル先生は乾いたハットを廻しながらにやりと笑った。

・・・みんなは喉が渇いて、お腹もが減ったはずだ。

 おいしかった料理も所詮は虚構の一品。

 お腹の中で消えて無くなったのでした。

 すべては虚構の手品師と先生との共同授業。

 お疲れ様でした。

 でも記憶は本物。勉強になりましたか!

 

 カレル先生はさらりと言ってのけた。

 生徒たちはあっけにとられて椅子からのけぞった。

 

 裕大のパパが心配になって駆けつけてきた。

 裕大がパパに付き添われて帰っていくと、ペトロは教室をこっそり抜け出した。

 

 廊下に出るとリュックを開けてカレル少年からプレゼントされた新聞を取り出そうとした。

 

 宇宙の方程式に取り組んでいるハル先生に見せて、宇宙物理学会での冒険談を自慢しようと思いついたのだ。

 もちろんカレル先生には、絶対に内緒でだ。

 

「アレッ!」リュックの中に入れておいた大事な新聞がない。

 リュックを逆さまにして振ってみたが、出てこない。

 

「ペトロ、コピーならここにあるよ」

 後ろからカレル先生の声が聞こえて、ペトロは跳び上がった。

 

「ペトロ、お土産はだめだと言っただろ。過去の世界のものはこの世界には持ち込めないんだ。いずれは消えてしまう運命なんだよ。ほら! 結界越しに新聞をコピーしておいた。でもな、ペトロのせいであの世界の宇宙物理は一日で60年近く進歩してしまったはずだ。こんないたずらは今回限りだよ」

 

 先生は新聞紙のコピーを丸めてペトロの頭をトンと叩くと、そのコピーをペトロに手渡して、教授室に姿を消した。

  ペトロはコピーを大事にリュックに収め、ママに見せて自慢をすることにした。

 

 生徒たちは、2016年の冒険談をママやパパに早く報告したくなった。みんなはドームの厳しい夕陽の中を、それぞれの家に向かって元気に走り出していった。

 

  カレル先生の教授室にノックがあって一人の男が入ってきた。 

 ひょろりと背が高く、鋭く切り込んだ彫像のような顔は、黒い仮面を被っているように見える。

 

 パラレル宇宙を舞台にしてトリックを仕掛ける「虚構の手品師」だ。

 手品師は顔を隠したまま今回の時間旅行に同行していた。

 

 繁華街の通行人だったり、ネイチャー・アドベンチャー号のバス運転手だったりした。

 カレル教授は笑みを浮かべて立ち上がり、親しそうに手品師と握手を交わした。

 

 昨晩、2016年の科学者への招待状を確かに二人に手渡してきました。1年前の彼らの学校視察の時にも大変お世話になりました。教授が一年前のお礼を改めて手品師に言った。

 

 一人になったカレル教授は愛用のハットを、型崩れしないように大事にデスクのボックスに

納めた。次に壁際に近づいて隣の部屋の様子を窺った。

 

 カタカタとナノコンを叩く音が聞こえてきた。

 ハル先生の宇宙の方程式の計算が続いていることを確かめると、ウーンと大きく伸びをして服を脱ぎ捨てた。

 

 気楽なプラズマ姿に戻った先生は、部屋の片隅にある大きな内部全面反射型の専用電子魔法瓶に入り込んでお休みになった。
 

 生徒たちには秘密だったが、そこは先生のベッド・ルームで、カレル先生の正体は実は「ひとだま」なのだった。

 

 (続く)

続きを読んでくださいね。

この世の果ての中学校 3章 黄色いバス停

 

【すべての作品は無断転載を禁じております】

この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(中編)

 灼熱した地球でたくましく生きる6人の子供たち

 

 

 

 

 

 22世紀の地球に生き残った六人の中学生が、カレル先生に連れられて、2016年の東京にタイムワープしました。

 その日、お邪魔した先生の実家で、生徒たちはカレル少年・・・実は中学時代のカレル先生です・・・と仲間のハルちゃんに出会います。

 中学生の二人は、自分たちの世界の行く末に暗い予感を抱いていました。

 実は、二人の住む地球もカレル先生や六人の子供達の地球とそっくり同じ運命をたどっていたのです。

 その夜、カレル先生は二人からとんでもない相談を受けることになります。

 

・・・ここまでの話は、どうぞ前の章の記事をお読みください。

この夜の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(前編)

 

2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(中編)

 深夜にペトロはベッドで目覚めた。

 ・・・僕はどこにいるの?・・・

 

 ぼやけていた脳髄が徐々に記憶の輪郭を結んでいく。

 ここは2016年の東京・カレル先生の実家の二階、庭に面したベッド・ルームだ。

 

 裕大兄ちゃんと匠が隣のベッドで寝込んでいる筈だ。

 寝返りを打って、横向きになると、ガラス戸のカーテン越しに東京の夜空がぼんやり見えた。

 

・・・ドームの中の僕らの世界と違って、ここの空には星がいっぱい広がって、青色や黄色や白色にチカチカ輝いてるはずだ!・・・

 スマホの電子図書館で何度も見た21世紀はじめの輝くような夜空を思い返していると、ペトロはテラスに出て本物の夜空を見たくなった。

 

 裕大兄ちゃんと匠を起こさないように、こっそりベッドを抜け出して、ガラス戸を少し開けてテラスに一歩踏み出した。

「あれっ?」テラスに先客がいた。

 

 パジャマを着たままテラスにしゃがみ込んでいる二つの後ろ姿は、裕大兄ちゃんと匠だ。

 物音に気付いた裕大がペトロを振り向いて、唇に手を当てた。

 

 ペトロは音を立てないようにへっぴり腰で近づいて、二人の間に割り込んだ。

 匠がそっと下の庭を指さした。

 

 見下ろすと、庭の小さなガーデン・テーブルにカレル先生とカレル少年が向かい合って座っている。

 テーブルには先生の愛用のハットが置かれていた。

 

 先生は足を組んで椅子に腰掛け、腕組みをして厳しい表情で話をしている。

 カレル少年は両肘をテーブルに乗っけて顔を両手で支えながら、先生の話に聞き入っている。

 

 先生が夜空を指さして、カレル君に何か言った。

 カレル君が空を見上げたので、ペトロも思わず頭を持ち上げた。

 

 頭上では満天の星が、春の霞の中でもやいでいた。

 星々は輪郭が少しずつぼやけて、離れたり近寄ったり、ちかちかと囁き合ったりしている。

 

 宇宙はとんでもなく美しかった。

 「すげー!」

 

 思わず一言漏らしたペトロの口を、匠の右手が抑えた。  

 庭から、さわやかな夜風がテラスに吹き上げて、二人の会話を届けてくれた。

 

 カレル先生が話していた。

・・・私たちが暮らしている未来では、夜空なんてものは見られない。

 みんなは半透明の大きなドームで覆われた世界に住んでるんだよ。

 

 ドームの中の空気は、地下水から作り出した酸素を送り出してクリーン・アップしている。

 未来の地球には緑がなくて、大気はなかなかきれいにならないんだ。

 

 数ヶ月前にも、宇宙に出て地球を観測したら、相変わらず茶色の不毛の大地がどこまでも続いていたよ・・・

 

「先生の地球で、地球環境の荒廃が決定的になったのは、いつ頃のことでしょうか?」 

 カレル君の質問に先生は足を組み替えて、腕組みをした。

 

「笑わないでくれよ!」先生がぼそりと言った。

 

・・・こんな話をしたら、カレルは、とんでもなくばかげた話だと思うだろうけど。

 それが始まったのは、地球の環境破壊が進んで、人間の姿も次第に少なくなった21世紀の後半のことだ。

 ある日の朝、地球の各地で、緑の山や丘や畑が次々に地上から消えてしまった。

 

 その後には、巨大な荒れ地やクレータだけが残されていたんだよ・・・

 

 「カレル! 緑色したすべての生き物が結論を出したんだよ。地球にこのままいたら絶滅してしまうとね。どこか人間のいない安全なところへ逃げだしていったんだ。空飛ぶ緑の群れが世界中で目撃されているんだよ」

 

 カレル少年がクスクス笑いながら教授を見つめた。

「先生、空を飛べる昆虫とか鳥類が逃げ出したのならともかく、身動きの取れない植物が空を飛んでどこかへ逃げ出しただなんて、科学者の先生の言葉とはとても思えませんね」

 

 渋い顔のカレル教授を相手に、少年が追い打ちをかける。 

「先生、人類が招いた急激な環境悪化が原因で、臨界温度を超えた植物が一気に枯れ果てて地上から姿を消したのでしょう。それは絶望した人間の作りだした幻想でしょうね・・・きっと」

 

 真っ当な少年の意見に、教授が渋々頷いた。

「カレルのいうことが正しくて、私たちが混乱していただけかもしれない。失って始めて気が付いたことだが・・・地球の自然は宇宙から授かったとても壊れやすくてかけがえのない宝物だったということだよ」

 

「先生方は、どうしてそんな馬鹿なことをやってしまったのです!」

 少年はカレル教授に向かって思わず「馬鹿なこと」といってしまった。

 

 少年はすぐに反省したが、自分たちの未来もそんなことになるかも知れないなんて考えると、目の前の先生にもむかっ腹が立った。

 

「先生のような賢い科学者がいっぱいいて、どうしてそんな結末になってしまったのですか? 僕はその理由がどうしても知りたいんです」

 

 先生は悲しそうにカレル少年を見つめていたが、テーブルの上から大事のハットを取り上げると、夢遊病者のようにゆっくりと廻し始めた。

 

・・・俺たち人間は皆、欲が深すぎたのだと思う。どこまでも快適さを追い続けて、知らないうちに限度を超えていた。

 気が付いたときには、地球の温度は産業革命のはじめに比べて、6度も上昇していたんだ。

 6度の上昇は地球環境には致命的だったようだ。

 自然界のダムが決壊して、緑がどこかへ流されて、消えてしまった・・・

 

 先生の声はしわがれて、次の言葉が途切れた。

 大事のハットが教授の手から滑って地面に落ちる。 

 

 カレル君が慌ててハットを拾い上げてテーブルに戻してあげた。

「ありがとうカレル!今から思うと、実はこれはまだ地獄のはじまりにすぎなかったんだ!」

 

・・・植物は食物連鎖のベースメントだ。

 俺たち人類が頂点にいた食物連鎖のピラミッドは、底が抜けてしまったんだ。

 80億人を超えた人類を養う食料なんて一つの地球上でいつまでも生産できるはずがなかった。

 地球が3つ必要だと警告する学者もいたよ。

 そのうち、いのちの源の海からも、魚の餌になる植物プランクトンが姿を消した。

 わずかに手元に残された野菜も果物も、家畜の飼料もたちまち底を突いた。

 

・・・俺たち研究者はゲノムを編集して、食料の増産に命がけで取り組んだ。

 荒れ地で育つ新種の作物とか、少ない飼料で、成長の早い家畜とかだ。

 すこしずつだが道筋が見え始めたとき、予想もしなかったことが起きた・・・

 

ゲノムの逆襲!」カレル少年が声高に叫んだ。

 それはカレル先生からすでに聞かされていた恐ろしい台詞だ。

 

「そうだ、ゲノムの逆襲だ。植物も動物も自らを守るために、人類に逆襲を仕掛けた。最終捕食者と被捕食者との間でゲノム戦争が勃発したんだ。やつらの送り込んだ最終兵器は知的ウイルスだった!」

 

「そして、地球の人類は終焉を迎えた?」

カレル少年が呟く。

 

「両者ともにだ。絶滅ゲームは長くは続かなかった。

 カレル、この戦いに勝者はなかったんだよ」

 言い終えると先生は天を仰いで嘆息し、口を閉じた。

 

 少年が言葉を引き継いだ。

「いま僕は大学の研究メンバーに入れてもらって、先生と同じ生命科学を勉強しています。

大学の環境研究会では、地球の環境は着実に温度の上昇が続いて、各地で異変が起こっている

と言ってます。先生の話を聞く度に、僕たちも先生の世界と同じ道を歩んでいるように思えて

なりません」

 

 そう言って、カレル少年は寒そうに両手で身体を抱えた。 

 初夏の夜気が冷たく二人の頬を撫でた。    

 

 二階のテラスにも一筋の風が吹き付け、薄ら寒い夜の気配が通りすぎていった。

 

「おい、庭の会話すっごくヤベーぞ。俺たち六人も、もうすぐ絶滅かよ!」 

 裕大が震え声で言った。

 

「裕大兄ちゃん、安心していいよ。カレル先生の口ぶりでは、僕たちの世界の戦いは、すでに終わったことなんだよ」

 ペトロがクールに解説する。

 

 庭から、カレル先生が話題を変えたのが聞こえた。

「ところでカレル、お友達のハルちゃんは元気にしてますか?」

 先生はカレル少年に思わせ振りに目配せをする。

 

 カレル君は、もちろん先生が今日来ることはちゃんとハルちゃんに伝えてあった。

・・・今夜は二人で打ち合わせておいた”大事な計画”を実行するつもりだ。

 

 ハルちゃんは、迎えに行ったママの車でもうすぐ到着するはず。

 あれあの影は・・・

 カレル少年は、先生の背後からそっと近づいてくる小さな影に気が付いて、クスクス笑い出した。

 

「元気なハルでーす!」 

 背中から可愛い返事が返ってきて、びっくりして振り向いた先生の首根っこに、ハルちゃんがかじりついた。

 

 亡くなったカレル先生の恋人、ハルがいま目の前にいる。

 

 カレル教授の顔が、嬉しそうにくちゃくちゃに崩れていく。 

 庭のテーブルで、三人の笑い声がはじけていった。

 

「ハルちゃんのお勉強は進んでますか? 大好きな宇宙の方程式は完成間近でしょうか?」

 カレル先生がハルちゃんをからかう。

 

 ハルちゃんは平日は近くの公立の中学校に通いながら、土日は神戸のポートアイランドまで出かけて行く。

 ハルちゃんは国立理化学研究所でスーパーコンピュータ・京(けい)を使って難解な計算をしていた。

 ハルちゃんは研究所の特別研究員だった。

 

 カレル先生にからかわれたハルちゃんは、”チャンス到来”と今夜の計画を開始した。

「先生、大好きな宇宙の方程式は計算が膨大になって、スパコンの利用時間が制限されてしまったので中止しています」

 

・・・いまは、地球環境の未来をスパコンで予測しています。ハルの計算では、長期予測の結果はあまり良くないのです。

 

・・・地球環境はカレル君の生命科学と近いフィールドなので、相談したり、励まし合ったり、喧嘩したりしています。

カレル先生! 最近の私、なんだか、この前お聞きした仕事仲間のハル先生の《悲しい結末》に一日、一日近づいている気がします。

夜中に寒気がして目が覚めるともう朝まで眠れません。

世界の偉い科学者に思い切ってわたしの予測結果を報告しても、誰もあたしの報告書なんか読んでくれないのです。

 

地球環境はいい方向へは動いていません。

このままではこの世界はカレル先生の世界と同じ結末を迎えてしまいます。

これからハルはどうしたらいいのか・・・

 

 口ごもったハルちゃんの顔がクチャッと崩れて、大きな二つの目から涙が噴き出した。

 先生が慌ててハンカチを取り出してハルちゃんに手渡す。

 

 ハルちゃんはもらったハンカチで「クチャン」と鼻をかんだ。

 それから大きな声で泣き出した。

 

 カレル先生はそんなハルちゃんを懸命に励ました。

・・・ハルちゃん、カレルといまもその話をしていたところだよ。

 先生の思いつく答えは一つしかない。

 

 地球環境の悪化を食い止めるには、世界のリーダーを本気にさせることだ。

 ターゲットは主要国の首脳を説得できる科学者の中のキーマンだよ!

 

 わずか8人くらいだ。

 一人ずつ理解者を増やして行けば、数ヶ月でなんとかなる数字だ!・・・

 

 ハルちゃんはカレル少年と目を合わせた。

 ・・・近い! ”泣き落とし計画” スタートOK・・・
 

 ハルちゃんとカレル君は椅子に座り直した。

 そして打ち合わせておいた作戦を開始した。

 

「先生! 今おっしゃった世界の科学者、キーマン8人を未来の地球環境の視察に連れ出すことはできないでしょうか?」

 カレル少年が正面攻撃を開始した。

 ハル少女がすかさず援護射撃をする。

 

・・・私たちがいくら偉い科学者を説得しようとしても、先生方は本気で取り合ってくれません。どうせちょっと頭のいい中学生のたわごとにすぎないと思ってるんです。

 

・・・こうなったら、想像力に欠けたあの人たちを強引に引きずり出してでも、『未来の現実』を見せつけてやります。

 私たちの子供たちに訪れる『絶望』がどんなものかをです!・・・

 

 ハルちゃんが両手を握りしめ、空に向けて突き上げる。

 カレル先生も思わず空を見上げて「ウーン」と唸った。

 

 カレル少年が教授を逃がさないように追い詰める。

「先生にお願いする以外、あの頑固な人たちを説得する方法がないのです」

 

 カレル教授は、困り切った表情で二人を見つめた。

 カレル少年が椅子から立ち上がって、玄関の横で鎖につながれていたブー太郎の耳元に囁いた。

「お前の可愛い孫のためだぞ。ブー太郎、手伝え!」

 

 ハルちゃんとカレル少年が先生の前に立って、ぺこんと頭を下げた。

 横でブー太郎も大きな頭を地面にこすりつけた。

 カレル教授がプッと噴き出した。

 

 カレル先生はハットをかぶりなおすと、厳しい顔つきで話し始める。

「二人とも良く聞きなさい。実は、君たちの希望を叶えることの出来る男が、世界にたった一人だけ存在するんだよ」 

 

・・・それは、虚構の手品師と呼ばれる男だ。無数無限の宇宙を旅している正体不明の男だよ。彼を探し出して君たちの世界から『未来の地球視察』が可能かどうか聞いてみましょう。

 彼と時間旅行契約を結べたら、この世界から『結界』を未来に張り出して、視察団に未来の荒れ果てた地球を覗き込んでもらうことができる。

 そのあとドームの中の会議場で、校長先生や私たちとミーテイングが出来れば最高だ・・・

 「そんな計画でどうかな?」

 カレル君とハルちゃんが両側からカレル教授に抱きついていった。

 ブー太郎が先生の顔を大きな舌でなめ上げた。

 

「虚構の手品師って誰のことだ?」テラスで裕大がささやいた。

「ときどき校長室に現れる、仮面を被った男の人のことだよ」匠が小さく答えた。

「なんだか不気味だな」裕大が呟く。

「昨日、僕も学校の廊下で会ったよ」と、ペトロがひそひそと付け加える。

「いきなり僕の目の前に天井からドスンと落ちてきてさ・・・びっくりして、どこから来たのって聞いたら・・・たったいま、となりの世界から帰ってきたところだ。今からカレル先生とみんなの旅行の打ち合わせだって・・・言ってたよ。荒い息してたから、仮面の下は普通のおじさんだと思うよ」

 

 庭から、カレル少年の興奮した声が風に乗ってテラスの三人に届いた。

「先生! 例えば、ここをいまから数ヶ月後に出発するとしたら、先生の世界の到着年月日はいつ頃になるのでしょうか?」

 

 教授が即座に答えた。

「2090年11月3日の祭日です」

「えっ!もう到着の日付まで決まっているのですか?」

「今朝、ここへ出発するとき、私たちの時代は2091年でした。それより1年前になります。中学校の授業もお休みの日ですよ」

  カレル先生がハットを勢いよく廻してニヤリと笑った。

 カレル少年は、首をかしげてその意味を考え込んだ。 

 「うーんと???」

 

 腕組みしているカレル君を横目に、ハルちゃんは得意の計算を頭の中で素早く済ませた。

「カレル先生は、すでに1年前に私たちの訪問を経験しておられるということですね」 

 「流石ハルちゃん!ご明察です」

カレル教授がハットを空に放り投げた。

 

「虚構の手品師が、今日からちょうど六ヶ月後の朝9時にこの庭に迎えに参ります。ハルちゃんとカレル君もそんなスケジュールで計画に取りかかっているのではありませんか?」
 

  二人は顔を見合わせた。

 先生はすでに二人の計画の内容まで知っている。だから今日ここへ打ち合わせにやって来てくれたのだ。 

・・・ということは視察の結果や、科学者たちの反応もすでにわかっている・・・筈!

 

 二人の考えていることを見透かしたように、教授が先回りして答える。

「視察の結果は事前に申し上げないでおきましょう。それだけは手品師から堅く禁じられています。行動する前に結果を知ったら、時空のパラドックスの箱が開いてしまう・・・そのときは時間旅行の契約はできなくなると言ってましたよ」

 
 教授はブー太郎がくわえてきたハットを手に取ると、テーブルに伏せ、もう一度ニヤリと笑った。

「実はカレルとハルちゃんに未来からのビッグプレゼントがあります」

 先生はテーブルの上のハットを手に取ると、裏張りを慎重に外して、開いた。

 テーブルに厚手の封書の束が転がりだした。

 

「これは8人の科学者宛に、それぞれの母国語と英語で書かれた、未来からの招待状です。君たち宛のものも含めて、10通です」

 そう言って教授は封書を5通ずつに分けて二人に手渡した。

「この招待状がないことには、科学者は未来視察の話など信じてくれませんよ」

 

 二人は封書の束を震える手で受け取り、テーブルに置いた。

 カレル君の受け取った一番上の封書の宛名は、世界の権威だが悪名高い科学者ドクター・マーカーだった。

 

 カレル君とハルちゃんの顔は、喜びで、真っ赤だ。

 しばらく封書を眺めていたカレル少年が教授に震える声で尋ねた。

 

「先生、これってどう言ったらいいのか・・・本物の招待状なんでしょうね?」

「昨日作り上げて、本日持参した公式の招待状だよ。招待者の名義は校長先生と私の名前にしてある。未来の代表者二人のサイン入りだ。文句の付けようのない公式の招待状だよ」

 教授は廻していた空のハットをぴたりと止めて、付け加えた。

「大事な話を先にしておこう。招待状の有効期限はいまからきっかり6ヶ月だ」

 

「それって賞味期限みたいなものでしょうか?」

 ハルちゃんの質問に教授が”プッ!”と吹き出した。

 

・・・ハルちゃん、未来から持ち込んだものはここではいずれ消滅してしまうのですよ。

 次元を超えて持ち込んだものは本来あるべき場所、つまり未来に帰って行くのです。

 封書は、虚構の手品師に頼んでなんとか半年は保つように細工がしてあります。

 君たちはその間に8人の科学者を説得して、決着をつけなければならないのです・・・

 

 カレル少年とハルちゃんは、慌てて封筒の宛名書きを一枚ずつ確認していった。封書の表書きには世界をリードする8人の科学者の名前が記されている。その名前は二人の考えていた科学者の候補リストとぴったり一致していた。二人はもう一度、国名とアドレスと名前を読み上げた。

 

 そのうち、二人の表情が曇りだした。

 ・・・こんな偉い科学者が、日本の中学生から届いた招待状を、本当に未来から送られてきたものだなんて信じてくれるだろうか?

 冗談だと決めつけて、大笑いしながらゴミ箱に放り込んでお終い・・・。

 科学者の反応を想像するハルちゃんの眉が、不安そうにぎゅっと真ん中に寄せられていく。

 

 カレル先生がそんな二人の懸念に気が付いた。

「君たちが心配している通り、科学者は未来からの招待状なんて、まず信じないだろうな。科学者は疑うのが仕事だから・・。私自身、同業だからよく分かるよ」

 

・・・科学者は頑固で困る・・・と続けて、カレル先生はいたずらっぽく口をゆがめた。

「君たち宛の封筒を開けて中の書類を読んでご覧。それが本物の未来からの招待状であることを証明するある仕掛けがしてあるよ」

 

 二人は大慌てで自分宛の封筒を開いて、声を合わせて読み上げていった。

「えっ!」ある箇所にやってきて、二人が絶句した。

 そこには、今から数か月後に発表される2016年ノーベル文学賞の受賞者名が予測してあった。その名前は二人ともよく知っている名前だった。しかし受賞者は作家ではなくて、音楽家だった。

「驚いた?『友よ、答えは風に吹かれて』の作者ボブ・ディランだ。今頃はまだノーベル賞の選考委員会で極秘に検討中の筈だよ。歌詞が文学賞の対象に選ばれるわけだ。封書を開いたら最後、このコメントは記憶に焼きつくぞ。馬鹿げた冗談だとね。これが未来からのメッセージだ。外れる確率は1,000分の一。正式に受賞者が発表されたら、先生方もひっくり返ってゴミ箱を探すだろうね。招待状が未来からの手紙であることを信じざるをえなくなる。それでもまだ疑う科学者には『あなたは未来から選ばれた、地球の運命を決める八人のキーマンの一人なのです』とかいって、虚栄心をくすぐることだ。このセリフはきっと効果的だよ」

 

 「ヤッター!」

 カレル少年が封書を空に突き上げて、歓声を上げた。

 

 「カレル、つぎのテーマだ。この封筒をどうやって科学者本人に届けるかがポイントだよ」

  教授の質問に、カレル少年の答えはすでに決まっていた。

 「この封書の差出人は大学教授の肩書き付きでパパの名前にします。パパは世界で高名な作家の一人ですから、僕たち二人とは信頼度が違います。ハルと僕の名前は同行研究員として出発の日まで年齢を伏せておきます」

 

 カレル教授は頷いて、もう一つ付け加えた。

「科学者の中で特に気をつけて欲しいのがドクター・マーカーだ。地球環境の科学者で、世界の研究者仲間ではリーダ格だが、気むずかしいので有名だ。だが、世界の首脳に強い影響力を持っているので、この男だけは外せない。視察団の団長に祭り上げて、必ず引っ張り出してください」

 

 二階のテラスで裕大が匠に囁いた。

「匠! 1年前にカレル少年とハルちゃんが視察団を引き連れて俺たちの学校を訪問しているらしいぞ」

「俺、視察団なんて見たこともないし、カレル先生からなーんも聞かされてねーよ」

 そう言って、匠が大あくびをした。

「ぼくもだ、クシャン!」

 冷えてきた夜風で、ペトロが大きなくしゃみをしてしまった。

 テーブルの側で眠り込んでいたブー太郎が目を覚まし、テラスの三人に気が付いて嬉しそうに吠え立てた。

 慌ててテラスから立ち上がったパジャマ姿の三人を見つけて、ハルちゃんとカレル君がクスクス笑った。

 

 ハルちゃんがテラスの三人に「初めまして、ハルでーす」と大きく手を振った。

 テラスの三人も照れくさそうに手を振った。

「そんな格好で外にいると風邪をひくぞ。明日は早いからもう休みなさい」

 カレル先生はテラスの三人に大声で注意をすると、ブー太郎の頭をもう一撫でした。

 

 それから二人とワンコを庭に残して、リビングに戻っていった。

 リビングでおじさんとおばさんがソファーに座って、カレル先生を待っていた。

 

 カレル少年とハルちゃんは、リビングで話を始めた三つの影が幸せそうに揺れ動いているのを確かめた。

 それから、月がどこかに消えて、星の輝きに取って代わっていく五月の夜の空を眺めた。

 

 裕大と匠とペトロは部屋に戻り、ベッドの上に仰向けに寝っ転がった。

 緊張から解放されると、たちまち眠気が襲ってきた。

 

「あのヤベー絶滅話、俺たちなんだかムニュ」と裕大。

「なにか匂うぞ!未来に戻ったら必ずムニャ」と匠。

「けりつけようぜい、ムニャムニャ」とペトロが締めた。 

 男の約束をした三人は、たちまち眠りこんだ。

 
 一階の寝室では、咲良とエーヴァとマリエが、カーテンの影からそっと離れて、ベッドに戻った。

「二階の悪ガキ隊、ブー太郎に見つかっちゃったみたいね」

 マリエが言って、三人でくっくっと笑った。

 

 それから長ーい、長ーいお喋りが始まった。          

 (続く)

 

ここから続きを読んでくださいね。

この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(後編)

 

【すべての作品は無断転載を禁じております】

この世の果ての中学校 2章「リアルの世界は一度逝ったら戻れない(前編)」

 の~んびりした人類絶滅小説。

 今回は、地球に生き残った六人の子供達が、カレル先生に連れられて2016年のリアルの世界・東京にタイムスリップします。

 

 リアルの世界・東京は一度逝ったら戻れない! 

 こわ~いところです。

 それでも、その旅は昔の穏やかで豊かだった日々を、ドームでつらい日々を過ごす6人の生徒たちにも経験させてあげたいという、カレル先生の強い希望だったのです。

 

 カレル先生の実家で、6人の生徒たちは中学生の頃のカレル君や、宿敵のけんか相手、先生の両親、愛犬のブー太郎に出会うことになります。

 

 これまでの話は下の二つをご覧ください。

この世の果ての中学校 プロローグ「ついにあいつがやって来た」

この世の果ての中学校 一章 ハッピーフライデー「ペトロの誕生日」

 

2章「リアルの世界は一度逝ったら戻れない(前編)」

 

「今日は初めてのタイムトラベルだ! いまから一泊二日で2016年のリアルな東京視察に出かける」 

 金曜日の朝、愛用のハットを斜めに被ったカレル先生が、六人の生徒を教室に集めて宣言した。

 

「ヤッター!」

 女生徒が歓声を上げ、男子生徒は床を踏みならして、うおーっ!と吠えた。

 

「都心は繁華街や工事中が多くて危険だから、直接、目的の宿泊地に向かうことにする」

 

「先生宿泊はホテルでしょうか?」

 エーヴァが目を輝かせて聞いた。

 

「残念だが、今夜の宿泊先は先生の実家だ。先生が子供の頃暮らしていた家だよ」

 カレル先生の目が、昔を思い出して潤んできた。

 

・・・実は先生は今晩、家族と会って大事な話をしなければならないんだ。

 あの世界の未来に関わる話だ。

 でも、君たちは遠慮しないで騒いで、楽しく過ごして欲しい。

 それから明日は山登りと、自然観察、ネイチャー・アドベンチャーだ・・・

 

 ちょっと落ち込んだ生徒六人の視線が生徒会長の裕大に集まった。

 裕大が手を上げてみんなの気持ちを代弁した。

「カレル先生、お願いがあります。今日はみんなのハッピー・フライデーだから、僕たちの希望を言ってもいいですか?」
 
「おっと、失礼した。ハッピー・フライデーをすっかり忘れてたよ。それじゃ~、みんなの希望を聞かせてくれ・・・」

 

「フルーツの入ったケーキ食べたい!」前列のマリエとペトロが叫んだ。

「繁華街で遊びたい!」二列目のエーヴァと匠が続いた。

「ショッピングしたい!」咲良と裕大が追加した。

 

 ここドームの中の世界には豊かな山も、緑も、繁華街も、買い物のできるショップも、フレッシュな果物も無かった。

 あるのは厳しい現実と幻想の世界だけ。

 

 カレル先生は、何でも手の届いた自分の子供の頃を思いだして、生徒たちの叫びに胸が痛んだ。

「わかった!それじゃプログラムを追加しよう。まず都心の繁華街に潜り込んでぶらぶらしよう。途中どこかでケーキとお茶をする。

・・それから郊外にある先生の実家を目指す。これでどうだ?」

 

 大騒ぎを始めた生徒たちにストップをかけて、カレル先生が旅の注意をした。

「その代わり約束を三つ守って欲しい。

一つ、未来から来たことは決して誰にも話さない。もちろん先生の家族は別だ。

二つ、争い事は起こすな。匠、誰にも手を出すな。ペトロ、口喧嘩もだめだ。

三つ、お土産は持ち帰るな。咲良、買い物は我慢しよう。以上だ」

 

 ・・・ということでスケジュールの変更です。

 ・・・そこんところをなんとかお願いしますよ。 

 

カレル先生は旅行の変更をスマホでどこかに伝え、了承を取りつけたようだ。
 

「交渉成功!」

 先生が、愛用のハットを脱いで空中で一振りすると、教壇の電子ボードに21世紀の世界地図が浮かび上がった。

 

 ゆっくりと地図がズーム・アップして一番大きな大陸の南側に、小さな四つの島が輪郭を表す。その真ん中を先生が指さした。

 

「目的地はここだ! 日本の首都、東京の都心の繁華街を目指す。

 世界でもっともビジーで怖い場所の一つだ。

 今からタイム・トラベル・スオッチを配る。

 何があってもこれだけは無くさないように、しっかり腕にはめてロックしろ。

 失うと時空を彷徨って、どこかへ逝ってしまう。

 二度と帰れなくなるぞ」

 

 配られたタイムトラベルバッグを身に着けると、全員が時計の文字盤を2016年5月7日10時00分に合わせた。

 

「GO!」

 カレル先生の合図で生徒たちがスオッチをONにする。

 教室は銀色に輝き、一瞬にして白く薄い闇に吸い込まれた。

 

 世界はゆっくりと回転を始め、時空の揺らめきに翻弄された生徒たちが上げる悲鳴と共に、はるかな過去に向かって巻き戻されていった。 

 闇を漂う生徒たちの目の前に、薄い幕一枚を隔てて、ビルに囲まれた繁華街が迫ってきた。道路は行き交う車と、人混みでごった返している。

 

「僕の動きをよく見ておいてくれ!」

   カレル先生は薄い膜をするりと通り抜けて、道路の人混みの中に入り込んで行った。

 

 道路を歩く人たちは、目の前に先生が現れても、驚いて立ち止まって一言文句を言うだけで、すぐに歩き始めた。

 人混みを避けてビルの片隅に身体を移した先生が「ここへ飛びこんで来い!」と生徒たちに合図をする。

 最初に、小さなマリエが白く薄い膜を通り抜けてカレル先生の胸の中に飛びこんでいった。 

ペトロ、エーヴァ、そして全員が続く。

 

・・・未来からの訪問者、六人の生徒と一人の先生が東京の雑踏の中に紛れ込んでいった。

 

「車と人にはぶつからないように、気をつけた方がいいよ。ここではどんなことも一度やってしまうとやり直しが効かないらしいよ」

 リアルの王の息子、裕大が咲良にそっと囁いた。

 

「えっ! ここには現実しかないの? なんてさみしいとこなの」

 ファンタジーアの王女、咲良がぶるっと身体を震わせて思わず裕大の手を掴んだ。

 

 咲良が暮らしていた幻想の世界、ファンタジーアでは一度や二度はやり直しが効いた。

 

「いまの、やり直しよ」

 王女が命令すれば現実は元に戻せる。

 それにここは人が多すぎる。

 人いきれで眩暈を起こしそうになる。

 

 咲良が、地下鉄の駅から階段を駆け上がってきた若い女性をよけきれずに、ぶつかってしまった。 

 咲良が謝って話しかけようとしたら、その女性は咲良をじろりと見て、一言も言わずに立ち去ってしまった。

 咲良はその態度にコチンときた。

 今度はタクシーの乗り場に向って、スマホを見ながら早足で歩いてきた背広姿の男の人に身体が接触してしまった。

 

「ご免なさい、私、咲良と言います。遠くからやってきましたもので、人混みに慣れなくて」

 咲良は自分から挨拶をして、謝った。

 

 男の人は振り返って咲良を見つめると、ちらっと時計を見て・・・

「ごめん。話してる時間が無くて・・」と言って、慌てた様子で歩き去っていった。
 

 咲良は訳が分からなくて、ますます頭にきた。

 「何これ? 王女に向かって失礼な! みんな、どうなってんのよ?」

 

 咲良の故郷のファンタジーアではだれかに出会えば、挨拶をして、軽い会話をするのが当たり前の礼儀だった。

 

「この様な挨拶をしない人の関係を、この世界では『他人』とか『人ごと』といいます」

 カレル先生がおかしな解説をして、咲良を慰めた。

 

「ファンタジーアでは他人という関係はありません。『まだよく知らない人』という表現ならあります」

 咲良がほっぺたを膨らませて怒っていた。
 

 メインストリートから一歩脇道に入り込むと、連休の狭間の平日なのに、大学生や高校生が賑やかにお喋りをしながら歩いていた。

 カレル先生も学生の頃によく来て遊んだ界隈だった。

 エーヴァがどこかからブーンというマシーンの音と、ガチャガチャという摩擦音に混じって男の子たちの叫び声を聞きつけた。

「あっ! あの音は宇宙船の発着音よ、ちょっと遊ばせて」

 

 エーヴァは、カレル先生にお願いして500円玉を数枚借りて店の中に飛び込んで行った。

  NASA発東京オリンピック特別協賛「スーパー・スペース・バトル!」のコーナーの前に人だかりがしていた。

 

 それはシングル乗りの五艇の宇宙艇で、バトルを争うNASAのバーチャルゲームだった。 

 しばらくゲームを観戦していたエーヴァが、次の番でウエイティングしている男子の高校生四人グループに声を掛けた。

 

「一人、混ぜてくれない?」 

 ジーパンとピンクのTシャツを着た金髪の可愛い女の子が、いきなり乱入してきて乱暴な口をきいた。

 

高校生が目をむいた。

「どこから来た?」

一番でかい赤いチェックのシャツが聞いた。

 

「海の向こうよ」

 チカッとウインクすると、エーヴァは空いたコックピット・ブースにさっさと入り込んだ。

 

 ヘッドセットを装着し終えると、プリプリ!とお尻で軽くリズムを取った。

「そこのでかいの・・早くいらっしゃい!」

 

 エーヴァが、スペース・シップのエンジン・ボタンを押した。

 スタート・ラインに滑り込んでいくエーヴァに気が付いて、四人の高校生が慌てて四隻の宇宙艇に飛び乗った。

 

「痛めつけて欲しいか?」

でかい赤シャツが隣のスタートラインからエーヴァに笑いかけた。

「泣かせてあげるわよ」

エーヴァが受け流す。

 

一周のテストランが終わり、轟音と共に5艇のスペース・シップがバトルを開始した。

 

 応援に駆けつけた五人とカレル先生が観覧ブースに座り込んだ。

 マリエが、大声を上げてエーヴァの応援を始めた。 

 

 エーヴァはフランス空軍のパイロットの娘で、子供の頃は地球脱出用の小型宇宙船が自宅代わりだった。

 パパに頼んで、内緒で操縦を教えてもらい、腕はプロ並みだった。 

 

 エーヴァに絡むつもりが逆にからかわれた赤シャツが、視界を失って仲間と衝突し、宇宙艇の操縦シートから派手に床に転げ落ちた。5人の高校生がスタートラインに戻ってきたときにはエーヴァの姿はなかった。

 

「ほんのお遊びでしたわ。これご自宅にお土産」

 引き上げてきたエーヴァが、カレル先生に報告を済ませ、景品を差し出した。
 

  繁華街から小さな公園を通り抜けると、生徒たちの家の100倍はありそうな大きなビルが現れた。

「このホテルで休憩していくか?」

 

 カレル先生はそう言うと、ずんずんと大きなホテルに入っていった。エントランスで制服のボーイに小さくたたんだ紙きれをそっと手渡した。

 制服のボーイが自動ドアを手で開けたまま、待ち構えてくれるので、みんなも慌ててホテルのロビーに入っていった。

 

 匠やペトロにとってホテルは、小さな子供の頃、都会から人影が消える前に、両親に手を引いてもらって食事に出かけた時の記憶がかすかに残っているだけだった。

 ロビーの広い空間を通り抜け、突き当たりに並んでいる小さな部屋の一つに全員で入り込むと、先生が扉の横の操縦ボタンを押した。

 扉が閉まって、部屋が丸ごと縦に動き始めた。

 

「ヒエー! この宇宙船どこにも窓がねーぞ!」

 匠がわめいた。

 生徒たちの乗り物はいつもエーヴァ・パパの操縦する小型の宇宙船と決まっていて、丸い窓が沢山並んでいて外が見える。

 外の景色を眺めたら、いまどこにいるのか・・安全なドームの中か、ドームの外の危険地帯に出たのかがすぐに分かる。

「ここ気持ち悪いよ!」

 匠が騒いでいる中に、宇宙船はビルの最上階に到着して、ドアが開いた。

 フロアーに出るとすぐ前にガラス張りの広い部屋があった。ガラスの向こうには大都会の午後の景色が拡がっていた。

 みんなは眺めのいい窓際を探して、ふかふかのシートに落ち着いた。

 

 それからサンドイッチやプリンやケーキやアイスクリームや果物やフレッシュ・ジュースを片っ端からやっつけながら、慌ただしい下界の風景をゆったり眺めた。

 

 ふざけ合ったり、お喋りしたりして午後のひとときを楽しんだ。 

 お腹がいっぱいになったペトロがラウンジから廊下に出てきて、最上階のフロアーを探検し始めた。

 

 宴会場や大小の会議室が続いていて、廊下の突き当たりの大きな部屋に「宇宙物理学会会議場」という案内板が出ていた。

 会議は始まっていて、受付と書かれたデスクの前にはだれもいなかった。

 

 ペトロは科学が大好きで、今はハル先生の特別授業の「宇宙の方程式」に取り組んでいる。
 
 「宇宙物理学会」の文字に興味を引かれたペトロはドアをそっと開け、中を覗いてみた。

 

 会議場は満員で、いろんな国の言葉が飛び交い、世界から集まってきた学者や先生方が方々で議論している。

 遠くてよく見えないけれども、壇上のボードになんだか見たような数式が書かれていた。

 

 ひげもじゃで巨体の偉そうな先生が、立派な講演机にもたれかかりながら・・

「お静かに・・それでは次の質問をお願いします」と会場の人たちに呼びかけていた。

 

 何人かが手をあげると、ひげもじゃ先生が順番に指名をして、次々と質問に簡単明瞭に答えていった。

 ペトロは会議場の後方から、満員の座席の横を通り抜けて、ボードに書いてある数式がよく見えるところまで近づいてみた。

 

 それはアルファベットと数字が入った簡単な一行の方程式で、タイトルは「アインシュタインの方程式」と書いてあった。

「あれっ! これってハル先生の宇宙の第一方程式にそっくりじゃない」

  ペトロはなんだかぞくぞくしてきて、方程式をよく確認してみようと、もう一歩壇上に近づいてみた。

「宇宙の構造」と説明書きが付いているところはハル先生の第一方程式と同じだけど、「宇宙項」と説明のあるところが、ハル先生の方程式と少し違っていた。

 アインシュタイン先生がとんでもない天才科学者だったことはペトロもよく知っていた。

 

  「でもこの方程式は間違っている」

 だってハル先生は「宇宙の第一方程式はこれで完成よ」と言って、今は次の第二方程式に取り組んでいるからだ。

「もうご質問はございませんね」

 ひげの先生が偉そうにひげもじゃを一筋むしりとった。

 

 次の瞬間、ペトロの右手が勝手に上がってしまった。

 ひげの先生は慌てた様子でペトロを見つめた。

 

 先生はちょっと目が悪くて、ペトロが少年であることに気が付かない。

 壇上からペトロを指さして「どうぞ!」と質問を促した。

 

 ペトロは、もしもハル先生ならこんなときどうするだろう、と考えて、直ちに行動に移った。

 トットットッと舞台の横から小さな階段を登って、壇上まで上がると、方程式の書かれたボードを見上げた。

 

 それは電子ペンで書き込むタイプのボードだった。 

 ペトロは電子ペンを探して、手に取ると、思い切り背伸びをして、方程式の「宇宙項」の所を二本線で消した。

 

 そしてもう一度伸びをして正しい数式に書き換えてあげた
 

 数式が完成すると・・

「先生、これでいかがでしょうか?」といつもの授業の調子でひげもじゃ先生に尋ねた。

 

 ボードを見つめていた先生の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。

「こらーっ!」

 

 ひげもじゃ先生は会議場に響き渡る大声で吠えると、血相変えてペトロに飛びかかってきた。

 先生はとんでもない悪ガキのいたずらと思い込んで、頭に血が上って、怒り狂っている。

 

 小さなペトロの前にひげもじゃ先生の巨体が迫った。

 ペトロは一歩横に跳んで、なんとか先生の突進をかわした。

 

 掴む相手がいなくなった先生は、前のめりになって、見事に床に転んでしまった。

 先生の悲鳴を背中で聞きながら、ペトロは壇上から飛び降り、一目散に会議場から逃げだした。

 

 廊下に出ると、ペトロは背筋を伸ばしてゆっくりと歩いた。

 

 ラウンジに戻って、仲間のいるところに無事到着すると、目立たないようにシートに深々と小さな身体を沈めた。

 表の廊下で、警備員の叫ぶ声がしばらく聞こえていた。

 知らん振りを決め込んで一息つくと、ペトロはサイド・テーブルに手を伸ばして、ショート・ケーキに乗っかっている大好きなイチゴを指でつかんだ。

 口に運んで軽く噛むと、イチゴはチュッとつぶれて、新鮮な果汁が飛び出してきた。
 

 ペトロはしばらく昼寝をすることに決めた。

 ペトロはすぐ夢を見る。

 

  ××× 

 いまは遠い故郷、サンフランシスコのすぐ北のナパ峡谷に沿って広がっているブドウ畑のそばの小さな土地・・・

 パパが借りていろんな野菜を育てている畑に仰向けに寝ている。
 

 パパはここからいくつか山を越えたシリコン・バレーというところにある最先端技術の企業の研究員だ。

 パパの趣味は仕事とは正反対で、古本集めと、畑仕事だ。

 

 天気のいい休みの日には小さなペトロはパパと一緒に畑に出て、野良仕事を手伝う。

 疲れてくると、ペトロは野菜を収穫した後の畑の畦に寝転がって、勝手な空想遊びをする。

 

 パパは野良仕事の合間、合間にペトロに声を掛けてくる。

 ペトロが元気に返事をすると、安心して仕事を再開する。

 いまペトロは畑に仰向けに寝て、太陽の日差しを浴びて真っ赤に熟した食べ頃のイチゴをつまんでは食べている。

 昔大きな山火事があって、ワイン畑から野菜畑に変わったところだ。

 

 渓谷から吹き上げてくる風が、青く抜けるようなカリフォルニアの空に舞い上がって行く。

 ここは昼間は太陽が照って暖かく、夜は温度が下がる。

 

 渓谷の川の流れから適当な湿気が上がってくるので、毎日水やりに通わなくても野菜は育つてくれるんだ、とずぼらなパパが勝手な理屈を言う。 

 

「ペトロ! そのイチゴを食べてはダメだ!」

 パパの叫ぶ声が遠くから聞こえた。
 

 パパの話では、最近ここの野菜は、人間に食べられないように変身して、食べた人の体を犯す悪い有機体を含むようになってしまったそうだ。

 パパはブドウ農園の人たちと共同で、悪い有機体を含まないブドウや新種の野菜を開発中だ。

 地球のどこもかもで、果物の出来る樹木や、食料になる野菜や、大人しい家畜の生態にまでとても危険な変化が起こり始めている、とパパたちが集まって怖い話をしていた。

 

「食べ物がなくなったら、緑の野菜や果樹のあるどこかの惑星を探しに行かなくっちゃ」

 

 ペトロは高い空の向こうにある緑の惑星を想像してみる。

「そこにも人類や動物はいるのかな?」

 やがて気持ちのいい眠りに落ちると、パパの声も聞こえなくなった。

 ペトロの横で一緒に寝っ転がっているマリエがなにかムニャムニャ喋っている。

 

 パパの姿がどこかに消えて、こんなところにマリエがいる?  
  ×××

 

「さっきはどこ行ってたの?」

 マリエの声でペトロの目が覚めた。

 

 仲良しのマリエがアップル・パイを頬張りながらとなりのシートからペトロに話しかけてきた。

「ちょっと奥の部屋で、ひげもじゃの偉い先生にお勉強教えてあげてた。内緒だよ!」

 

 ペトロは、ひげもじゃ先生とのやりとりをすっかり話して、マリエに自慢をしたかったのだけれど、なんだか嫌な予感がして、お喋りするのを我慢した。

「内緒ね」と繰り返すと、マリエはアップルパイをもう一口、頬張る。
 

 そばのシートで気持ちよく寝込んでいる裕大の大きないびきが聞こえてきた。

「少し遅くなったから、そろそろ我が家に向かうとするか」 

 カレル先生が大きな伸びをして、裕大を起こした。

 

「出発!今からカレル先生のお宅にお邪魔する!」

 目覚めた生徒会長の一言で、みんなは重いリュックを肩に担ぎ上げた。

 リュックは宿泊用のパジャマやタオルや下着の着替えや、洗面用具や、それに大事な非常食と飲料水でぱんぱんにふくれあがっている。

 

 非常食と飲料水は使わずに備えておくようにと、カレル先生から命令が下っていた。

 先生のお宅でごちそうになるのに、どうして非常食がこんなにたくさんいるのかよくわからない。

 

「多分タイムトラベルで迷子になったときのためだよ」ペトロの説明でみんなは納得していた。

 

 ホテルを出てしばらく歩くと、迷路のように入り組んだ巨大な駅に着いた。

「ここで迷子になるなよ、見つけるのに数時間はかかるからな」

 

 カレル先生が先頭に立って、駅の構内に入り、四方に繋がる通路をあっちこっち歩いて、長くて動く階段を登ったり、下りたり、径路板を見たり、通行人に聞いたり、迷路ゲームを楽しんでようやく目的のホームにたどり着いた。

 

 電車に乗りこむと、中は結構混んでいた。

 乗客は座っている人も、立っている人もみんな、スマホに夢中で、スマホの中で暮らしているみたいだ。

 

 ベビーカーで子供を連れているママまで片手でスマホをしている。

 電車が揺れてベビーカーが動き出すと、慌ててベビーカーをつかむ。

 

 スマホを見ていないのは生徒たちだけだ。

 携帯は「持って行ってもどことも繋がらないよ」と先生が言うので、教室に置いてきた。

 

 生徒たちは乗降客の邪魔にならないように、開閉しない側のドアのそばに集まって、騒々しい町並みから静かな住宅街に移り変わっていく風景を興味深そうに眺めている。

 電車はあっという間に、都心から離れた郊外の駅に到着した。

 

「この駅でおりるぞ!」
 カレル先生が電車から降りて改札に向かった。

 

 エーヴァが電車からプラットホームに降りて、みんなの先頭に立って改札に向かって歩き始めた。

 そのとき、制服を着た高校生と中学生の男子のグループが、到着してきた電車に飛び乗ろうと、ホームに走り込んできた。

 

 騒々しいグループの中で一番でかいボスっぽいのが、ふと立ち止まった。

 デニムのジーパンと、ピンクのTシャツの上に薄手の白いセーターを着込んで、リュックを肩に担いだ可愛い女の子が近づいてくるのに気が付いた。

 

 ボスっぽいのがその子にさっと近づいて、片手で胸にタッチした。

 キャッと悲鳴を上げるエーヴァに向かってピュッと口笛を吹いて、近くの車両に駆け込んだ。

 

 その車両に匠が残っていた。

 みんなの最後に電車から降りようとしていた匠が、エーヴァの悲鳴を聞きつけてドアの前で立ち止まった。

 その車両に駆け込んできたボスが、大きな肩をどんと匠にぶつけた。

 

「なにすんだよ!」

 よろけた匠が叫んだ。

 

「どけよチビ! 邪魔なんだよ」

 笑いながら、ボスが片手で匠の身体を乱暴に払いのけた。

 

 弾みで飛ばされた匠は、危なくホームと電車の間にはまりそうになった。

 匠はとっさに肩に抱えていたナップザックをホームに放り投げ、電車からホームの床に前足を伸ばして着地した。

 

 着いた方の片足で、くるりと身体を半回転させ、体制を立て直した。

 

  匠はホームに立ち、電車の中の高校生に正面から向かい合った。

 両手をだらりと下げ、そいつを下から睨み上げた。

 匠の素早い身のこなしに驚きながらボスは匠を見下ろして、肩を怒らした。

 

「なんだよてめえ、文句あるんか!」

その一言で・・・匠の顔つきが一変した。

 

「匠、やめろ!」

 事態に気が付いたカレル先生が、ホームから振り向いて大声を上げた。

 

 匠は武道家の孫、鍛え上げられた跡継ぎだ。

 小さいが本気で殴ったら、高校生の方が危ない。

 

 高校生は、匠の右肩がぴくりと小さく動いたことに気が付いた。

 次の瞬間、下からズンと突き上げられて来る匠の拳を見て、思わず目を閉じた。

 

 高校生は殴られることを覚悟した。

 何事もないのでそっと目を開けると、拳は目の前1センチのところでピタリと寸止めされていた。

 人差し指と中指の二本が鈎爪になって両方の黒目のすぐ前にあった。
 

 ピピーと車掌が警告の笛を吹いた。

 茫然と突っ立っている高校生の前でドアが閉じていった。

 

 動き出した車両の中で、高校生が無事を確かめるように、自分の顔を掌でそっと触っているのを見て、匠はガラス越しに小さく手を振ってやった。

 

 匠は殴ってもいない相手の顔にすでに大きな生傷があって、制服の黄色い銀杏のマークに、血が茶色くなってこびりついていることに気が付いた。

 電車が出て行き、カレル先生がホームに全員を呼び集めた。

 

 匠はてっきり怒られるものと思って、身体を縮めて先生に近づいた。

「匠、お前よく我慢したな!」

 

 カレル先生は顔をくしゃくしゃにして匠の肩を叩いた。

 それからエーヴァに向き直って「だいじょうぶか?」と心配顔で聞いた。

 

どうってことねーよ

 

男の子みたいな口ぶりでエーヴァが答える。

「エーヴァ、あの高校生は中高のボスだ。この近くに大学付属の中・高一貫校があるんだ・・・」
 

 カレル先生は遠い昔を思い出した。

 あの高校生には見覚えがあった。

 

 それどころか、あの顔は忘れようがなかった。

 先生は頭を一振りして・・・「よっしゃー、我が家に向かって出発!」と全員に号令した。

 

 改札口を通りすぎたところで、エーヴァが匠の側に来て文句を言った。

「匠、おかげですっきりしたわよ。 でもさ、ついでにあの野郎、“ズン!”と殴り倒してくれてりゃもっと気持ちよかったんだ」

 言い終えると、エーヴァは拳を握りしめて勢いよく空に突き上げた。

「先生から喧嘩は止められてるからね。ちょっと驚かしただけだよ」

 そう答えて匠は・・・エーヴァの口から男の子みたいに乱暴な言葉が飛び出すと、なんだかとっても可愛くて~胸に“ズン!”~と来るな・・・と思う。

 

 駅を出ると、登りの坂道がだらだらと続いた。

 先頭を歩いて、息が切れてきたカレル先生は、坂の途中で愛用のハットを斜めに被り直して一休み。

 

 カレル先生は若い振りをしているが、実は相当のご高齢なのだ。

 みんなが追いつくと、「近いぞ、もう一息だ!」と気合いを入れ直して足を早めた。
  

  ×××
 カレル先生は少年時代を、この近くの家で両親と三人で暮らしていた。

 先生のパパはヨーロッパのプラハからやってきた高名な作家で、この近くの大学で客員教授としてヨーロッパ文学を教えていた。

 

 ママはその大学で学ぶ日本の学生だった。

 ある日、構内のレストランでたまたま同じテーブルで隣り合わせに座った二人は、無駄話から話が弾み過ぎて、ちょっとした口喧嘩になってしまった。

 

 とても年が離れているのに気が付いた教授があわてて謝った。

 相手が教授と気が付いた学生も、大慌てで謝って・・・大笑いした二人はその日のうちに仲良くなり、翌週には恋に落ち、一月後には二人だけで近くの教会で結婚式を挙げた。

 

 東京で一緒に暮らすことに決めた二人の間に生まれたカレル二世は、毎日を楽しく走り回って成長していった。

 今回の課外授業では、カレル先生が子供の頃に経験した楽しいことを、生徒たちにも体験させてやりたいと思っていた。

 

 自然の中で遊ぶスリルに満ちた興奮とか、季節の手料理とか、例えそれがひとときの虚構の体験であるとしても、子供たちが生きていくことの素晴らしさに気付く時間にしたいと願っていた。

 ×××

 

 初夏に向かう東京の五月の夕陽は新緑に反射して、目に痛い。

 とても高齢の先生は、太陽が苦手で、いつも愛用のハットを被って直射日光を避けている。

 

 四つ角に出るたびに、ハットを少しずらし、懐かしそうな目つきで周りを確認すると、

「こちらだ」と自信たっぷりに叫んで、早足で歩いて行く。

 そのうち、いまにも走り出しそうなペースになって来た。

 

 必死について行く生徒からは、先生はまるで宙に浮かんで飛んでいるように見えた。 

 坂道の傾斜が厳しくなってきて、最後尾のペトロとマリエがダウン寸前になったとき、ようやく高台にある大きな屋敷に到着した。

 

「ピンポーン、僕だよ!」 

 カレル先生が石造りの門の前で大きな声で叫んだ。
 

 庭を走る足音がして、長身のおじさんと優しそうなおばさんが、門を開けて出てきた。

 

「ハーイ! カレルの生徒たちだ、遠いところからみんな良く来た、良く来た」

 茶色い髪に青い目をしたおじさんは、大きな身体を折り曲げて男の子と握手を交わしたり、女の子と軽くハグしたりしている。

 

「いらっしゃい、お名前は?」

 若くて黒い髪の小柄なおばさんは、一人ずつ生徒の名前を聞いて顔を見つめ、忘れないようにもう一度名前を呼ぶ。

 それから両手で抱きしめる。

 

「おじゃましまーす!」

 全員で順番に門をくぐると、庭の石畳が奥の玄関まで続いていた。

 

 玄関のそばに大きな白い犬がつながれている。 

 でっかいワンコが先頭でやって来た大きな裕大を見つけて、勢いよく吠えた。

 

 「ブー太郎! お客さまですよ、静かにしなさい!」 

 おばさんが命令しても、ちっともいうことを聞かない。

 

 裕大を先頭に押し立てて、生徒が一列に庭の石畳を踏んで玄関に近づく・・・。

 ワンコはふさふさのしっぽを、丸いお尻ごと猛烈に振りながら、鎖をいっぱいに引っ張って、激しく吠えたてた。
 

 生徒たちは、でっかいワンコの前で立ちすくんでしまった。

 そのとき、小さなマリエがみんなの前に出て来て、自分より大きなワンコに歩み寄った。

 

「ブー太郎、どうしたの?」 

 腰をかがめて、優しく聞いた。

 ワンコは吠えるのを止めてマリエの顔を見て、少し首をかしげた。

 それから芝生にぺたんと座り込んだ。

 

 マリエはワンコの大きな頭を撫でてやりながら、お喋りを始めた。

 その隙間をみて、みんなはワンコのそばを通り抜けて、玄関に走り込んでいった。

 

「あら、マリエはブー太郎とお話ができるのね」

 おばさんがやってきて、マリエと二人でワンコとお喋りを続けた。

 

「マリエ、ブー太郎はなんて言ってたの?」

 ペトロが玄関の上がり間口でマリエを待ち構えて聞いた。

 

「頭、撫でて欲しいって! あの子はみんなに遊んで欲しくて吠えてただけなの」

 ペトロは庭に戻ると、白いワンコに思い切って近づいた。

 

 それから腰を屈めて怖々頭を撫でてみた。

 ワンコが嬉しそうに頭をすり寄せてきた。

 

「ペトロ、もっとしっかり頭を掻いて欲しいっていってるわよ」

 玄関からマリエの声が聞こえた。

 

 おばさんが庭に面した広いリビング・ルームにみんなを案内してくれた。

「男の子は二階のベッド・ルーム、女の子は一階の寝室、三人づつで一部屋よ」

 

・・・いつもは海外からの留学生を泊めてる部屋だから、自由に使っていいの。荷物を放り込んでから順番にシャワーを浴びて、六時にリビングに集合ですよ!・・・ 

 

 おばさんがお尻を叩いて急がせると、生徒たちは階段と廊下の二手に分かれて、自分たちのベッドルームに向かった。

 カレル先生の悲鳴が聞こえて来て、ペトロは階段の途中でリビングを振り向いた。

 

 先生より背の高いおじさんが「久しぶりだカレル!元気か?」と言って先生を抱き上げて、床の上をグルグルと廻っている。

 年上に見えるカレル先生が、ずいぶん若いおじさんに抱き上げられて、子供みたいに笑っていた。

 逆さまみたいだけれども、なんだかハッピーな光景だった。 

 

 六時になって、生徒たちがリビングに集合した。

 おばさんが淹れてくれた冷たいお茶で渇いた喉を潤して、お喋りして騒いでいると、玄関から「ピンポーン!」という男の子の声がして、ブー太郎が騒ぎ出した。

 

「ただいま!」

 大声を上げた少年がリビングに半分、顔を覗かせた。

 

「お帰り! みんなでお邪魔してるよ」

 それまで目を凝らして読んでいた久しぶりの朝刊をソファーに放り投げて、カレル先生が少年をリビングに招き入れた。

 

 部屋に入ってきた少年を見てみんなが目を丸くした。

 少年の青い目がカレル先生の瞳の色とそっくりで、顔つきもそっくり。

 そこまではみんなで予想していた通りでだれも驚かなかった。

 

 でも、よく見ると、着ている制服の上着はしわくちゃで、ボタンが半分取れて、胸のあたりに血がいっぱい付いて赤黒く汚れていた。

 

「また連中にやられたのか!」

 カレル先生が問い質した。

 

「うん」と頷いて・・・

少年は上着を脱いでカバンと一緒に派手にソファーに放り投げ、照れくさそうに頭を掻いた。

「駅で会った高校生たちだな! しつこい奴らだ」

 カレル先生はぶつぶつ独り言を言いながら、少年をみんなに紹介した。

 

「この子はこの家の一人息子で、私と同じ名前でカレルと言います。中学二年生です」

 

 カレル少年は、ちょっと照れくさそうに歓迎の挨拶をしてくれた。

「よくいらっしゃいました。みなさんのことは先生からなんども聞いています。ここは皆さんのお家だと思って、どうぞ思いっ切り騒いで下さい」

 

 匠は、カレル少年が着ている制服の胸のマークが、さっきの乱暴な高校生のものと同じ黄色の銀杏のマークであることと、血糊が少年の上着に付いているのに、顔や手足には生傷がまったくないことを見逃さなかった。

 

 生徒たちが順番に自己紹介を済ませると、先生がカレル少年を手招きした。

「匠はカレルと同じ中学二年だが、凄腕の武道家だ。二度と無い機会だから、匠からでかい奴らを相手にしたときの必殺技を教えて貰ったらどうだ?」

 

 先生は、カレル少年が目を輝かせたのを見て、匠に指導の約束を取り付けると、みんなをリビングに残して靴下を脱いだ。テラスから裸足のままで庭に出て行った先生は、ブー太郎に近づいて、首から鎖を外して自由にした。

 

 それから、先生は四つん這いになって、挑発するように、ブー太郎に一声唸った。

 ワンコが先生に飛びついた。

 取っ組み合いが始まって、先生がワンコに倒された。

 足をバタバタさせている先生の顔を、ワンコが上から長い舌でなめた。

 

 悲鳴を上げて逃げ回っている嬉しそうな先生の姿を、テラスのガラス越しに全員があきれかえって眺めていた。

 
 そのあと、カレル少年はリビングで生徒に取り囲まれて、質問攻めに遭った。

 通っている中学校の授業の内容とか、給食の献立とか、部活とか、いじめの話とかだった。

 

 いじめはずいぶんひどくて、カレル少年もやられるのは嫌いだから、柔道部に入って、毎日、朝稽古をして鍛えていると言った。

 匠は駅での高校生との一幕を少年に話した。

「カレル君はあいつにやられたんじゃなくて、やっつけたんでしょ」

 匠が高校生の顔の生傷を思い出して付け加えると、カレル少年が答えた。

「いい勝負なんだ。あいつ、中高のボスで子分いっぱい連れてるけどさ、いつも二人だけで勝負しようって言うんだ。そこんところはまともなんだよ」

 

「ガチンコの原因って、どんなことなの?」

 ボスにちょっかい出されて頭にきていたエーヴァが横から聞いた。

 

「僕が中学の授業に出ないで、近くの大学の研究室にしょっちゅう出入りしているのをたれ込みで知ってさ、それで怒ってんのさ。

・・・あれでもあいつ高校二年で学年委員なんだ。

 中学の先生が僕の研究を黙認しているので、余計腹が立つみたいだ。

 きっと僕のこと中学二年にしてはからだがでかいし、研究なんかしている生意気な奴だと思ってるんだろうけどね・・・

 僕にも大事な研究があるんだから、これ以上邪魔しないで欲しいんだ」

 

 匠は、カレル少年が目を輝かせながら話をするのをじっと聞いていたが、突然、カレル先生からの頼まれ事を思い出した。

 

「お主、できるな、一勝負するか!」

 匠が仕掛けて、二人の目が合った。

 

「センパイ!ご指導いただけますか?」

 カレル少年が頭を下げて、二人は庭に出た。

 

   一息ついたカレル先生とブー太郎が、仲よく見学を始めた。
 

 キッチンからうまそうな匂いがリビングに流れ込んできて、生徒たちのお腹がグーグー鳴った。

 「今日は天気がいいからテラスでデイナーだ」

 おじさんがエプロンを掛けたままキッチンから出てきて、庭に張り出したテラスに置かれた大きなテーブルに、取り皿を並べ始めた。

 

 生徒たちも手伝ってナイフやフォークやお箸をテーブル・クロスの上に並べた。

 おばさんが、料理を盛り付けた大皿をいくつも運んできて、テーブルに並べた。

 

 みんなが料理を見て歓声を上げた。

 咲良が料理のメニューや作り方も教えてとせがんだ。

 

 おばさんはエプロンで手を拭きながら、「カレル家の本日のメニューよ」と言って献立を紹介してくれた。

・・・これはね、カレルおじさんが買ってきてくれたイベリコ豚を、熱い大判のフライパンで皮ぱりぱりにソテーしたの。 

 とろとろのバルサミコ・ソースをたっぷり掛けてメイン・デイッシュのできあがり。 

 バルサミコ・ソースが薄いときにはプラムをつぶして混ぜるととろとろになるわよ。

 サイドに蒸し上げた春キャベツをいっぱい添えてと・・・キャベツは今が旬でとても美味しいの。

 

 それと、今朝、不思議なことが起こったのよ。

 

 朝まだ暗い中からブー太郎があんまり吠えるので、散歩に連れて行ったの。そしたらブー太郎が私を力ずくで、山の方に引っ張っていくの。

 行き着いた先はおじさんが大事に手入れしている竹藪畑。前足で土を掘り出したので、うんこでもするのかなと思ってよく見たら・・・違うの。

 土が盛り上がってるのを教えてくれたのよ! 

 なんてこと、季節外れなのに、まるでみんなの到着に合わせたみたいに、大ぶりで、真っ白なタケノコが六つも採れたわ。

 すぐに茹で上げておいた朝堀の白子を、バターとオリーブ・オイルで焼き上げたの。

 それにマーマレードとお酒とお醤油に木の芽を刻み込んだ特製たれを絡めて出来上がり。

 

 カレル家の旬の逸品よ!

 ブー太郎にお礼を言って、あつあつご飯で召し上がれ!・・・

 ドームの世界ではお目にかかれない山盛りの料理を目の前にして、生徒たちのお腹がまたグーッと鳴った。

 

 (続く)

続きを読んでくださいね。

この世の果ての中学校 2章「リアルの世界は一度逝ったら戻れない(中編)

 

 

【すべての作品は無断転載を禁じております】

この世の果ての中学校  一章 ハッピー・フライデー「ペトロの誕生日」

 

 

 

 

 

 

 地球に生き残った六人の子供たちが

命を無くして幽体に身を移した両親や

人工知能AIになった先生たちに教えてもらって 

助け合いながら逞しく 成長していくお話!

 

ドームの中にある生徒6人の小さな中学校!

金曜日はハッピーフライデーと呼んで授業は自由学習です。

そのうえ、もうすぐペトロの誕生日。

この先、いったいどんな冒険が待っているのでしょうか?

 

この日を担当する先生の足音が廊下から聞こえてきました。 

 

(プロローグをまだお読みでない方は、こちらからどうぞご覧ください)

この世の果ての中学校 プロローグ「ついにあいつがやって来た」

長編になりますので、ゆっくり読んでくださいね。

 

1章 ハッピー・フライデー「ペトロの誕生日」

 今日はハッピー・フライデーだ。
 ジュニア・スクールの金曜日は特別な日、朝から自由学習だ。

 その日の担当がハル先生なら「ファンタジーア」で幻想遊びが出来るし、カレル先生なら「パラレル・ワールド」へ跳んで、危ない異世界の探検かもしれない。 

 

 月曜日から木曜日までは、ハル先生の宇宙物理とカレル先生の生命科学、それに校長先生の歴史と政治だ。

 毎日とても難しい勉強が続くので、生徒たちは、金曜日を「ハッピー・フライデー」と呼んで、その日がくるのを待ちかねていた。

 

 もし校長先生がやって来たら大変だ。

 ハッピーフライデーなのに、政治の勉強が始まる。 

 

 ドームの中には、僕たち中学生が六人と、両親入れても全部で16人しかいない。

 あとは3人の先生と医務室のおばさんだけだ。

・・政治なんて勉強する必要ないのにな・・といつもペトロは思う。

 

「お早う!」

 ドアから顔を覗かせたのは、美人のハル先生だった。

「やったぜ!ファンタジーアでバーチャル・ゲームだ!」喜んだ匠が片足跳びでハル先生のまわりを飛び跳ねた。

 

 先生は教壇にツツーと登ると、胸に抱えてきたナノコンをデスクの上に、「どん!」と置いた。 

 でっかい音が教室に鳴り響いて、大騒ぎしていた生徒たちは、慌てて席に着いた。

 

 ハル先生はナノコンを開いて、画面のどこかをやさしく叩いた。

 教室の正面のブラックボードが点滅して、2文字のフレーズが浮かび上がった。

 

  『MY WORLD!

 

 みんなの視線がボードに集まるのを待って、ハル先生がいきなり怪しげな話を始めた。

 

「みんなの創ってる『マイワールド』なんだけどさ・・そろそろお互いに交換会を始めたらどうかなと思いついたの。

マイワールドはみんなの秘密の世界だから、他の人を招くのはとても勇気がいることだと思う。

でもお互いをもっとよく知るために、たまには心の中をさらけ出すことも必要じゃないかしら。

どうでしょう、どなたか思い切って自分から手を上げてくれる人はいないかしら?」

 

 ハル先生の目が、優しく探るように生徒たちを見つめていく。

 咲良とエーヴァとマリエは下を向いて、先生の視線を避けた。

 

・・・せっかく創り上げた秘密の世界だ。誰だって、他人に見せたいなんて思うわけないじゃないか? ハル先生、一体、何考えてんだよ・・・

 ペトロは無関心を装って、斜め上の天井に顔を向ける。

 

 ハル先生の目がぎらりと光って、1オクターブ甲高い声が飛び出した。

「そうだ、だれか今週か来週がお誕生日の方はいなかったかしら」

 

 先生の視線が彷徨って、ペトロのところで止まった。

 そのまま視線が動かない。

 

”これやばい!とてもやばい”

 ハル先生にやさしく見つめられるとペトロはどぎまぎしてしまう。

 ハル先生は変わっている。

 どこへ行くときも愛用のナノコンを大事そうに胸に抱えている。

 

 少しでも時間があればナノコンを開いて、宇宙の方程式の計算を始める。

「これって、スーパーコンピューターを持ち運びできるようにナノ・サイズに縮めた量子コンピューター。私の可愛い『ナノコン・ハル』よ」

 ハル先生はさらりと言う。

 

 先生はまるでカタツムリみたいだ。

 ナノコンの中で寝泊まりでもしているみたいに決して身体から離さない。

 

「誕生日が近いのは誰だって?」  

 そんなの、あさっての日曜日がペトロの誕生日だということぐらいみんなが知ってる。

 僕の家のバースデー・パーテイーにみんなを招待してるんだから。

 

 そのことをハル先生も知っていて試しているんだ。

 ペトロがマイワールドにみんなを招待する勇気があるかどうかをだ。

 

 これは誕生日に「僕んちへどうぞ」というのとは訳が違うぞ。

 マイワールドへの招待は自分の内なる世界への招待だから、普段考えていることがなにもかも知られてしまう。

 

 もしも手を上げて、次の日曜日が誕生日です、と言ったら「THE END」だ。

「それではペトロの世界に案内してもらいましょう。きっと忘れられない誕生日の記念になるわよ」

・・・先生はそう言うのに決まっている。

 ペトロは仲間にとても好き嫌いがある。

 好きな子には、誰にも内緒で来てほしいし、嫌いな奴には来てほしくない。

 

 好きなあの子は恥ずかしくて誘いにくいし、嫌いな奴は誘いたくないし・・

 だから今まで誰一人マイ・ワールドに招待したことがなかった。

 

 他のみんなだって、同じ気持ちだと思う。

「どうしよう」ペトロは悩んだ。
 

「そうだ!あの手だ」

 アメリカのナパ・バレーからやってきてまだ1年だ。 

 

 まだ間に合う。

 

「にほんご、たいへんむつかしい。ハルせんせい、なにいってんのか、さっぱりわからん」

・・・振りをした
 

 そのうち、みんながじっと僕を見つめ始めた。

「とぼけるなよペトロ、わかってんだろ」

 

 匠が横から、僕の脇腹をつついた。

「止めろよ。匠!」

 

 ペトロは、匠の手を払いのけて気がついた。

 誕生会には全員を招待したんだから、マイ・ワールドへの招待も好き嫌いがいえない筈だ。

 

「どうしよう・・」

 悩んで、考え込んだペトロをみて、美人のハル先生がにっこり笑って、ウインクした。

 「あっ!」ペトロの身体を電気が走った。

 

「はい! 先生」

 ペトロの右手が勝手に上がってしまった。

 

「しまった!」と思った時はもう遅かった。

 いつもの手でハル先生にまたやられた。

 

「あっ!ペトロが手を上げてくれました。それではみんなでペトロにお願いして、お誕生日のお祝いに、いまから『ペトロの世界』にお邪魔することにいたしましょう」

 ハル先生がすかさず言った。

 

「ハル先生!何がお祝いだよ!僕の気持ちなんか知らないくせに、先生が勝手に決めてるだけだよ」

 慌てたペトロが日本語で喋った。

 

「わたしもペトロのにほんごわからない」

 ハル先生はペトロの必死の抗議を無視して、ファンタジーアの郵便配達にスマホで予約まで入れてしまった。
 

・・・マイワールドは、それぞれの心の中で作られる小さな世界だけれども、実は「ファンタジーア」という無限に広がる幻想の世界の中に存在している。

 ファンタジーアは咲良ちゃんの両親が僕たち六人のために作りだした世界だ。

 

 昔よく遊んだバーチャル・リアリテイーに似ているが、こちらは現実に存在する世界だ。

 咲良ちゃんのママがファンタジーアの女王でファンタジーアの隅々まで支配している・・・

 

”あれ、なにこれ?早すぎる!”

 教室の窓の外、校庭の空に真っ赤な空飛ぶ自転車に乗った郵便配達のおじさんが現れ、校庭に舞い降りてきた。

 まるで、ハル先生と打ち合わせておいたみたいだ。

 

 おじさんは自転車を校舎の入り口の壁に立てかけ、駆け足で教室に入って来た。

 ハル先生に軽く挨拶して、ペトロを見つけると、赤い鞄からマイ・ワールドの鍵を取り出し、そっと手渡してくれた。

 

 ペトロの鍵はブラックだ。

 みんなのマイワールドの鍵は、色違いにしてあって、誰にも勝手に侵入されないように、ファンタジーアの郵便配達が預かって、管理事務所の金庫に大切に保管していた。

 

 ペトロが鍵を受け取ったのをみて、咲良とエーヴァとマリエがすっかりその気になった。

 ”ちょっと変わった男の子”ペトロの空想の世界を早く見たくて、ウズウズしていた。

 

 生徒会長の裕大と、ペトロの宿敵・匠は・・・「僕はどっちでもいいよ」と興味なさそうな振りを装っている。

 本心では、天才ペトロのブラックな世界を覗いてみたくて仕方がないはず。

 

 ペトロは受け取った鍵で胸の内ポケットを開けると、マイワールドに繋がる通廊の先っぽを慎重に引っ張り出した。

 風船のような黒い袋が、プーッとみんなの背丈くらいの大きさに膨らんでいった。

 

・・・僕の世界の静けさが天敵・匠の手で破られる・・・

「内なるペトロよ、御免!」

 

 ペトロはすっかり諦めて、マイワールドで留守番をしてくれてる筈の分身、影のペトロに秘かに謝った。

 それから、風船の表面に触って小さなゲートを作り上げるように小声で頼んだ。

 

 ゲートの奥には深い暗闇が広がっていた。

「みんな順番に並んで入ってくれ! いいね、乱暴にしないでソッとだよ」

 

・・・なるようになれだ!・・・

 

 ペトロがすっかり諦めたとき、ハル先生がそっと近づいて来た。

 ペトロの身体を後ろから両腕でふわりとハグして、とっても甘い声で囁いた。 

     

              「LOVE YOU!」
  

 ペトロの視界が一気に晴れた。

 

 ・・・よっしゃ、やったろうやないか!・・・

 

《警告! ここはペトロの世界への入り口です。ペトロの許可無く無断で侵入した者は厳しく罰せられます》

 黒い風船に真っ赤な注意書きが現れた。

 赤い文字は血の流れのように滴り落ちている。

 

「ペトロ、入ってもいい?」

 匠が、嫌に丁寧に聞いてきた。

 でも、その顔はハル先生の前では断れないぞ、と言っていた。

 

 匠は運動神経が抜群で、ペトロは100m走でも、箱飛びでも、それに宇宙遊泳でも、いくら頑張っても勝てない。

 

・・・そのうえ空手の名人らしい。

 悔しいから、あまり好きじゃない。

 でもいまは、ハル先生やみんなの手前、大きな心を持つ天才ペトロが、そんな小さな事で入場を断る訳にはいかない・・・
 

 ペトロはゲートの入り口を片手で支えて拡げ、もう一方の手で鷹揚にOKのサインを出した。
 

 宿敵・匠が「悪いな、それじゃ」

 生徒会長・裕大は偉そうに「おーす」 

 咲良とエーヴァとマリエが「お邪魔しまーす」

 適当な言葉を並べて、みんながペトロの心のゲートをくぐり抜けていった。
 

 最後に残ったペトロが、ハル先生を振り向いて「あれ?先生は来ないの?」と尋ねた。

 

「先生は大人だから、子供のマイ・ワールドには入れないの。教室でお留守番よ。あと、ペトロにお任せしますから、みんなをよろしくね」

 ハル先生の勝手な答えが返ってきた。

 

「わかった。それじゃ先生は僕の風船ゲートのお守りをしっかりお願いしますよ。出口が消えると迷子になって、永久に帰れなくなるからね」

 ハル先生が大きくうなずき返すと、安心したペトロは風船ゲートに飛びこんでいった。
 

 先生は残された風船ゲートを教室の隅っこに運んで、二つの机で挟んで動かないように固定した。 

 それから、教壇に登り、机の上のナノコンに向かって座った。

「さー、行くわよ!」

 派手に腕まくりをすると、先生は「宇宙の方程式」の計算を開始した。 

 

 しばらくするとハル先生の姿はどこかにかき消えて、机の上のナノコンの画面で、キー・ボードだけが勝手に動いていた。 

 誰もいなくなった教室に、カタカタという乾いた音がいつまでも響いた。
 

 

 裕大が先頭に立って一団は暗闇を進んだ。

 遠くに薄明かりの出口が見えた。

 

 トンネルを抜けると、そこは大きな広間だった。

 

「ペトロの神殿にようこそ!」

 いつの間に先回りをしたのか、黒い燕尾服に身を固め、白いシルクハットを被ったペトロが現れ、優雅に身を屈め、挨拶をした。

 そこは中世の聖堂を再現した広い空間「ペトロの神殿」の真ん中だった。

 

「ずっとここでお待ちしておりましたよ!」 

 神殿の奥にある祭壇の前に据え付けられた玉座から低い声が響いた。

 玉座の腕おきに偉そうに片肘をついた黒い影が、暗い顔をゆっくりとこちらに向けた。
 

 その顔はペトロにそっくりだった。

「僕のアバターだよ。いつも代わりに、留守を守ってくれてるんだ」

 ペトロがみんなに分身を紹介した。

「お疲れ様、その玉座、僕に譲ってくれるかな?」

 ペトロが頼むと、分身は生徒たちをじろりとひと睨みしてから玉座を降り、神殿の最深部に向い、おぼろの闇に消えていった。

 

「なんだか、本物より分身の方が威張ってるみたいだぜ!」 

 誰かがそう言ってククッと笑った。

 

・・・その声は間違いなく、匠!・・・

 

 ペトロは玉座の前に立つと、背筋をピンと伸ばして匠を睨み付けた。

「ここは僕のくつろぎの場所だ。頭にくることがあるとここへ来て怒りの対象を幻想で創り出して、厳しく処罰するんだ。たまには処分しちゃうことだってあるぞ」

 

 もう一言ペトロが付け加えた。

「ここはペトロの内なる世界。匠、僕のやりたい放題だ!」

 

「ヤベー」匠が思い切り首をすくめた。

 いつもの二人のやりとりに、全員が思わず吹き出した。

 

 笑い声に釣られて、どこか近くから小さな笑い声が聞こえてきた。

 ペトロの座っている玉座の脇机に不思議な形の楽器ケースが立てかけられていた。

 

 ケースの中で、笑い声が聞こえる。

 気がついたマリエが楽器ケースに近づいて耳を傾けた。

 

「あら、この中にいるあなたは何者?」

 マリエが尋ねた。

 

「僕の友達だよ」

 ペトロが答えて、立てかけられた楽器ケースの蓋をゆっくりと開けた。

 

 そして、ケースの中からヴァイオリンを大きくしたような弦楽器を取り出した。

 それは丸く膨らんだボディーが二つあって、その上にネックと頭が一つだけ付いている不思議な形をした弦楽器だった。

「これはガンバという昔の楽器だよ。ママが得意の弦楽器なんだけど、一人で合奏できるように、ボディーを二つにして双子のガンバを作ったんだ。双胴で音量が倍増して、低音を重ねて力強く響かせるんだ」

 二つのボディーは鮮やかな赤と緑に色分けされていた。

 ネックには六本の弦が張られていて、赤い弦は赤いボディーに緑の弦は緑のボディーに三本ずつに分かれて繋がっている。

 

「御挨拶だよ。二人とも出ておいで」

 ペトロが声をかけると、赤いボディーからは赤い服を着た小さなピエロが、緑のボディーからは緑の服を着た小さなピエロが飛び出してきた。

「こんにちはマリエ、俺たち双子のアーテイスト」

 ピエロはみんなの前にやってきて、二人一緒にぺこんとお辞儀をした。

 

 それから、両手をつないで、時計回りに回転を始めた。

 スピードが上がり、二人の身体が白くぼやけていった。

 

 最後に、白い生地に赤と緑のストライプ入りのピエロが一人現れた。

 一回り大きくなったピエロは、ケースから折りたたみの椅子を取り出して組み立て、そのうえに座り込んだ。

 

 ピエロはガンバを両足でがっちり挟み込んだ。

「準備OKだ」ピエロがペトロに伝える。

 

 ペトロは脇机から指揮棒を取り出し、玉座の前に立つた。

 そして、神殿に響き渡る声で開演を宣言した。

 

「ご来場の皆様、ウエルカム・ページェント《ペトロの一夜》の始まりです」

 五人の小さなゲストから拍手が飛んだ。

 匠がピュッと口笛を吹いた。

 

 ペトロは台座の脇を指揮棒でトントンとたたいて、ゲストに静寂を促す。
 そして、ゆっくりと指揮棒を宙に持ち上げた。

 

 ピエロが指揮者の一振りを待ち構える。 

 

 ペトロが一気に指揮棒を振り下ろした!

 ピエロの右手がしなり、双胴のガンバを激しく打ちたたいた。

 

 ガンバの二つの胴体から、低く怪しげな旋律が鳴り響いた。 

 ペトロの大好きな曲、ムソログスキーの「はげ山の一夜」だ。 

 

 誰もいない筈の神殿の奥からオーケストラの伴奏が流れ、薄闇の天蓋から甲高いコーラスの声が降ってきた。

 

 ガンバが通奏低音を響かせると、生き残った緑の森の精霊たちが集まって、神殿の暗闇でひそひそ話をしている。

 

 ペトロの指揮棒が風を切り裂いた。

 

 ガンバの赤のボデイからは赤い色の光線が、緑のボデイーからは緑の光線が神殿の天蓋に向

けて放たれた。

 

 空中で二つの光線が交わると黄金色の文字が鮮やかに描かれ、宙に流れていく。

 

  《ペトロのホラーの世界にようこそ!》

 

    《WELCOME 咲良!》

    《WEKCOME 裕大!》

 

    《WELCOME エーヴァ》

    《WELCOME 匠》

 

    《WELCOME マリエ》

 

 ゲストの名前をペトロが朗々と読み上げ、生徒が歓声で応えていく。

 突然、ペトロの形相が変わった。 

 暗くゆがんだ顔が暗闇に浮き、指揮棒が苦しげに、宙に舞った。
 

 ピエロの腕がしなり、弓を弦に激しく叩きつける。

 “ギギッ! ギギッ! ギギッ!”
 

 耳障りで、不快な音が神殿に響き渡った。 

 ペトロの魂が叫び声を上げ、魔界を目覚めさせ、異形の者達を呼び集める。

 

 漆黒の闇を、怪しく光る魔物の影と甲高い魔女たちの叫び声が飛び交った。 

 マリエとエーヴァが耳を塞いで、その場に座り込んだ。

 

 絶滅したいのちが群れ、暗い地の底から蘇り、神殿の床を突き破ってにじみ出してきた。

「命を返せ!どうせ食われる命ならこちらから先に食い尽くしてやる」

 

 器を亡くした命の群れが神殿に蘇り、闇を飛び、病原体となって人間の四肢を襲い、内側から食い尽くしていく。

 死んでも死に切れない人間の抜け殻、アンデッドがゲストにささやきかける。

 

 みんな死んだ! おまえの兄貴も弟も、可愛い妹も、ほら、あの仲の良かった遊び仲間も。

  みんな死霊となって、うじゃうじゃここにいるぞ。

 

 どうしてお前だけ、生き残った?

  生き残ったおまえの魂をよこせ! フレッシュでうまそうなおまえの魂だ!

 

 異形の者達が、生き残った子供たちを闇の世界に誘い込もうと上空から襲いかかって来る。 

 五人のゲストは魂を両手で抱え込み、悲鳴を上げて逃げ惑った。

 

 ペトロのアバターが宙に現れ、怪鳥に姿を変えた。

 禿げた怪鳥が匠の頭上を舞い、鋭いくちばしを振るわせた。

 

 匠は頭を抱えて、しゃがみ込んだ。 

 

「ペトロ!そこまでにしなさい」

 咲良が大声を上げた。

 

 咲良はファンタジーアの王女、幻想を操るサラ一族の娘だ。

「ペトロ、ファンタジーアの力で人を傷つけてはだめ」

 

 咲良の一声がペトロの理性を呼び戻した。

「宴は終わりだ。闇のものたちよ、闇に戻れ!」

 

 ペトロが叫び、異形の姿が消えると、神殿の奥でシンバルと大太鼓、小太鼓が騒ぎ始めた。

 双子のガンバから二色の光が放たれ、宙空に再び黄金の文字を浮かび上がらせた。

 

 《内なる異形の者の逆襲で、人類は希望を使い果たした》
 

  黄金の文字が飛び散り、天蓋にぶつかり、消えていった。

  ペトロは玉座に立ち上がり、両手を高々と上げ、身をよじって絶望を表現した。

 

  広場に向かう神殿の扉が重々しい音を立てて開き、朝の明るい光が神殿に差し込んでくる。

 

「夜明けとともに魔物達は魔界へと帰って行った。そして世界は平穏を取り戻した」
 

 終演の宣言を済ませると、ペトロは燕尾服を脱ぎ捨て、指揮棒とともに天井に放り投げた。

 アバターが現れて衣装を受け止め、暗闇を求めて姿を消した。

 

 ピエロはゲストに手を振りながら双子に戻り、ガンバの双胴に飛び込んでいった。

 ジーパンとTシャツとスニーカーに戻ったいつものペトロが玉座から降りてきて、宿敵、匠に聞いた。

 

「匠、どうだった? 少しは涼しくなった?」

 

「すごかった! でもあの魔物たち、まるで本物みたいで怖すぎるから、絶対アンコールはしないよ」
 

ペトロがにやりと笑って匠を追い詰める。

「でもね、あのホラーとアンデッドは僕の創ったものじゃないんだ。ここんとこどこかから勝手に現れるんだよ。多分ドームの隙間から潜り込んで来たんだ」

 

・・・「あれってもしかして・・本物だよ!」

 

「冗談止めろよ!」

匠がぶるっと震えた。

 

ファンタジーアのどこかに、最近ホラーやアンデッドが住みついたと言う噂が大人たちの間で流れていた。

 

・・・廃墟と化した世界の果てから、異形のものたちが、生身の人間の匂いをかぎつけて、ここドームの中へ潜り込んできたらしい・・・と。

 そんな噂があることを知っていたのは、六人のうちでファンタジーアの女王の娘、咲良だけだった。

 ペトロに案内されて、五人は神殿から小さな階段を下りて、細かい砂が敷き詰められた広場に出た。

 白い砂が朝の日差しを浴びてきらきら輝いていた。

 

「全隊、集合、整列!」
 

 ペトロの一声で、広場に散らばって寝転がっていた兵隊が起き上がり、横一列に整列して、生徒たちを出迎えてくれた。

 ペトロの創り上げたおもちゃの兵隊たちだ。

 

 ペトロが号令をかけた。

「右向け右、小隊前へ! 一、二、一、二」

 兵隊が前進を始めると、ペトロは古い日本の童謡を歌い出した。

「♯ヤットコヤットコ繰り出した、おもちゃのマーチがラッタッタ♭」

 ペトロはガンバ演奏家のママに似て音楽が大好きなのに、歌を唄うと調子外れだ。

 兵隊たちの行進が乱れて、方々でガチャガチャとぶつかり合った。

 ペトロのそばで匠が小声で「おもちゃのマーチ」を歌っていた。

 匠はペトロがびっくりするほど歌がうまかった。

 

「匠、一緒に歌わないか」

 ペトロが思い切って声をかけた。

 

「よっしゃ、任しとけペトロ!」

  匠が喜んで、大きな声で歌い始めると、兵隊たちは二列に並んで整然と行進を始めた。

 

 交互に足を規則正しく前方に繰り出し、片腕は鉄砲を上手に上げ下げしている。

 匠が歌うのを止めると、行進を止めて、その場でピタリと整列した。
 

 続きをペトロが歌うと兵隊はあちこちに散らばってしまう。

 匠が歌うと集合して、また整然と行進をする。

 

「うぐぐっ!」

 笑いをこらえていた裕大がたまらず噴き出した。

 

「フギャー!」

 咲良とマリエとエーヴァは地面に転がって笑った。

 

《おもちゃのマーチ》はペトロが故郷のサンフランシスコを離れて、一家三人でドームに避難してきたとき、カレル先生から日本語の勉強のために聞かされた日本の童謡だった。

 

 出だしのフレーズが面白くて、思わずパパと一緒に歌った曲だ。

 パパも歌は下手だった。

 

「僕は科学技師のパパの血を引いたんだ。科学は得意だから歌は下手でいいんだ」

ぺトロはそう言ってパパを喜ばせたが、そのパパがここんところ家の中で姿が見えない。

 

 多分ドームの地下の研究室にでもいるんだと思う。

 すこし寂しいので、ペトロはここへ来てはおもちゃの兵隊を唄って、パパを忘れないことにしている。

 ペトロが指揮して・・全員でおもちゃの兵隊を唄った。

 

 ・・・午後の日差しが強くなってきた。

 広場の向こうには、大きく深い森が拡がっていた。

 

「あの森は肝試しの森だよ。森のなかに秘密の仕掛けがいっぱい隠されているんだ。一人ずつ順番に探検に出かけてみない? 退屈はさせないよ」 

 ペトロがしつこくみんなを森に誘ったけれども、全員顔を見合わせて動かない。

 

・・・ペトロのことだ、とんでもないことを仕掛けているのに違いない・・

 

 最初に匠が逃げだした。

・・・もう騙されないぞ。

 あの森はブラックな世界に決まってる。

 ペトロの神殿でさえ、あの凄さだ。

 あの森に踏み込んだら、二度と学校には戻れない。

 ペトロと顔を合わせたらやばい。

 魔界に連れて行かれっちまう。

 逃げるが勝ち!・・

 

 匠はペトロに気づかれないように、みんなからそっと離れ、一人でペトロの世界の探索を始めた。

 森の入り口のすぐそばに、一本の巨大な菩提樹が空に向かって伸びていた。

 

・・・緑の木なんて、とうの昔に消えちまって地球のどこにもないのに、ペトロの奴、すげーもん創りやがった・・・

 匠は空に届きそうな巨木を眺め上げてから、幹に沿って視線を下ろした。

 

 地面に近い太い幹の処に、祠のような大きな穴が空いていた。

 祠は誰も入れないように、白く塗った木製の可愛い柵で囲まれていた。

「なに? これ」

 匠は思わず祠の中を覗き込んだ。

 祠の穴の向こう側に不思議な世界が広がっていた。

 青と緑と赤の光のモザイク模様でできあがった小さな庭園。

 

・・・凄い、この中、ペトロの幻想空間・・・

「祠の向こうに別世界が見えるよ!」

 匠は、大きな声でみんなを呼んだ。

 ペトロが大慌てで、駆け寄ってきて、

「ここはだめだよ!」と、顔色を変えて叫んだ。

 

「ここは森の中の森だよ。僕のプライベート・ゾーンだ。ここだけは絶対、誰も入れない!」

 ペトロが祠の前で両脚を踏ん張って、集まったみんなの前に両手を拡げた。

 

「なーんだ。つまんねーの!」

 匠がぼやいて、大げさに片足で土を蹴飛ばした。

 

「小さな柵に守られた可愛い祠!ペトロはここで一体何をお守りしてるの?」

背の高い咲良がペトロの頭越しに祠を見つめた。

 

「マリエ、ここ怪しいわよ! サラ一族の娘として、見過ごすことなどとてもできませんわ」

  咲良が一歩祠に近づいた。

 

 マリエも我慢できなくなって、ペトロの隙を見て、祠に三歩、近づいた。

「あらっ! 中からだれかの溜息が聞こえるわよ! ちょっと、静かにして」
 

 みんなが黙り込むと、祠の中からうっとりと囁く声が聞こえた。

 

「なんて素敵なとこなの。陽だまりに緑が一杯。花の甘い香りに包まれて、エーヴァはここで眠りましょう」

 匠が見つける前に、エーヴァが祠の穴に気が付いて、柵を乗り越えて勝手に中に入り込んでいた。

 

 みんなの視線がペトロに向けられた。

 

「頼むよ、このなかペトロの天国だろ? OKしてみんなを入れてくれよ」 

 生徒会長の裕大にそこまで言われても、ペトロは首を横に振った。

  マリエと咲良が目配せをした。

 二人はペトロにそっと近づいて・・両側から同時にウインクした。

 

 ペトロのおつむがパチンとはじけた。

 もう一度パチンとはじける音がして、祠の柵が勝手に開いた。

 

「また、やられた!」

 ペトロが悲鳴を上げた。

 

「やったぜい!」

 マリエと咲良が嬉しそうに祠をくぐり抜けていった。
 

 匠が「御免よ」と謝って二人に続いた。

「おっす!」最後に裕大が身体をかがめて祠を通り抜けていった。
 

 祠の向こうは、森に囲まれた小さな花畑だった。

 芝生の青、斑入りの葉っぱの緑と白、花びらのピンクと赤、まだ熟していない小さな果実の黄色、いろんな色が幾何学的な文様を描いて、モザイクのように花壇を作り上げていた。
 

 芝生の上で、両手を伸ばしたエーヴァが、気持ちよさそうに寝っ転がっていた。 

 ペトロの案内で、みんなは花畑を散歩した。
 

 花畑の奥には緑の森に囲まれた小さな空間が拡がっていた。

 そこには森の木漏れ日が差し込んで来て、中央では石組みの噴水がきれいな水を空に噴き上げている。

 

 みんなは水を口に含んで、渇いたのどを潤した。

「おかしいわね。こんな素敵なところ、ペトロはどうしてあんなに必死で隠したのかしら」

 

 咲良がそっとマリエに尋ねた。

「ペトロ、きっとまだ何か隠してるわよ」マリエが答えた。 

 

 どこかから甘い花の香りが漂ってきた。

 小さな黄色い花びらがいっぱい風に乗って飛んできて、噴水の石垣に舞い落ちた。

 

 石垣の上で花びらが重なって、可愛い妖精に姿を変えた。 

 妖精は石垣にちょんと腰掛けて、足をぶらぶらさせた。

 

「こんにちは・・」妖精がみんなに呼びかけてきた。

  妖精は誰かに似ていた。

 

「あっ、あの子、マリエにそっくりだ」

 めざとい匠が、ずばりと指摘した。
 

 妖精は小さなマリエだった。

「黙れ、この野郎!」
 

 ペトロが慌てて、匠に拳を振り上げた。 

 途中で止めて、「ばれちゃったか!」と叫んでしまった。

 

・・・あれっ、これって告白になってしまった・・・

  ペトロはもうやけっぱちだ。

 

・・・マリエにだけ分かってくれればよかったのに・・・

 小さな妖精が噴水でコロコロ笑っていた。

 

 突っ立っているペトロに、本物のマリエが駆け寄った。

「こんなに可愛い妖精にしてくれてありがとう」

 

 マリエがペトロのほっぺたに大きな音を立てて、キスをした。

 ペトロが驚いて目をまん丸にしたので、みんなが大笑いした。
 

 マリエは妖精に近づいて謝った。

「こんにちは、あなたは私のマリエでなくてペトロの心のマリエなのね。こんなところまで勝手に入り込んでごめんなさい」
 

 妖精はにっこりと微笑んだ。

「妖精としての私の役目は終わりました。あとは本当のマリエにお任せしますね」
 

 そう言って妖精は空に舞い上がると、菩提樹の精霊に戻って、古い巨木の黄色い花々の中に姿を消した。
 

 妖精が去ると、みんなは森の中の森で、一休みをした。

 暖かい木漏れ日を浴びながら花畑に寝っ転がって、山ほどお喋りをした。
 

 隠し事がなくなったペトロの心はすっきりと晴れ上がった。

 今日のところは大嫌いなあいつを許してやろうと心に決めた。

 

 眠気に誘われて、うとうとし始めたペトロの耳に、花に群がる蜂たちの騒がしい羽音と、みんなの楽しそうなお喋りが混じり合って《ぶんぶん、ぶんぶん》と合唱しているように聞こえた。

 

 心の闇がいつの間にか消え失せて、ペトロはいま、懐かしい故郷・ナパバレーの春の日だまりの中にいた。 

 

 陽が陰って、少し肌寒くなってきた。

「そろそろ学校に戻ろうか。きっと、ハル先生が心配してるよ」

 

 ペトロが立ち上がって、みんなに声を掛けた。

「ペトロの世界・ご退場口」と書かれた看板を担いだ双子のピエロが現れ、祠の穴の前に立てかけた。

 

「本日はお越しいただきましてまことにありがとうございました。またのご来場を心からお待ちしております」 

 双子のピエロがペトロに代わって、深々とお辞儀をした。

 

 みんなで祠をくぐり抜けると、そこは教室だった。

 

 ハル先生は教壇のデスクで膨大な計算を続けていた。

 正面の電子ボードには一行の簡単な数式が書かれていた。

 

 それはペトロが初めて見る数式だった。

 先生はついに宇宙の第一方程式を完成させて、宇宙の第二方程式に取りかかっていた。

 

 周りが騒々しくなっても、ハル先生は「お帰り、どうだった、ペトロの世界は面白かった?」と顔も上げずに聞くだけだ。

 

「先生、ただいま!」ペトロがハル先生の顔をのぞき込んだ。

 

 宇宙の方程式の計算が佳境に入ってしまうと、先生は周りのことがまるで目に入らない。

 そのうちファンタジーヤの郵便配達が、ペトロのマイワールドの鍵を預かるために教室にやってきた。

 

「明日から、マイ・ワールドの森の中の森の改装に取りかかりますので、しばらく鍵は自分で持っていてもいいでしょうか?」

 ペトロは妖精がいなくなった森の庭園を、どんな風に改修するか計画を練り始めていた。
 

・・・森の中には数十カ所にホラーを仕掛けてある。

あれは長い時間を掛けて、練りに練った必殺の仕掛けだ。

次はどうしてもみんなを森の中まで引きずり込みたい。

そうだ、森の中の庭園は、恐怖の森へのエントランス・ゾーンに改装しよう。

はじまりは、優しくみんなをお花畑に誘い込む。

 

一歩踏み入れたら最後、そこは帰らずの庭園となる。

日が落ちると、花に群がる蝶や蜂たちは地下の薄闇に帰り、昔の幼生の姿に戻って、ぶくぶくの地虫に変身する。

白や、黒や、黄色まだらのでっかい地虫たちが地面からうじゃうじゃと出てきて、みんなをホラーの森へと追い立てる。

匠は逃げ足が早いくせに、どうしてか尺取り虫が苦手で、立ちすくむ。

あいつスマホで電子図書館の昆虫図鑑を見ていて、緑色した尺取り虫が小さな昆虫捕まえて食べる動画にギャッと悲鳴上げてたぞ。

そうだ、でっかい緑色した尺取り虫が大口開けて、うねうねと匠を森に追い詰めることにしよう・・・

 

 匠の慌てる姿を想像して、ペトロはニヤリと笑った。

「鍵は大切にお持ち下さい。改装の結果も忘れずにご報告下さい」
 

 郵便配達の声でペトロはハッと我に返った。

 郵便配達のおじさんは咲良を見つけると、いまからファンタジーアに戻りますが家までお送りしましょうかと声をかけた。

 

 咲良の家はファンタジーアの中にある。
「お願い、パパ」

 

 咲良が答えて、慌てて口を塞いだ。

 みんなはしらん振りをしていたが、郵便配達のおじさんが咲良のパパであることぐらい、ペトロもみんなもとうの昔に知っていた。
 

・・・だって、ファンタジーアの王様なんていう偉そうな人は一度も学校に現れたことがないんだから、いつでも気楽に顔を覗かせる郵便配達のおじさんが咲良のパパに決まっている・・・
 

 咲良はペトロにマイ・ワールドのお礼を言ってから、郵便配達の自転車の後ろに乗せてもらって空に舞い上がり、みんなに手を振って家に帰っていった。 

 

「ペトロの世界、めっちゃ面白かったぜ。また誘ってくれよ!」

 ペトロより少しだけ背の高い匠がペトロの頭を上から軽く叩く。

 

「つぎは、匠向けのスペシャル・ヴァージョン考えとくよ」

 ペトロは、ちょっと背伸びをして、匠の頭を軽く叩き返した。

 

「ペトロ、今日はありがとう。あさっての日曜日にも、みんなでペトロの誕生会に行くからな、よろしくな!」

 生徒会長の裕大がみんなを代表してペトロにお礼の挨拶をしてくれた。

 

・・・僕の誕生会をみんなが楽しみにしてくれてるんだ・・・

 ペトロはなんだか友達が十倍に増えてしまったような、ハッピーな気持ちになった。

 

・・・ハル先生が僕の狭い心を十倍に拡げてくれたんだ・・・

 

「ハル先生ありがとう」

 ペトロが小さな声でお礼を言うと、ハル先生はナノコンの手を止めて振り向き、ゆーっくりと唇でことばを描いた。
 

     「LOVE YOU!」 

 

 ペトロはマリエを家まで送っていった。

 マリエの家は丘の上にある教会だ。

 途中二人でいっぱいお喋りをした。

 

 教会の入り口で別れ際に、マリエがペトロのほっぺたにまたキスをした。

 迎えに出てきたマリエのママが二人を見て、笑っていた。

 

  ペトロは今日の出来事を一刻も早くママに報告したくて、家までの距離を一気に駈け抜けた。
 

            《続く》

 

 

続きを読んでくださいね。

この世の果ての中学校 2章「リアルの世界は一度逝ったら戻れない(前編)」

 

 

【すべての作品は無断転載を禁じております】

この世の果ての中学校  プロローグ「ついにあいつがやって来た」  

 

果たして、君は生き残れるか? 

 

 

 

 

 

 

21世紀の末、地球温暖化で灼熱地獄と化した地球。

絶滅した人類の中で・・・地球に生き残ったわずか六人の中学生が、幽体となって現れる両親や先生の助けのもと、逞しく成長していく物語です。

 

プロローグ「ついにあいつがやって来た」

 

 その日、カレル教授はただ一人で実験室に閉じこもった。

 部屋の中央に置かれた実験台の上に白衣の若い女性が横たえられている。

 その顔からは既に生気が失われていたが、表情には少女のようなあどけなさが残されている。

 国立科学研究所の堅い守りをくぐり抜けて、ついにあいつは実験室の内部にまでやってきたのだ。

 そして愛するハルを襲い、命を奪った。
 

 やつらの正体は病原体だ。

 食物連鎖のピラミッドの頂点に君臨してきた人類に対して、被捕食者たちが逆襲のために送り出してきた最終兵器だった。

 

 生きるために食った食料が、人間の体内で有害な病原体に変貌したのだ。

 そいつは内側から人を襲って、細胞に侵食し、繁殖する。

 病原体はカレル教授の研究仲間を襲い、ついに科学者で幼なじみの婚約者ハルの命までも奪っていった。 

「明日にはハルを病原体とともに焼き尽くさなければならない」

 

・・・でも、それまでにどうしてもやらねばならない事がある。ハルのすべてを奪われてたまるか!・・・ 
 

 教授のうなり声は、いつしか慟哭に代わった。
 

 薄い夕闇が訪れても、カレル教授はハルに寄り添い、嗚咽を繰り返した。

 夜になり、教授はハルにすがりつくような姿勢で、ベッドの側に寝込んでしまった。

 
“バタン!”

 固く閉じておいたはずの実験室のドアが、外から乱暴に開けられた。 

 焼け付くように暑い夜の風が吹き付けてきて、教授は目を覚ました。

 

「カレル教授、夜分、お邪魔いたします。どうか、突然の非礼をお許しください」

 教授の目の前に、白い法衣を身にまとって、黒いカバンを胸に抱えた男が立っていた。

「何者だ!」

 いきなり現れた見知らぬ男に驚いた教授が叫んだ。

「驚かないでください。私は牧師です。ドアをノックしたのですが、応答がなくて、ドアをこじ開けて入り込んできました。今朝、ハル先生の訃報をお聞きして、教会の総本部からお祈りをあげるために派遣されて参った者です」

 牧師を名乗る男は早口でまくし立てる。

「教会の本部かなにか知らんが、そこを動くんじゃない!」教授は近くのデスクに走り、警報ボタンに手を伸ばした。

 

「無駄です」教授の動きを押しとどめるように男は首を横に振る。

「正面ゲートに警備の人たちは一人も残っていませんでしたよ。悲しいことです。全員病原体にやられたのでしょうか」

 教授は無言でブザーを数回、押した。しかしゲートからも詰め所からもなんの応答もない。

「家族のことが心配になって、警備を離れただけならいいのですが・・・」牧師が小さな声で謝るように言う。

 

「何だと、この研究所のゲートが無人だというのか?」

 教授の詰問に牧師はゆっくりと頷く。

「AIの警護ロボットが一人で仕事をしておりました。私の顔をスキャンして国際認証を済ませてから、入場を許可してくれましたよ。きっと教会本部から緊急連絡がはいっていたのでしょう」

 牧師は首にぶら下げた入場許可証をちらりと見せた。

「教授、亡くなられた研究所のお仲間とハル先生に対して心からのお悔やみを申し上げます。私たちは、教授とハル先生が生命科学の分野で数々の素晴らしい成果を上げてこられたことを教会のネットワークを通じてよく存じ上げております。私は牧師の勤めとして、病原体と戦い犠牲となられたハル先生に、どうしても祈りを捧げなければなりません」

 牧師は教授が口を挟む暇を与えず、たたみかけるように話を続けた。

「カレル教授、これからのあなたの人生のためにも祈らなければならないのです。お二人で交わされた特別な約束を守るためにです」
 

 ハルとの約束事だと?

 この牧師はなぜそんなことまで知っている。

 この男は一体何者だ? 
 
 二人が特別な関係であることは二人だけの秘密だった。

 昔、小さな教会で、先の知れない未来につかの間の約束を交わした二人は、その後も実験に明け暮れ、月日だけが過ぎていった。
 

・・・ハルと過ごしたこの研究所も、私以外にはだれも守る者のいない裸の砦になってしまったのか。 

 
 我に返った教授が、目の前に立つ遠くからの闖入者を眺め直した。

 

 鉄灰色の髪に青い目、中背で東欧系の引き締まった顔立ち。

 30代かそこら、まだとても若い。

 聖職者というよりは、海外からの若い留学生のようだ。
 

 静かに見返す男の目は青く澄み切っていた。 

・・・東欧の深い湖のような瞳が、教授の乱れた心を誘い込むように慰めていった。

 

「それでは、失礼して、ハル先生にお祈りを上げさせていただきます!」
 

牧師と名乗る男の決然とした言葉使いに、教授は思わず頷いてしまった。

 男は、立ち上がり、ハルが横たわる手術台に向かった。

 抱えてきた黒いカバンを開けると、中から白い花の一束を取り出し、ハル先生の胸の上にそっと置く。

 そして十字を切って、祈りをあげた。

「とても美しいお方だ」 

  呟きながら、牧師は小さなパンとぶどう酒の小瓶を取り出すと、閉じられた唇に、ぶどう酒の香りとともにひとかけらのパンをそっと挟んだ。

 次に、用意した聖水を胸のあたりに一振りすると、聖書の一節を読み上げた。
 

 牧師の祈りは、教授の胸にやさしく届いた。

「カレル教授、どうぞご一緒に・・・」 

 

 声をかけられて、教授は牧師と並んで立ち、祈りを捧げた。長い儀式を終えると、牧師は十字架を鞄に収め、教授の耳元で囁いた。

「終わりました。いつの日か、ハル先生が復活されることをお祈りしておきましたよ」
 

 教授は、思わず牧師を睨みつけた。
・・・まだ胸の内にある計画なのに、この牧師はいったい・・・
 

 教授は恋人のハルをどうしても取りもどしたくて、ある計画を実行しようと心に決めていた。

 不審に思った教授は、思い切って牧師に聞いてみた。

「牧師、どうやら、私がこれからやろうとしていることをあなたはすでにご存じのようだが?」

 

 牧師が微笑んで答えた。

「カレル教授、その答えはあなたの目の中に書いてありますよ。どなたでも、かけがえのない大事な人を失った直後はいろんな思いに耽るものです」

 牧師はもう一言、付け加えた。

「ハル先生の魂は私がしばらくお預かりいたしましょう。新しい器が出来上がるまで・・・」

 その言葉に驚いたカレル教授は牧師の目を確かめるようにのぞき込んだ。

 教授の計画とは、いつかハルの魂をこの世界に復活させることだった。その計画をハルに話したとき、死を覚悟していたハル自身も、それを強く希望したのだった。

 

 教授はあらためて、牧師を見つめた。

 牧師の青い瞳の奥はどこまでも澄み渡って、一点の穢れもなかった。

「教授、ご懸念には及びません。肉体を失った魂をお預かりすることは、牧師として当たり前の勤めなのですから」

「ハルの魂はいずれ私の元に返していただきますよ」

 教授の真剣な口ぶりに、牧師は思わず吹き出した。
 

 それから、遠慮気味に尋ねた。

「教授、急の長旅で疲れました。もう少し伺いたい事もございますので、どこかに座らせていただけると嬉しいのですが・・・」

 教授は一言詫びて、牧師にソファーを勧め、自らはデスクの椅子をずらして、牧師に向かい合う形で腰を下ろした。

「お祈り、ありがとうございました。その上献花までしていただいて・・・ここ東京ではハルの大好きな白い花などとても手に入らなくて困っておりました。ハルもきっと喜んでおりますよ」

 

 礼を述べ、一拍おいた教授は、日本語を流ちょうに話す不思議な牧師の身元を詮索し始める。

「ところで牧師様は、先ほど総本部とおっしゃったが、どちらの総本部からお越しいただいたのでしょうか? 横浜や神戸の教会とか日本の沿岸部はすでに人影がないと聞いておりますが」

 

「ヨーロッパにございますキリスト教会の総本部から参りました。各国の教会からは牧師も、神父も姿を消しつつありますので、今は会派の違いを超えた総本部を作り、拠点を移動しながら、協力し合っております。このたびは、名もない牧師の私が神に仕える者の代表として遣わされて、専用機で三時間を飛んでようやくここまでたどり着きました」 

 

・・・この終末の世界を、ヨーロッパから東京までやって来たというのか!

 地球のあらゆるところで、死者への祈りが必要だという時に、ハル一人のために欧州総本部から派遣されて来ただと?・・・

 

 教授の顔に浮かんだ当惑の色を見て、牧師は椅子に座り直し、法衣の乱れを正した。

 そして背筋を伸ばして呼吸を整えた。

「実は、教授の抱えておられる仕事に関わる重要な情報を、総本部から預かってきております。極秘の公文書としてです。一刻も早くお見せしたいのですが、その前にお聞きしたいことがございます。それは教授が進めておられる極秘プロジェクトのことです」

 

・・・極秘プロジェクトだと?・・・

 政府が国連と極秘で建設を進めてきた巨大ドームの計画を、この牧師はなぜ知っている?

 それは、人類の生き残りをかけた最終プロジェクトだった。

 そしてカレル教授はそのプロジェクトのリーダーだった。

 

 牧師は目を見開いて驚く教授を無視して話を続ける。

「教授からプロジェクトの現状をお話いただければ、公文書をお渡しすることができます。そこに書いてある情報は、プロジェクトの抱える基本的な課題を解決するのに、必ずお役に立つはずですよ」

 

・・・確かにプロジェクトは今、決定的な難題を抱えて、行き詰まっていた。

 しかし、極秘の話を初対面のこの牧師に話していいものかどうか?

 ハルがいなくなった今、教授が相談出来る相手は親しい友人でもある、日本国政府の最高責任者ただ一人だった。

 だが、今も官邸で最後の勤めを果たしているはずの総理に相談しても、こんな怪しげな話に『ゴー』とも『ストップ』とも言える訳がない。

 

「どこにでも教会の仲間がいるのです。国連内部にもです。カレル教授!ドームの計画はおよそ漏れ聞こえておりますよ」

 言い放った牧師の一言に、教授の直感が頭の中ではじけた。

「失うものは何もない。この不思議な牧師を信じて、すべてを話してみろ」と。

 

 カレル教授は結論を下す前に、もう一度、若い牧師の顔を見直した。

 牧師の額からは大粒の汗が吹き出している。

 見ると、壁の温度計は40度近くになっていた。

 

「部屋の中までこんな暑さとは・・・気がつかずに申し訳ない。どうやら空調までやられたみたいです」

 教授は立ち上がり、冷蔵庫を開けて、冷やしたペットボトルを二本取り出した。

 戻ってきた教授は椅子に座り直し、一本のボトルのキャップを開けて牧師に差し出した。

「助かります」

 牧師はボトルに口をつけて、ゴクリとうまそうに一口飲み込んだ。

 

「そうだ、お祈りしていただいたお礼に、牧師様にいいものをお見せいたしましょう」

 カレル教授は椅子を半回転させてデスクに向かい、パソコンを立ち上げながら続けた。

「これは私の可愛い量子パソコン・ハルちゃんです」カレル教授は指先で画面にタッチして、やさしく囁いた。

「ハル、お客様だ。全景でアップだ!」

 パソコンの画面からホログラムがにじみ出してきて、牧師の前の空間に広がっていった。

ホログラムは小さな若い女性の姿になった。

「お待たせしました。私は亡くなったハルの記憶を載せた人工知能です。これが建設中のドームの全景です」

牧師の目の前の空間に、底辺の直径2メートルほどの半円球ドームが浮かび上がった。

 

「いいぞハル! それでは解説スタートだ」

カレル教授は、右手の人差し指で目の前のドームの天蓋を愛し気に指さす。

 

「それでは、ドームのすべてをお話いたしましょう。今までのお二人の会話を聞いておりましたら、牧師様には何もかもお見通しのようですね」

「始めまして、ハル。よろしくお願いしますね」若い牧師が笑って答える。

 

ハルの電子音が案内を始めた。

・・・このドームはここ都心から離れた丘陵地に建設中です。ドームは地球の大気の対流圏の内側に位置して、地上から10キロに達する半円形の巨大な天蓋で覆われ、すでに外界と遮断されています。天蓋は有害な紫外線と高温と、もちろんあのウイルスを遮蔽する特殊な構造になっているのですよ。

・・・空調を始めすべての環境はドーム内完結型で、ライフ・ラインとインフラのシステムはすべて地下に内蔵され、人工知能によって自動的にコントロールされます。居住用の施設は危険の分散のため、独立家屋つまり分散した建築物でランダムに構成されます・・・

電子音が続く。

・・・設計コンセプトはノアの箱舟。形は箱船を裏返しにした巨大建築物といったイメージでしょうか。ハードの施設系はほとんど完成しているのですが、ソフトに難題を抱えております。つまり、ここで暮らす人々のことです。このあとはカレル教授に説明をお願いしますね・・・

ハルの電子音が止まってしまった。

カレル教授はボトルから水をすこし飲んで、ハルの話を引き継いだ。

「牧師、実は難題を抱えております。人類の継承者となるべき若者を世界から集めるという極秘の作戦についてです。長い時間をかけて、世界中から完全にランダムに候補者を選んだものの、救助クルーが現地に到着したときには、すでに本人は亡くなっているのです」

 大きなため息を一つついて教授が続ける。

「こんなことの繰り返しです。我々の計画が知的に進化したウイルスに盗まれているようなのです。ドームは完成が間近なのに、肝心の居住者が未だ目標の0%という有様!」

 教授が悔しそうに天を仰いだ。

 

「教授、そのことでしたら、私たち総本部は候補者選びのお役にたてるかもしれませんよ」

 牧師は大事そうに胸に抱えた黒いカバンの革張りを、中身を確かめるように手でとんとんと叩いた。 

・・・この中にその答えが詰まっているのです・・・と。

 

「教会は地球上に独自のネットワークを持っています。政府とか国際機関とか、おもてのネットワークと違って、裏の情報網とでも言うべきものです。教会の情報網には、国家間の利益相反がございませんから、集めた情報はきわめて信頼性が高いといえます」

 

 牧師はにやりと笑って、教授をみた。

「ご興味があればご紹介いたしますが・・・」

 カレル教授の目がぎらりと輝き、身を乗り出して牧師に話の続きを催促する。 

 牧師は、教授をじらすようにカバンの蓋をゆっくりと開けながら話を続けた。

・・・私ども教会の調査網が手に入れた直近の情報です。基本的には地球上から緑、つまり植物はほぼ消滅しました。海の中からもです。

食物連鎖のピラミッドの底辺が崩れた構図の中で、現在、生き残っている主な生命体は、病原体を内包する生命体と我々人類だけではないか、ということです。地球上での絶滅戦争は最終レースに入ったようです。

ここまでは教授の方がよくご存じのことで付け加えることはございません。直近の情報は明暗二つです。最悪の情報は、我々の調査データから推定して、あと半年で地球上から人類という種は消え失せるだろうということです。

もっとも、人類という食料がなくなったら、例の病原体も消滅することになりますが・・・

 教授が思わずうなづくと、牧師は短く笑って、話を続けた。

・・・朗報は、この病原体に免疫を持った子供たちが地球上に六人いることが発見されたことです。わずか六人ですが、子供たちの免疫力は大変強くて、接触や摂取をしても病原体に打ち勝っているということです。

ただ、彼らの両親については免疫力が弱く、このままではいずれ子供たちは両親を失い、世話をする者のいない地球の孤児になってしまいます・・・

 

 牧師は話を中断すると、黒いカバンの蓋を開けて教会のロゴの入った封書を持ち出し、教授に差し出した。 

「この中に子供たちのリストが入っております」

カレル教授は飛びつくように封書を受け取り、中から一枚の書類を取り出して開いた。

 

極秘[最終候補者リスト:日本語表記]

名前 属性・所在
YUTA 日本名・裕太 男子 14才 プレトリア・南アフリカ/在・東京
サラ 女子 14才 森林地帯/特定不可
男子 13才 裏六甲/日本
エーヴァ 女子 13才 パリ郊外/フランス
ペトロ 男子 12才 ナパバレー/アメリカ
マリエ 女子 12才 ワルシャワ/ポーランド

 
リストを食い入るように見つめる教授に、牧師が説明を始めた。

  
「全員が12才から14才までの男女6人です。日本では中学生の年齢にあたります。

裕大は南アフリカ出身の孤児ですが日本人の保護者がいます。

匠とマリエには父親がいません。

サラ、エーヴァ、ペトロの両親は健在です。したがって、家族全員で16 名となります」

「リストの六人は、名前だけで姓が抜けておりますが・・・?」

教授が怪訝そうに尋ねた。

「フルネームと所在の詳細はリストから意図的に削除してあります」

牧師がそう答えると、カレル教授は、こんな緊急事態になぜ詳細を伏せる必要があるのかと牧師に尋ねた。

「カレル教授、詳細につきましては極秘ファイルをお渡しします。万一、氏名が世の中に流れだすと、ネットに乗ってたちまち特定されてしまいます。羨望とやっかみの的になりとても危険です。その上、進化した知的病原体のターゲットになる恐れがあります。いずれ、子供たちやご両親の姓は永久に消去される事をおすすめしますよ」

・・・苗字など必要ありません。いずれ、両親もなくなって、この六人しか人類は残らないのですから、認識コードは名前だけで十分なのですよ・・・。

 牧師がそう言っているように教授には聞こえた。

 

 牧師はカバンの中から慎重に一枚のデイスクを取り出すと、黙って教授に手渡した。

 教授が受け取り、デスクのパソコンに入れてファイルを開くと、子供たち六人とその家族の詳細なプロフィールに続いて、診療カルテのようなデータと画像が出てきた。

「この画像は教会の医師団が撮影したものです。六人の子供たちの免疫細胞とDNA構造を拡大したものです」

 教授が画像が開くと、後ろから牧師が言った。

「教授ならこれが何を意味しているか一目でおわかりになるはずです」

 

 その静止画像は教授が繰り返し実験してきた遺伝子の塩基配列による免疫細胞のシステムと同類だった。

 これまで繰り返し教授のチームが開発した免疫システムの有効性は、その都度、わずか数日で、進化した病原体によって破られてしまった。

 

「これもまたいずれ破られる」

 教授は肩を落とした。

「せっかくだが、牧師、これは役に立たない・・」

 

 言い終わったそのとき、教授の目の前の画像が動き出した。

 教授の目がいっぱいに見開き、口から悲鳴が漏れた。

 

「なんだこれは!」

 塩基配列は一秒ごとに揺れ動き、且つ変化していた。

 細胞を構成する塩基配列群が無限に現れては消えていく。

 

「カレル教授! これは変化したウイルスが接触したとき、即時に対応できる抗体システムです!」

 牧師の声が教授の頭脳を貫く。

「こ、これは破られようがない。とてつもなく高度で且つシンプルな方法だ」

 教授の口からうめき声が漏れた。

 

・・・六人の子供たちについての牧師の話は疑いようのない真実だった・・・

「これは私ども科学者には思いも付かない免疫システムです。しかし残念ながら我々の現在の技術レベルでは、他の人間への転用は不可能です」

これはきっと六人の子供たちだけへの神様からの贈り物なのでしょう”

 教授の興奮した声が実験室に響いた。

 若い牧師の顔がふと恥ずかしげにほころんだ。

「カレル教授、あなたはすでにご存じの筈です。被捕食者が人間に仕掛けた病原体・・・ウイルスの遺伝子は、ルーツをたどれば人間そのものから飛び出した遺伝子だったのです。だから親和性があって容易に人間の細胞に侵入できます。しかしこの子供たちの免疫システムは親和性を排除してウイルスの侵入を防いでいます。教授、進化したウイルスが逆に新しい人類を作りあげたのです」

 

カレル教授の牧師に対する疑念は消え去った。

そのあと二人の話は弾んで深夜に及んだ。

 

教授はドーム世界の構想について、牧師を相手に熱心に語った。

「ドームの計画は、明日から、この六人の子供たちとその家族にポイントを絞って組み変えられる事になります」

「ハル、もう一度姿を現して、施設の進捗具合と新たな計画を話してくれませんか?」

 教授の言葉で、ハルがホログラムの小さな姿を見せた。

 ハルは牧師に近づいて軽くお礼のお辞儀をすると、これからの計画を説明した。

「六人の子供たちのお話をお聞きしました。教育施設として、学校が必要になります。ドームの中央に、六人の生徒のための小さな中学校を建設いたしましょう。地球から集めた人類の歴史図書館は、アーカイブされてドームの地下深くに完成しております。人類の絶滅に備えてです」

 

「人類が全員、絶滅してしまえば誰も使わない無駄な施設になりますが」 

ホログラムのハルとカレル教授、牧師の三人が同時に言って、顔を見合わせ小さく笑った。

 そしてすぐにまじめな話に戻った。

 

「子供たちのカリキュラムについて、いくつかアドバイスをさせていただきます」

 勝手なご提案ですがと、牧師が具体的な構想を語った。

 

・・・調査によれば、六人の子供たちはそれぞれがとくべつな才能を持っています。

 数十億の人類から神に選ばれた、たった6人ですから、その才能は信じられないほどのものですよ。

 思いきったカリキュラムで、特別な能力を持つ新しい人類に育て上げていただかねばなりません。

 こどもたちの才能がどのようなものかは、教授ご自身でお会いになって、判断されるといいでしょう。

 きっと驚かれますよ。

 

・・・次に、子供たちのご家族を紹介しておきます。

YUTAは南アフリカ出身のアフロ・アフリカンです。両親がウイルスにやられて、一人で日本にやってきた14才の男子。子供のいない東京の夫妻が引き取って育てています。裕大の父親は最新の空調システムを製造する工場の技術責任者です。

 現実の世界、つまりドームのエコ・システムの管理運営などはお手のものでしょう。

 サラの家族は特別な一族です。

 聖職者の間では、「幻想を操る伝説の一族」といわれています。

 地球のあらゆる森林地帯に潜んで、子供たちの生まれつき持っている空想の力を集め、ファンタジーアという幻想の世界を作り上げていたというのです。

 その世界は子供たちだけの世界で、私ども大人には見えないらしいのです。

 サラ一族に対抗する闇の勢力が、大人になる前に子供から記憶を奪うからだと言われています。

 ここ数年で、子供たちの姿が地上から消えて、ファンタジーアが消滅したために、サラ一族が現実の世界に姿を現したのだと思われます。

 次に、先端科学の領域で天才エンジニアであるペトロの父親は、ほどなく異次元空間への転移技術を開発するはずです。

 未来や過去への冒険の旅とか、子供たちの経験を広げるために是非とも「虚構の旅」を子供たちの教育カリキュラムに加えることをおすすめします。

「幻想と虚構」この二つは、子供たちが過酷な現実を生き抜くために必要な経験と夢を育む、心のオアシスとなりますよ。

 教授、いかがでしょう? 

「リアルの世界」「幻想の世界」「虚構の旅」併せて三界からなるドーム・ワールドというのは?
 

 次にエーヴァのご家族についてですが・・・。

 科学者であるカレル教授は、若い牧師が熱く語り、紡いでいく不思議な世界の物語に魅せられ、引き込まれていった。
  
 夜も更けて、牧師の言葉が、次第に途切れるようになってきた。

 実験室の不規則な空調の音に混じって、牧師の荒い呼吸が聞こえる。
 

「牧師の胸があえいでいる。息苦しそうだ・・・」

 教授は、若々しく見えた若い牧師の顔が、急に年を取ったみたいに生気を失い始めた事に気が付いた。

 教授は慌てて牧師の脈を取って調べたが、特に異常はない。

 

「お別れの時間が参ったようです。そろそろ失礼しなければなりません」

 牧師はソファーの肘おきに手をやり、身体を支えながらよろよろと立ち上がった。

 慌てて牧師の身体を支えながら、カレル教授が聞いた。

「牧師、お名前をお聞かせ下さい。至急、軍の車を用意させますので」 

 牧師は体勢を立て直し、教授に礼を言った。

「最初に申し上げました通り、私は総本部から遣わされた、名もない牧師です。研究所のゲートの前に空港までの車を待たせておりますので、ご心配は無用です。それより教授、大切な子供たちをくれぐれもよろしくお願いしますよ!」

 

 牧師は、教授と別れの握手を済ませ、研究室の扉を自分で開け、誰もいない庭に出た。 

 カレル教授も庭に出て、牧師を見送った。

 燃えるように熱い外気が顔に吹き付けて来る。

 人気のない研究所のゲートに向かう牧師の白い法衣が熱風と夜の闇に揺らいで見えた。
 

 一瞬、教授は息をのんだ。

 

 牧師の後ろ姿が宙に浮かび、夜空に舞い上がって、薄い闇に消えていったように見えた。

「熱風による幻視か?」

 教授は頭を一振りしてドアを閉め、実験室の自分のデスクに戻った。

 

 そして、先ほどの封書を開いて、もう一度リストを確かめた。

 次に、パソコンから極秘の直通回線を開き、総理を含めて、わずかに生き残っている政府の責任者と軍の幹部に緊急連絡を入れ、ディスクのデータ・ファイルを送付した。
  

××
 軍に残された最後の精鋭から三班のクルーが直ちに編成され、空軍の基地から三機の超高速艇が六組の家族を救助するために、轟音とともに急発進した。
××

 

 ことは急がねばならなかった。

 病原体が最後の砦であるドームに侵入してくる前に、六組の家族を迎え入れ、ドームを外界と遮断する必要があった。

 

 連絡を終えた教授は、一息つくと、防護用の手袋をはめて、実験台の上のハル先生の遺体に向かい、腕の皮膚を少し切り開いて、慎重に遺伝子のサンプルを採取した。

 

 そのあと恋人ハルの情報は安全なところに保存された。

 しかし、病原体を含んだ遺体の血液のわずか一滴が、遺体の上にかがみ込んだときに自分の首筋に付着したことに、教授はまるで気が付かなかった。
  

 教授の仕事は朝まで続いた。

     (続く)  

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この世の果ての中学校  一章  ハッピー・フライデー「ペトロの誕生日」

 

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