近代五輪のお手本「古代ギリシャオリンピック」 実は破廉恥な6つの裏話! 

クーベルタン男爵が提唱した近代オリンピックは、古代ギリシャのオリンピックの平和主義とアマチュア精神を手本にしたとされています。しかし、史実によれば古代オリンピックの実態はクーベルタン男爵が描いた理想のイメージとは異なっています。

オリンピアで男性が裸で戦ったのは有名な話ですが、その背景に破廉恥な習慣がありました。アマチュア精神とかけ離れた優勝者への特別待遇や、“聖なる丘”の劣悪な環境、ネロ皇帝の虚栄心など「実は破廉恥な6つの裏話」をご紹介します。

古代ギリシャのオリンピックとは?

古代オリンピック   陶器・壺

 

 

 

 

 

 

そもそも古代ギリシャのオリンピックとはどのような大会だったのでしょうか?

古代オリンピックが誕生したのは、紀元前6世紀から4世紀にかけて、古代ギリシャの栄光の時代でした。伝説的な話では紀元前776年にギリシャのオリンピアで始ったとされています。日本では神武天皇が国を開いたと伝承されるのが紀元前660年ですから、その100年も前にギリシャではスポーツの祭典であるオリンピック大会が開催されたことになります。

古代オリンピックは西暦393年まで12世紀ものあいだ、ゼウスの神に捧げる平和の祭として、4年に1度行われ、合計では293回の大会が開催されました。大会の開催を挟む3か月の間はアテネやスパルタなど都市国家間の戦争が禁止されたので、ギリシャ中から熱心な観客がオリンピアに向けて歩いて集まったとされています。

西暦392年、ギリシャを支配していたローマ帝国がキリスト教を国教とした事で、異教であるゼウスを崇めるオリンピックは、その翌年の393年に禁止され、長い歴史を閉じます。

 

近代五輪のお手本「古代ギリシャオリンピック」実は破廉恥な6つの裏話 

それでは、クーベルタン男爵が近代五輪のお手本とした「古代ギリシャのオリンピック」の実は破廉恥なエピソードを6つ紹介します。

 

エピソード1  選手はなぜ裸で戦ったのか? 青少年教育の一環?

 

総合格闘技コンテスト「パンクラチオン」を示す紀元前530年頃のギリシャの壷。右側のアスリートは、服従のしるしとして人差し指を上げています。

 

古代オリンピックで選手が裸で戦った理由は、競技中に一人の走者の腰布が外れ、つまずいて競争できなくなったことがきっかけで、他の選手も腰布を外して走ることにしたからだという説があります。それ以外に、不正を防ぐために裸になったという説や、すべてをさらけ出して戦うのがギリシャ市民の平等の精神であったという説など、いろいろとありますがその真相は不明です。

裸体はギリシャ文化の特徴です。古代オリンピックも含めて肉体の顕示はギリシャの文化の最大の特徴とされています。

実は、古代ギリシャのスポーツの世界では思春期に達する前の少年を指導するという大義の下に、練習が裸で行われ、指導者と少年との性的な関係が一般化していたとされています。

文化的都市国家の始まりといわれる古代ギリシャで、このような行為が教育の一環として社会的に認知されていたというのには驚きます。

 

エピソード2  裸で戦った屈強な男性たちの姿を、なぜ未婚の女性は観覧が許されたのか?

 

裸で走るアスリート
IOC公式

 

 

 

 

 

 

 

古代オリンピックでは、競技で戦うのは男性のみで女性は競技に参加することができません。既婚の女性は競技場に入ることも観覧することも禁止されていましたが、若い女性や未婚の女性に限って観覧することが許されていました。若い男性の裸を婚前の若い女性が見ることを禁じるのが常識とされそうですが、事実は逆でした。

実は、若い娘の父親がオリンピックの優勝者と娘を結婚させたいという下心から、ルールを破って娘を会場に連れてきたのが始まりという説があります。オリンピックの優勝者はそれほど娘の結婚相手として理想的だったということです。

親心はいつの世も同じです。オリンピックの優勝者と結婚できれば、可愛い娘には生涯、裕福な生活が約束されたのでしょうね。

 

エピソード3  古代オリンピックの優勝賞品はオリーブの花輪と名誉だけ!は大間違い!

 

古代オリンピックはアマチュアリズムのお手本のように語られることが多いです。近代オリンピックからプロ選手を厳しく排除したクーベルタン男爵は、「古代オリンピックのアスリートは高貴なアマチュアであって、運動能力を現金で売るような下品なことはしなかった」と主張しています。

実は、古代ギリシャにはアマチュアとかプロといった区別はなかったのですが、優勝者が自国に凱旋すれば英雄として迎えられ、特別な待遇が待っていました。豪華な無料の食事、現金の提供、税の優遇などがあり、一生豊かに暮らすことができたとされています。古代ギリシャの植民地イタリアのクロトン(Crotona)ではオリンピック優勝が目当ての競技者を育てる専門の学校と施設まであったのです。

 

エピソード4  オリンピアの聖なる丘/実は不衛生で蠅だらけ、水不足で熱射病、大量の死者が出た!

 

大会の行われたゼウスの神域であるオリンピアは一般の観客にとって苦難の場所でした。都会であるアテネからオリンピアまで340キロも離れていて、東京から名古屋に相当する距離を数日かけて歩かないといけません。到着してもオリンピアにはVIP相手の簡易な宿泊施設しかなくて、一般の観客は不潔で過密なキャンプで過ごすしかなかったのです。

競技場は草で覆われた低い丘があるだけで、観客席や日よけの天井がなく、きれいな飲み水の不足と熱射病が待ち受けています。トイレや衛生施設もなく、悪臭が立ちこめ、病が流行ると多くの死者が出ました。

汚くて低い丘でしたが、そこはゼウスが父親とレスリングをした聖なる場所であり、神々もオリンピックの競技に参加して戦っていると考えられていました。オリンピアはギリシャの人々にとっては神の中の神であるゼウスの気配が感じられる美しい聖地でした。

 

エピソード5  破廉恥などんちゃん騒ぎ! 儲けたのは誰?

 

会場周辺では、若い学生たちが中心になって、ゼウスに捧げられた猪や牛の肉を食べ、酒を飲んでどんちゃん騒ぎが連日繰り広げられます。

実は、集まった男性の観客を目当てに地中海の方々から売春を目的にした女性が集まっていました。彼女たちはオリンピック開催のわずか5日間で1年分のお金を稼いだとされています。

また、古代オリンピック大会には、競技場への入場料がありません。大会を主催したのは貴族たちで、ギリシャ最大の宗教的行事に名誉をかけて働くことが目的で、金儲けは二の次でした。

実は、儲けたのは上手く便乗した事業家や、地元の農家や宿泊の提供者などいわゆる付帯事業を行った人達でした。現代で言えば、観光やインバウンド事業といったところでしょうね。

 

エピソード6  皇帝ネロの虚栄心のおかげでオリンピックが文化的イベントに?

 

古代オリンピックは、紀元前2世紀半ばから廃止となる393年まで、500年以上ものあいだローマ帝国の支配下で開催されていました。

ローマ皇帝はオリンピックに一般の競技者として出場することを規則で禁じられていましたが、第5代ローマ帝国の皇帝ネロはオリンピックに参加したくてたまりません。西暦67年、ネロは自ら規則を修正してオリンピックのメイン競技である数頭立ての戦車レースに出場します。

ルールにより戦車を引く馬は4頭と決められていますが、ネロは10頭立てで参戦。御者として太りすぎのネロは訓練不足も原因で、レースを開始して最初のターンの途中、10頭の制御ができずに投げ出されて瀕死の重症を負います。完走できなかったネロですが、強引にレースの勝利者としての栄誉を手に入れたとされています。

また、皇帝ネロは自分自身を詩人でありパフォーマーであると考えたため、スポーツの祭典であるオリンピックに芸術的な競技を新たに付け加えました。竪琴の演奏、トランペット、紋章コンテスト、演技と歌を競技として創設。ネロは競技のいくつかに参加し優勝しました。

ポルトガルギターの弾き語りでファドの原型と言われる“ギターラ歌手”として舞台に立った皇帝ネロ。そのパフォーマンスは聞くに堪えない代物で、観客は会場を逃げまわったとされています。もちろんネロはパフォーマンスのチャンピオンとして表彰されました。

ローマ市民は皇帝のオリンピック参加を是とせず、日頃から暴挙を行うネロを殺害する計画を秘かにたてていました。これを知ったネロ皇帝はギリシャからローマに変装して帰国しますが、燃え上がった市民の怒りから逃れられない運命と知り、覚悟を決めます。皇帝ネロは、過酷な死刑執行を避けるために西暦68年6月9日、自らの喉を切り裂いて命を絶ちました。

ネロの虚栄心のおかげでしょうか、古代オリンピックの精神を引き継いだとされる近代オリンピックでも、大会の開催都市ではスポーツ競技以外に、“アート・ウイーク”として地元の文化イベントが伝統的に併催されています。

 

おわりに

古代オリンピックには、興味深い裏話やエピソードがまだまだ隠されています。戦ったアスリートの汗は、媚薬として売られていたという説もあります。

古代オリンピックの裏話をこれからも探して参りますので、楽しみにしていてくださいね。

 

(おわり)

【記事は無断転用を禁じられています】

古代オリンピックと近代オリンピックをつないだ【ザッパスオリンピック】を知っていますか?

古代ギリシャで1,169年もの長いあいだ開催された古代オリンピックは、ギリシャを属領としたローマによって、西暦393年の第293回大会をもって終止符を打たれました。キリスト教を国の宗教としたローマが、ゼウスの神に捧げられるオリンピックを異教の祭典として禁止したからです。

その後、1896年の第1回近代オリンピックがギリシャで開催されるまでの1,500年もの間、オリンピックは一部の人々の記憶に残るだけの歴史上の出来事でした。しかし、1,800年代の半ば、古代ギリシャの伝統の復活を願い、自らが稼いだ全財産を使ってオリンピック競技会を4回も復活させたとんでもない大富豪が現れます。男の名前はエバンゲリス・ザッパです。ザッパは古代オリンピックを復活させて、クーベルタンの提唱した近代オリンピック開催に道筋を付けた人物です。

 

現代のオリンピックの創設者の一人とされるザッパという人物と、1858年から1889年まで4回にわたり開催されたザッパスオリンピックを紹介します。

 

オリンピックを復活した大富豪エバンゲリス・ザッパとはどんな人物?

 

エバンゲリス・ザッパ 肖像1800~1865

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エバンゲリス・ザッパは1800年8月23日、オスマン帝国時代のギリシャの片田舎に生まれました。13才で家を離れて愛国組織に加わったザッパはオスマン帝国からのギリシャ独立戦争(1821~1831)に身を投じます。激しい戦いでいくつもの戦功をあげたザッパは少佐の階級を獲得。ギリシャはフランス、イギリス、ドイツ、ロシアなどヨーロッパの列強の応援のおかげで、オスマン帝国との戦いに勝利し、独立を果たしました。

 

凱旋したザッパはギリシャからワラキア(現ルーマニア)に移り、土地と農業で事業の才覚を発揮して大成功を収め、東ヨーロッパでも有数の富豪になりました。ザッパの総資産はギリシャ通貨で600万ゴールドドラクマに達したと推定されます。

熱烈なギリシャの愛国者で慈善家となったザッパは、ジャーナリストで古代オリンピックの復活を唱いあげるロマン派の詩人、パナギオティス・ソウトソスに触発され、ギリシャの伝統と栄光を取り戻すために、稼いだ全財産を古代オリンピックの復活に投じることを決心します。

パナギオティス・ソウトソスの木版画(1873)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ギリシャ独立戦争が勃発した日を祝日として、古代オリンピックの復活をするべきであるというソウトソスの提案を、ザッパスがギリシャ政府に財政的な保証を付けて持ち込みました。しかし当時のギリシャ王オットーから公式の回答はありませんでした。

1856年7月ソウトソスはザッパの努力を自らの機関誌に発表してオリンピック復活のキャンペーンを繰り広げます。復活推進派と世論におされたギリシャ王オットーは産業・農業の博覧会開催のときに同時にオリンピック競技会を催すことに同意します。ザッパは公約したとおり、オリンピック信託基金を設立するために必要な資金をギリシャ政府に提供しました。

こうして、ザッパスは1859年、1870年、1875年、1888年に古代オリンピックをギリシャ・アテネで復活させることに成功しました。

 

現代オリンピックの誕生と古代競技場パナシナイコスタジアムの復元

 

現代オリンピックの始まりとされるザッパスオリンピック(ギリシャ語:ΖάππειεςΟλυμπιάδες)は、ギリシャのアテネで1859年、1870年、1875年、1888年の4回に渡って開催されました。

第1回ザッパスオリンピックは1859年11月15日、アテネの中心部の広場で始まります。競技は古代オリンピックと同じように、ランニング、円盤投げ、やり投げ、レスリング、ジャンプ、棒登りなどが行われました。広場で行われたこの大会はゲーム的な要素が強く、競技会としての完成度は今一つとされています。ザッパスオリンピックが評価を高めた大きな理由は、1870年以降の3大会が古代のスタジアムを復元した競技場で開催されたことによります。

 

ザッパスは、紀元前6世紀に作られ、紀元140年に大理石で再建された古代ギリシャのパナシナイコスタジアムを、土の中から掘り起こして修復することを計画していました。パナシナイコスタジアムは、50,000席の収容能力を持った大競技場で、戦車競走を始め数々の古代競技や、陸上競技、レスリングが行われたスタジアムです。パナシナイコスタジアムはキリスト教の台頭によって廃棄され、土に埋もれていたのです。ザッパは独立した祖国にかっての栄光を取り戻す象徴としてパナシナイコを発掘して、大理石で光り輝くオリンピック競技場として復活させたかったのです。

1865年にザッパは亡くなりますが、1870年にザッパの基金によって3万人を収容できる新しいパナシナイコスタジアムが完成します。そして1870年に、復活したスタジアムでザッパスオリンピックが開催されました。

掘り起こされたPanathinaiko_Stadio_1870

 

ザッパスオリンピックは1859年から1889年まで4回開催された後、クーベルタンの提唱した世界に開かれた近代オリンピックへと引き継がれていきます。アテネでは、オリンピックの復活に反対した勢力と推進派が対立した時期がありましたが、その後、評判の悪いオットー国王が出身のドイツに去り、新しい国王の座に着いたゲオルギオス王や皇太子を含む推進派が勝利します。

1894年クーベルタン男爵がパリの万博に世界のスポーツ関係者を招集し、世界の国が参画する近代オリンピックを提案します。提案は満場一致で賛成され、国際オリンピック委員会IOCが発足。初代会長にギリシャの経済人が選任され、1896年にアテネで第1回近代オリンピックを開催することが決定しました。このときクーベルタン男爵は「ゲオルギオス・ギリシャ国王と皇太子は近代オリンピックのアテネ開催に支援を惜しまないでしょう」と断言しています。

 

アテネの第1回近代オリンピックの開会式は、ザッパスの遺言通り古代の形式を復元し、全面大理石に修復された美しいパナシナイコスタジアムで行われました。

 

(ナショジオ・日経BPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真の上は1896年、第1回近代オリンピックの開会式が開催されたアテネのパナシナイコ・スタジアムです。下は2004年夏季オリンピック、アーチェリー競技が行われているスタンドに、近代オリンピックの象徴「五輪」が観客席に影を落としています。再建された現在も、長い直線と半径の短いコーナーは、陸上競技やレスリングだけでなく戦車競技にも使われた古代ギリシャの様子を物語っています。

(ナショジオ・日経BP)

 

パナシナイコスタジアムは古代オリンピックから現在の近代オリンピックにつながる歴史を物語る建築物なのです。

おわりに

 

エバンゲリス・ザッパは子供のいない孤独な男として知られています。しかしザッパが愛情を注いだのは祖国ギリシャへの愛国の活動であり、古代オリンピックの復元によるオリンピアードの精神の復活であったのです。ザッパが蘇らせたパナシナイコスタジアムはオリンピアードの象徴として今も使われています。

 

エバンゲリス・ザッパは、クーベルタン男爵、ゲオルギオス・ギリシャ国王とともに現代のオリンピックを創設した人物の一人としてこれからも語り継がれていくでしょう。

 

(おわり)

 

参照:

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Zappas_Olympics

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Evangelos_Zappas

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Panathenaic_Stadium

 

【記事は無断転載を禁じられています】

クーベルタンの男子五輪に反発!“女子オリンピック”を創設したアリス・ミリアとは?

ボートを漕ぐアリス・ミリア/1913 ウイキペディア

 

 

 

 

 

 

 

女子オリンピック”を知っていますか?

20世紀の初頭、女性の参加を認めないで男子主体で行われていた近代オリンピックに反発して、女性だけが参加できるWOMEN’S OLYMPIAD(女子オリンピック)が1922年にパリで開催されています。

国際オリンピック委員会(IOC)会長のクーベルタン男爵やそのあとに続くIOC会長がオリンピックへの女性の参加に否定的であったことに業を煮やして、女性だけの「女子オリンピック」を創設した凄腕の女性とは、フランス人の“アリス・ミリア”です。

ボート選手のアリス・ミリアは国際女子スポーツ連盟(FSFI)の創設に携わり、初代会長に就任。ミリアは国際オリンピック委員会や国際陸連(IAAF)に対して、オリンピックのメイン競技である陸上競技に女性を参加させることを何度も要請しますが、冷たく拒否されます。

これに反発したミリアが選んだ最後の手段は、パリで女性だけのオリンピックを開催することでした。オリンピックにおける女性の参画を進めた女性、アリス・ミリアの凄腕に迫ります。

クーベルタン会長の近代オリンピックとは男子だけのオリンピックだった!

 

1900パリオリンピックでテニスとゴルフをプレーする女性選手 ウイキペデイア
IOCクーベルタン会長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オリンピックは参加することに意義がある」と宣言したクーベルタン会長ですが、彼の思い描くオリンピックとは、女性にオープンな大会ではなかったのです。第1回アテネオリンピックは男子のみで行われ、第2回パリオリンピックで始めて女性の参加が認められます。

しかし女性が参加できた競技はゴルフとテニスの2種目だけでした。IOCはその後のオリンピックで水泳など女子のプログラムを加えますが、大会の花形競技である陸上競技には女性の参加を認めなかったのです。

20世紀初頭は女性の参政権運動が始まったばかりの時代でした。近代オリンピックに女性が参加できたのはテニスやアーチェリーといった「女性らしい競技」と男性が認めた競技だけでした。

古代オリンピックが男子のみで行われたことは有名ですが、20世紀初頭の欧米社会においても社会参加やスポーツは男性が行い、女性は男性を支えていればよいといった男性中心の意識が強かったのです。

初期の近代オリンピックにおいて女子が参加できる競技はどのようなものだったのでしょう。1896年アテネオリンピックから1924年パリオリンピックまでの女子参加競技の推移をまとめてみました。

 

20世紀初頭・近代オリンピックにおける女子競技の開催状況

開催年度・都市

女子競技

1896年 アテネ

なし

1900年 パリ

テニス ゴルフ

1904年 セントルイス

テニス アーチェリー

1908年 ロンドン

テニス アーチェリー フィギュアスケート

1912年 ストックホルム

テニス 水泳 ダイビング

1916年 ベルリン 

(第一次世界大戦で開催中止)

1920年 アントワープ

テニス 水泳 ダイビング

1924年 パリ

テニス 水泳 ダイビング

 

第7回を迎えた1924年パリ・オリンピックにおいても女性が参加できる競技は、テニス、水泳、ダイビングの3種目だけという寂しい状況だったのです。

 

IOCの冷たい態度に業を煮やしたミリアは「女子オリンピック」の開催を決定

 

アリス・ミリア(Allice Milliat)は1884年にフランスのナントに生まれました。障害を抱えながら、ボートの選手として活躍したミリアは、女性のスポーツ参画運動に身を投じ、1917年に女子スポーツクラブ「フランセーズスポーツフェミニン」の活動に参加、後に会長に就任します。 

1917年の末、ミリアはIOCの会長に一通の手紙を出します。その内容は次のオリンピックであるアントワープ大会で女性が参加できる競技を増やして欲しいという要請でした。しかしクーベルタン会長の態度はオリンピックへの女性の参加に否定的で、女性の出場競技を増やそうとしなかったのです。

イギリスで世界に先駆けて女性の参政権が認められた翌年の1919年、ミリアはIOCに強い影響力を持つIAAF国際陸上連盟に対して、1924年のオリンピック・パリ大会で陸上競技に女子ゲームを含めるように要請しました。

しかしIOCと同じ思想に立つIAAFもこれを拒否。業を煮やしたミリアは1921年10月、国際女性スポーツイベントを監督するフェデレーションスポーツフェミニンインターナショナル(FSFI)を結成して、国際オリンピック委員会IOCに対抗。すべてのスポーツ・競技を含む女性のオリンピックを開催することを決定・宣言しました。

女子オリンピアード1922年開催に成功! クーベルタン激怒!

IOCの冷たい態度に対して、ミリアや女性のアスリートが回答として開催したのが1922年「世界女子競技大会」通称「女子オリンピック」です。

正式タイトルはJeux Athlétiques Internationaux Féminins and Jeux Olympiques Féminins直訳して「遊戯・体育国際女子大会・女子オリンピック」。Fémininsを繰り返して「オリンピックは男ばかりの世界じゃありません!」と叫ぶミリアの声が聞こえて来るようなタイトルです。

フランスのパリで開催された女子オリンピックは1922年8月20日の1日だけの大会でした。米、英、仏を始め5カ国を代表する女性のアスリートが参加、11の陸上競技が行われ18人のアスリートが世界新記録を出しています。

20世紀初めの女性だけの世界大会とはどんな風景だったのでしょうか? 現存するサイレント動画をご覧ください。

Women’s Olympiad1922

2万人の観衆を集めた会場のスタッドペルシングは、フランスのパリのヴァンセンヌの森にある多目的スタジアムでした。ハイジャンプ、砲丸投げ、短距離ハードルの競技の様子と、選手が和やかに談笑する風景が記録されています。

一方、「オリンピック」の名称を了解なしに使用されたIOCのクーベルタン会長は激怒しました。現在では「Olympic」「Olympiad」「Olympic Games」という名称はIOCの許可がないと使用が法令で禁止されていますが、このときには名称の使用を差し押さえる強制権がなかったとされています。スポーツ仲裁裁判所もまだありません。IOCはミリアとFSFIに対して直接交渉を開始しました。

オリンピックで一部の陸上競技と体操を女性に開放することを約束する代わりに、女子オリンピックの名称からオリンピアードという言葉を取るように要請したのです。

このためFSFIの第2回女子オリンピックは“女子世界大会”と名称を変更して、1926年にスエーデンのイエテボリで開催されます。大会には9カ国100人のアスリートが集合。ベルギー、チェコ、英、仏、など欧州各国に加えて日本も参加。

このとき日本から只1人参加した人見絹枝選手は幅跳びで世界新記録を出し、立ち幅跳びと合わせて2種目で優勝。国別のポイント順位で日本を5位に持ち上げ、大会を盛り上げています。大会の成功はIOCのオリンピックへの女性参画を推し進める原動力となりました。

アムステルダムオリンピックで女子の陸上競技始まる!

1928年オリンピック 女子陸上競技  (VOGUE JAPAN)

 

 

 

 

 

 

 

1925年IOCの会長が創始者クーベルタン男爵から、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵に交代。新会長も女性のオリンピック参画には否定的でしたが、IAAF国際陸連会長ジークフリード・エドストレームの助言の下、IOCは1928年のアムステルダムオリンピック競技に女子の陸上競技5種目と女子の体操を加えることとします。

ミリアはアムステルダムオリンピックに技術役員として加わり、競技の運営に協力をしています。女性のスポーツ参画の歴史においてアムステルダムは画期的な大会となったのですが、ミリアはまだ不満でしたなんと言っても、男性は22の競技すべてに参加できたからです。

アムステルダムの大会には、1918年に参政権を手に入れていた英国の女性チームがミリアに賛同。IOCに不満を表明して大会への参加をボイコットしました。

女子800mの悲劇

1928年アムステルダムオリンピック 女子800m 銀メダルの人見絹枝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1928年のアムステルダムオリンピックには25カ国から277名の女性アスリートが参加。アントワープ大会の4倍になりました。初めての陸上競技には95人の女性が参加。800mでは日本女子初の銀メダルを人見絹枝が獲得します。

ここで悲劇が起こっています。ゴールしたあとで女子選手が次々に倒れていったのです。酸欠による一時的症状と思われますが、女子には中距離以上は体力的に無理だと判断され、その後のオリンピックから中・長距離競技が女子のレパートリーから除外される理由となります。

ミリアの最後通告

 

1930年のプラハ大会、1934年のロンドン大会と女性だけの世界大会を開催して成功を収めたミリアは、思い切った勝負に出ます。ミリアが求めたのはオリンピックでの完全な女性参加です。1936年オリンピックで完全に女性の競技を統合するか、または、すべての女性の参加の権利をFSFIに譲るか、二者択一を迫るという思いきった最後通告でした。

IAAF国際陸連はミリアのFSFIと協力する特別委員会を創設。FSFIは国際女性競技の管理をIAAFに譲渡して女子のプログラムの拡大を図る事となります。その後、1936年にフランス政府がFSFIへの助成金の交付を止め活動が縮小、ミリアは会長職を辞任します。

ミリアの活動はオリンピックでの女性の参画を促し、今日のようなオープンなオリンピックへの流れを作りましたミリアの思想と行動はフランスの女性の参政権運動にもつながったとされています。

ミリアは一度結婚しますが、子供を授かる前に夫と死別しました。1957年パリで亡くなったアリス・ミリアの名前は、生前の活動を讃えて、パリの14区の体育館のペディメントに刻まれています。

オリンピックの女子競技はアリス・ミリアが亡くなった後も時代とともに増え続けます。2000年シドニー五輪ではウエイトリフティング、2004年アテネではレスリング、2012年ロンドンではボクシング、2016年リオデジャネイロではラグビーが女子競技に採用されています

このことを知ったらアリス・ミリアもきっと驚いたことでしょうね。

(おわり)

【付録】オリンピックの女子競技の歴史

2016年 リオ・オリンピック 女子ラグビー カナダ対日本
2016年 リオ・オリンピック 女子ラグビー カナダ対日本

 

以下では新規に加わった女子競技を大会毎に記載しています。テニス、ゴルフなどその後中断した競技もあります。

開催年度/開催都市

新規に加わった女子競技

1900年 パリ

テニス ゴルフ 馬術 クロケット

(参加者997人の中女子は20人)

1904年 セントルイス

アーチェリー

1912年 ストックホルム 

水泳

1924年 パリ 

フェンシング

1928年 アムステルダム

陸上競技  体操(エキジビジョン)

1948年 ロンドン

カヌーとカヤック

1952年 ヘルシンキ

馬術

1964年 東京

バレーボール

1976年 モントリオール

ボート バスケットボール ハンドボール

1988年 ソウル

卓球 セーリング

(1991年

新種目に女子部門を設けることが決定)

1992年 バルセロナ

柔道 バドミントン バイオアスロン

1996年 アトランタ

サッカー ソフトボール

2000年 シドニー

トライアスロン ウエイトリフティング テコンドー 近代五種

2004年 アテネ

レスリング 

2012年 ロンドン

ボクシング

(全参加者のうち44%が女子選手)

2016年 リオデジャネイロ

女子ラグビー

(引用の出所の違いから一部前掲の資料と異なる箇所があります)

 

【参照サイト】 

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Alice_Milliat

https://en.m.wikipedia.org/wiki/1922_Women’s_World_Games

https://www.britishpathe.com/video/womens-olympiad

 

「2分で分かるオリンピック女子競技の歴史」VOGUE JAPANより

https://www.vogue.co.jp/lifestyle/culture/VJ104-Spotlight-2016-WhenWomensSportsWereAddedTotheOlympics

 

1908年ロンドン五輪はローマのピンチヒッター! 開会式で英米紛糾/選手1人で決勝レース

 

オリンピックと英仏博覧会の併催を伝える公式ポスター

1908年の第4回近代オリンピックは、イタリアのローマで開催されることが決まっていました。

ところが、開催の2年前1906年4月7日にイタリアのベスビオス火山が突然噴火、噴煙が9kmの近距離にあるミラノの町を襲って死者300人を含む甚大な被害を出しました。

五輪の資金をミラノの復旧に当てることにしたイタリアは、オリンピックの返上をIOC国際オリンピック委員会に申し入れます。

IOCのクーベルタン委員長は1908年の候補地の2番手であったロンドンにピンチヒッターとしてオリンピックの受け入れを要請。ロンドンは1908年に予定していた仏英博“Franco-British-Exhibition”の共催イベントとして第4会オリンピックを開催することを決定しました。

準備期間はわずか2年。急遽オリンピックスタジアムの建設を始めたロンドン五輪のエピソードを紹介して参ります。

 

常識破りの多目的競技場“ホワイトシティースタジアム”

ホワイトシティースタジアム全景 愛称グレイトスタジアム  (IOC公式)
1908年オリンピック競技場
ホワイトシティースタジアム

 

 

 

 

 

 

 

 

わずか2年足らずで建てられたオリンピック競技場は、常識破りの施設でした。当時の英国オリンピック協会会長デスボロー卿は仏英博覧会の主催者に対して、博覧会側の負担で陸上競技対応のスタジアムを建ててくれるよう強引に説得。自ら設計に関与して10ヶ月という短期間で完成した白いコンクリート構造の巨大スタジアムは「ホワイトシティースタジアム」と名付けられます。

競技場を撮影した2枚の写真をご覧ください。競技用トラックの長さは、現在のような1周400mというスタンダードなタイプではなくて536mと異常に長く、その外周には幅11mの競輪用のトラックが作られています(白い外輪のところ)

ランニングトラックの中にはスイミングとダイビングのためのプール(白く見える細長い部分)やレスリングや体操用の施設(プールの手前の白いエリア)まで含まれています。

ランニングトラックの長さを、なぜ536mなどという中途半端な距離にしたのでしょうか。536mを3倍すると1608mとちょうど1マイルになります。ということは、トラックを3周すると1マイル競争になるじゃないですか! 

当時の英国では陸上競技の中距離や競馬のレースにもマイルを使っていたのでしょう。

デスボロー卿のもと、ジョージウィンペイという人物によって設計されたこのスタジアムは、博覧会側の資金によって建てられたことから、陸上競技だけではなくて競輪も含めた多目的な設計になっていたのです。

 開会式のパレードが旗手の国旗で紛糾 

開会式 各国選手団のパレード

 

 

 

 

 

 

 

1908年4月27日、ロンドンオリンピックの開会式は各国のチームが自国の国旗を先頭にパレードをすることが新しい演出として決まっていました。しかしこの演出は当時の国際政治を反映して、とんでもない事件を引き起こします。

フィンランドは当時ロシア帝国の一部であったために、フィンランドのチームのメンバーはロシアの旗の下に行進することを求められました。その結果、反発したフィンランドチームのメンバーが旗なしでの行進を決行しました。

また、スウェーデンの旗がなぜかスタジアムの各国の旗の列に含まれていなかったために、怒ったスウェーデンのチームは開会式典に参加しないことに決め、欠席します。

アイルランドのチームはアイルランドの代表として闘うことを希望しますが、英国の一員として参加することを求められます。このときアイルランドは英国からの独立を目指して運動している最中で、選手達は英国への対抗心をかき立てられ、最後に1919年の独立戦争へとつながっていくのです。

アメリカ合衆国の旗手ラルフローズは、一般的な慣行であるロイヤルボックスの前で旗を沈めることを拒否しました。「flag dipping」と呼ばれる国旗の先端を下げるこの動作は英国の君主であるエドワード7世への敬意を表す儀礼なのですが、米チームがこれを拒否したことが、その後の大会の運営に大きな影を落とすことになります。

アメリカ合衆国の選手マーティンシェリダンはパレードのあと「国旗は地上の王には落ちない」と宣言したと言われています。この言葉は英国の君主制に対する合衆国やアイルランドによる反抗の言葉として有名になりました。

ラルフローズ旗手の行為の理由は、星条旗が会場の各国の旗の中に見当たらなかったことに対する反論だとする記事があります。経済力を背景に著しい躍進を見せる米国に対して、英国から独立してまだ130年の新興国であるアメリカを軽視する風潮が当時の英国にあったことは事実です。開会式場での星条旗の不在は、単なる過失だとはいえない動機が隠されていたのかもしれません。

この出来事は英国と米国とのその後の試合の中でさまざまな事件を起こすきっかけになりました。

前代未聞!たった一人の決勝レース

英国ハルスウェル選手  1人で走る400m決勝

 

 

 

 

 

 

この写真は1908年7月25日に行われた陸上400mの決勝のゴールの場面を写したものです。テープを切るのはゴールドメダリスト英国ハルスウェル選手、後方には選手がひとりもいません。

実は2日前の7月23日に400mの決勝がすでに行われていました。ファイナルでは、地元英国のウインダム・ハルスウェルとアメリカの選手3名の合計4名がスタートラインにたちます。レースは激しいトップ争いとなり、米ウイリアム・ロビンスとジョン・カーペンター、そして英ハルスウェルの順番でゴールに向かいます。最後の場面でカーペンターとハルスウェルがロビンスを抜きにかかりますが、ゴールでは1位カーペンター、2位ロビンス、3位ハルスウェルの順番でフィニッシュとなります。

ここまでは良かったのですが、1人の審判がカーペンターがハルスウェルの進路妨害をしたとして、カーペンターは失格とされます。審判の主張はカーペンターの行為は進路妨害に当たるという判定ですが、アメリカの選手はアメリカのレースでは進路妨害にあたらないと反論をしたのです。

問題はアメリカ選手が主張した国際ルールと英国のルールとの違いによるものです。ロンドンのレースは組織委員会の決定によって、英国のルールによって行うと決められていました。その結果、このレースは無効の判定となり、7月25日に米カーペンターを除く3選手によって再レースを行うことが決まりました。しかしアメリカのチームはこの判定を不服としてレースへの参加を拒否しました。

こうして、7月25日の決勝戦は英ハルスウェルのひとり舞台となり、金メダルだけが授与され、公式記録では銀メダルと銅メダルは該当者なしとされています。

これ以降IOCはルールをホスト国に任せるのではなく、ルールの標準化を図り、各国から派遣された国際審判団を作ることによってルール上のトラブルを避けることになります。

 

ロンドンで英米チームの紛糾が激しさを増すなか、この争いを気にかけていた米国聖公会のエセルバート・タルボット主教は、ロンドンのセントポール大聖堂で行われたミサに説教をして欲しいと呼ばれた際に、オリンピックの選手や関係者を特別に招待して説教をします。

エセルバートタルボット
米聖公会主教

・・・私はスタジアムにみられるような国際主義の時代は危険な要素を含んでいると思います。各選手がスポーツのためだけでなく自国のために努力していることも紛れもない事実です。故に新たな争いが始まっています。すべての答えはオリンピアの教えにあります。それはオリンピック自体がレースや賞よりも優れているということです・・・

“月桂冠の花輪を身につけるのはたった一人ですが、出場したすべての人がオリンピックという試合に参加した喜びを分かち合うことでしょう”と諭しました。

この言葉を受けて、クーベルタンIOC会長は数日後、英国政府が大会役員を招待したレセプションの席上「このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加したことであろう」と述べます。

 

これらの言葉はその後世界に知られるようになり、オリンピックの理念として「オリンピックは勝つことではなくて、参加することに意義がある」と言われるようになりました。

“ドランドの悲劇” マラソンが42.195kmになった理由

ゴール直前で審判に支えられるドランド・ピエトリ

 

 

 

 

 

 

 

 

第1回アテネ、第2回パリ、第3回セントルイスと続いたオリンピックでは、マラソンの距離は約40km でした。1908年のロンドンではマラソンコースがウインザー城から始まりゴールのホワイトシティースタジアムまでの42kmのコースで行うことが決まっていました。“孫がスタートを見れるように“と王がマラソンのスタート地点をウインザー城にするように要求したことがその理由です。

そのあと、マラソンランナーがスタジアムのロイヤルボックスの前でフィニッシュするように、さらに195mが追加されました。その結果、総距離は42.195kmとなります。この距離が後の1921年にマラソンの公式距離として認定されます。これがマラソンの距離が42.195kmとなったいきさつです。

ロンドンのマラソンの悲劇は最後の340mで起こりました。イタリアのドランド・ピエトリは極度の疲労と脱水症状に見舞われていましたが、トップでホワイトシティースタジアムに到着します。しかしスタジアムの中でドランドは道を間違えました。間違っていることを審判に教えられ、ドランドはグラウンドに倒れ込んでしまいました。審判の助けを借りて立ち上がったドランドはそのあと4回倒れ、そのたびに審判に助けられます。

ドランドはなんとかゴールに到着してレースを終えることができました。タイムは2時間54分46秒、そのうち最後の360mに10分を必要としました。もしも2.195kmが360m少なかったら、悲劇は起こらなかったかもしれません。

2位でゴールをした選手はアメリカのジョニー・ヘイズです。アメリカのチームは審判の助けでドランドがゴールしたことを訴え、その結果ドランドは失格となり、ジョニー・ヘイズが優勝しました。

審判が選手に手を貸すことは固く禁じられているルール違反です。当時においても審判は違反だと分かってながら、つい手を出してしまったのでしょう。

審判が選手に手を貸したことは明らかなルール違反とされたのですが、ドランド選手には失格の責任はないとして、アレクサンドラ女王は翌日彼に金色の杯を授与しました。

冬季オリンピックの萌芽・フィギュアスケート開催

1908 ロンドンオリンピック フィギュアスケート

 

 

 

 

 

 

ロンドンオリンピックでフィギュアスケートが始めて実施されています。たまたまロンドンに1895年にスケート場ができたこともあって、他の競技から数ヶ月遅れて10月28日と29日にオリンピックプログラムとして簡単に組み入れることができたのです。もう一つフィギュアスケートが開催された理由としては、オリンピックが博覧会と併催されたために、開催期間が博覧会の期間(5/14~10/31)に合わせて4/27~10/31と大変長期にわたったことがあげられます。

このあと、1920年の第7回アントワープでは冬のスポーツの人気種目、アイスホッケーが採用されます。こういった流れの中で、冬のスポーツを集めた冬期オリンピックが夏季オリンピックと独立して開催されることになっていきます。

第1回冬季オリンピックは1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催されています。

おわりに

ロンドン大会では22カ国から2008人の選手が参加。英国は花形の陸上競技では米国に後れをとりましたが、全22競技109種目のうち56種目で金メダルを獲得して、開催国としての威厳を保つことができました。1900年のパリ、1904年のセントルイスがいずれも万博の付帯イベントのような様相を呈していたのに比べると、ロンドン大会は仏英博覧会との併催とはいえ、BOC英国オリンピック協会の努力でオリンピックの独立性が保たれ、クーベルタン会長の思い描く近代オリンピックの姿に一歩近づいた大会だったのです。

愛称“グレイトスタジアム”と呼ばれた巨大なホワイトシティースタジアムはオリンピックの後、ロンドンに寄贈され、アマチュアの陸上競技会からグレイハウンドレース(ドッグレース)や1966年のFIFAワールドカップにも使われて、近代的なスタジアムとしての先駆けの役割を終えて1983年に閉鎖されます。

(おわり)

 

参考サイト(記事、画像)

 IOC公式   olympic.org/london-1908

 Britannica    britannica.com/event/London-1908-Olympic-Games

 WIKIPEDIA  wikipedia.org/wiki/1908_Summer_Olympics

 

【記事は無断転載を禁じています】

1904年セントルイスオリンピックは万博の余興?史上最悪のマラソンレースを再現 !

はじめてヨーロッパから離れ、アメリカのセントルイスで行われた第3回オリンピックのマラソンは、史上最悪のレースとして歴史に残されています。1位でゴールしたアメリカのフレッド・ローツ選手が、途中で自動車に乗って距離を稼いでいたという「キセル事件」が起こったのです。ウイキペディアによればローツ選手は不正を糾弾されて、優勝を取り消され、マラソン界から追放を命じられたとされています。

 

フレッド・ローツ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあと処分は軽減されますが、ローツは意図してこのような不正を働いたのでしょうか?それとも疲れ切ってレースを諦めた上での冗談だったのでしょうか? 

じつはセントルイスオリンピックは、ルイジアナをフランスから買い取った100周年を記念した万国博の一環として行われました。お祭り騒ぎのフェアーの影響で、オリンピックも本来の精神や趣旨から少し外れてしまったのです。

アメリカの歴史を語るスミソニアン博物館の公式サイトに掲載された記事を主なベースにして、セントルイスオリンピックのお祭り騒ぎのイベントと最悪のマラソンレースを再現してみました。

セントルイスオリンピック1904年 史上最悪のマラソンレース

オリンピックは万国博覧会の余興だった?

 

セントルイスオリンピック
(ポスター)

 

写真は1904年セントルイスオリンピックのポスターです。「五輪」のシンボルマークが開発されたのは1920年大会からで、ここではまだ使われていません。

ポスターの下半分をご覧ください。「万博 ルイジアナ購入博覧会」と記されています。

じつはセントルイスのオリンピックは、万国博覧会と併催しているイベントでした。万博はアメリカがルイジアナをフランスから購入した100周年を祝い、「アメリカの世紀」を唱い上げる幕開けイベントでした。オリンピックは万博の一環として催されていたのです。

 

「人類学の日」と呼ばれるスポーツイベントが“民族の体力測定”を目的としたオリンピックのゲームとして行われました。万博会場に作られた「国際的な村」(アメリカインデアン村やフィリピンの原住民の村、日本のアイヌの人を集めた村)から選手が募集されて、少数民族の体力を測定するという名目のもとに、白人の観客に向けた余興としてゲームを競わせたのです。

日本からはアイヌの人達がアイヌ村の展示物として(陳列)されていたと記録されています。日本は当時日露戦争のただ中でしたが、万博に“芸術的催し”で参加しています。オリンピックに参加するのは第5回ストックホルム大会からで、このオリンピックには参加していません。

「人類学の日」のゲームは、グリースポールクライム(あぶらを塗った棒登り)、ジャベリンコンテスト(やり投げ)、エスニックダンス、泥投げなどを競技として白人の観客に見せたのです。このような競技が体力測定などという科学的な調査目的で行われたはずがなく、「人類学の日」のゲームには人種差別的な発想が背景にあるとして、後々までの批判の的になりました。

 

ジャベリンコンテスト
Javelin contest during the Anthropology Days. Photo: St. Louis Public Library (www.slpl.org)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真はやり投げコンテストの風景です。

近代オリンピックの創始者で、IOCオリンピック委員会のクーベルタン委員長は「人類学の日」の競技を見て茫然自失して言ったのです。

「(オリンピックの競技のように)走って、ジャンプして、投げて白人を後塵にすることを覚えなさい!」と。

 

マラソンのスタートラインに集まった有力選手と不思議な選手たち

 

オリンピックのマラソンは、ギリシャの古代オリンピックの伝統を引き継いで、近代オリンピックの精神を示す象徴的なゲームといわれています。しかし1904年セントルイスのマラソンは競技を競い合う崇高な精神というより、万博のフェアー「お祭り」の雰囲気に近いイベントになっていました。

有力選手はボストンマラソンの優勝者や入賞者でしたが、ほとんどは中距離のランナーや足が自慢のアマチユアの人達でした。

アメリカ人の有力選手はサム・メラー、ニュートン、ジョン・ロードン、トーマス・ヒックスなど、マラソンの経験者です。

アメリカ人のフレッド・ローツは、普段はレンガ職人で昼に働き、夜間にトレーニングを積んでいました。アマチュアのローツはアマチュアアスレチックユニオンが主催する「特別な5マイルレース」に出場して、本戦への出場権を手に入れたという経歴の持ち主です。このローツ選手がレース途中の“キセル走行”でルール違反とされ、代わってトーマス・ヒックスが優勝者として表彰されることになります。

 

スタートラインにひとりのキューバ人が現れました。フェリックス・カルバジャルという名前のもと郵便配達員です。郵便配達で鍛えた足でキューバ中をトレッキングしながら、デモンストレーションをしてセントルイスまでの旅費を集めました。ニューオーリンズに着いたカルバジャルはサイコロゲームに手を出して、全財産を失います。困った彼はセントルイスまでヒッチハイクをしてなんとかたどり着いたのです。

スタートラインに現れた彼は、ベレー帽をかぶり、白い長袖のシャツに、普通のストリートシューズを履いていました。濃い色の足元まで届く長いズボンは、とてもマラソンランナーに相応しいとはいえない代物。見るに見かねたオリンピアンのひとりがハサミを探して、カルバジャルのズボンの膝から下を切り落としました。

フェリックス・カルバハル Cuban marathoner (and former mailman) Félix Carbajal Photo: Britannica.com

 

 

 

 

 

 

 

 

写真は半ズボンになった小柄なカルバジャルです。二日間なにも食べていなかった彼は腹ぺこでレースに挑み、ガンバって4位でレースを終えることになります。

 

スタートラインに不思議な選手が二組現れました。長距離のマラソンは一度も走ったことがないというギリシャ人が10人。裸足でスタートラインに立った南アフリカのツアナ族が二人です。ツアナ族の二人は博覧会の「南アフリカ世界フェア」に展示物として参加していたのですが、なぜかオリンピックのマラソンに裸足で駆けつけたのでした。

南アからマラソン参加の二人。一人は裸足。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間が走った、史上もっとも過酷なマラソンレースが始まった!

 

1904年のオリンピックマラソンレース(ミズーリ歴史協会)

 

 

 

 

 

 

 

 

1904年8月30日午後3時30分にレースがスタートしました。大勢の米国人、10人のギリシャ代表、キューバが一人、そして南ア(RSA)の黒人二人を含めて4カ国の代表32人がまず競技場を一周します。

 

競技場を一周する選手達

 

 

 

 

 

 

 

 

競技場を一周する選手達です。20番を付けているのが優勝したトーマス・ヒックスです。温度は33度と1日で1番暑く、湿度の高い時間を選んでいます。そして水の補給箇所はコースでただ一つ、11マイル地点の井戸に限られました。(6マイルの給水塔と12マイルの井戸の2カ所だったという説もあります)

 

どうしてそんな過酷な時間や給水にしたのでしょうか?マラソンゲームのチーフオーガナイザーのジェームス・サリバンは、研究分野である「意図的な脱水の限界と影響をテストするために、水分摂取を最小限に抑えた」としています。

コースは39.99キロ、厳しく長い7つの丘がある、舗装のない埃だらけの道路でした。馬や犬がコースを横切り、コーチや医者を乗せた車がランナーと併走して走り、埃を巻き上げていました。ランナーはほこりを吸い込んで、激しく咳き込んでいました。吸い込んだ埃はこのあとランナーの肺を痛めつけることになります。

 

フレッド・ローツが先頭に立ちトーマス・ヒックスが後を追います。途中、米国のウイリアムガルシアが道路脇で倒れ、オリンピックマラソン史上初の死者になりかけていました。病院に担ぎ込まれたガルシアの食道は埃だらけで、内部が侵食されていました。米国有力選手のジョン・ロードンは嘔吐の発作に苦しみ、途中で棄権します。

キューバのカルバジャルはブロークン英語で観客とお喋りしたり、先頭を争いながらレースを楽しんでいました。途中、車に乗った男が桃を食べているのをみて、欲しいと手を出したのですが断られます。彼はふざけてももを二つひったくり、走りながら食べたのです。

40時間以上なにも食べずにいた空腹の彼は道ばたのリンゴの青い実に気づいて(腐っていたという説もあります)二つとって平らげます。すぐに強烈な腹痛に襲われた彼は、横になって昼寝をして休み、その後立ち上がり4位に食い込んでレースを終えることになります。昼寝をしなかったら優勝したかもしれないと、彼の実力と健闘を称える記事があります。

 

南アから黒人としてはじめてオリンピックに参加した二人の黒人のうち、マシアン・ヤンは野犬に追いかけられて、コースから数キロも離れてしまいました。ヤンは完走して12位に入り、もう一人のレン・タウは9位に入っています。

9マイル地点でけいれんに悩まされていたローツは、伴走していた自動車に乗ってヒッチハイクをすることに決めました。途中ローツはゴールの競技場に向かう車の上から「通り過ぎる観客や、他のランナーに手を振っていた」(スミソニアン記事)と報告されています。

・・・ローツが意図して不正を仕組んでいたのなら、この行動は極めて不自然と言わざるをえません。

 

一方、優勝をしたヒックスはこのときあと10マイル地点で2人のサポートクルーの管理の下に走っていました。疲労困憊し、喉が渇いたヒックスはハンドラー(助言者・クルーのこと)に飲み物を欲しいと訴えますが、拒否されます。許されたのは、暖かい蒸留水で口を拭うことだけでした。

二人のハンドラーとトーマス・ヒックス
二人のクルーとトーマス・ヒックス

 

 

 

 

 

 

 

 

フィニッシュから7マイルに近づいたとき、よれよれになったヒックスにハンドラーは「ストリキニーネと卵白の混合物」を与えました。ストリキニーネは毒物ですが、当時は少量で刺激剤として使われていました。これはオリンピックで薬物が使用された初めての記録です。薬物使用が禁止されるのは後のことです。

 

その間、車に乗ってけいれんから回復したローツは11マイルを稼いでくれた車からコースに降りました。車が故障して動かなくなったのです。「車から現れたローツを見てヒックスのハンドラーの1人がコースから外れるように命じます」(カッコ内はスミソニアンの記事からの引用です。他の記事ではこの様子は見当たりません)

しかしローツはそのまま走り続け、3時間弱のタイムで競技場のゴールにフィニッシュしました。アメリカ人のゴールに喜んだ観衆が歓声を上げ、ルーズベルト大統領の娘のアリス・ルーズベルトが金メダルをローツの首にかけようとしたときです。だれかが「その男は車に乗ってフィニッシュラインまで来た詐欺男だ」と告げて歓声はブーイングに変わります。

ローツは微笑んで「これは冗談だ。名誉を受け入れるつもりはなかった」と主張しました。しかし主催者はローツの生涯の選手活動を禁じる決定を下したのです。

 

その頃、ヒックスはストリキニーネの影響で顔は青ざめ、足を引きずっていました。ローツが失格になったと聞いて、ヒックスは足を速めようとしますが、トレーナーはヒックスの体力では無理な試みと思い、卵白入りのストリキニーネをもう一彼に与えます。今回は食べ物をうまく喉に通すために、ブランデーを飲ませました。

 

「ヒックスは油を差した機械のように、機械的に走っていました。目はくすんで、肌の色は青白く、腕には重りがついたようで、膝は硬く、足はほとんど持ち上がらない状態でした」(大会オフィシャル チャールズ・ルーカス談)

ヒックスはこのとき幻覚症状を呈しています。ゴールまではまだまだ遠い20マイル地点にいると錯覚していました。元気になるために、さらに食べものを頼み、横になり、ブランデーを飲み、卵白を二つ食べます。

ヒックスは丘を越え、最後の坂を速度を落としてゆっくりと下りました。ついにスタジアムについたとき、ヒックスは観客の前をスピードを上げて走ろうとしましたが、足がもつれました。彼のトレーナーはフィニッシュラインまで彼を運び、彼の足を前後に動かし、身体を持ち上げてゴールラインを越えさせたのです。

 

ヒックスは勝者と宣言されました。そのあとヒックスがその場を離れるのに4人の医師と1時間が必要でした。レースで8ポンドも体重を失ったヒックスは言っています。「この恐るべき丘は選手を粉々に引き裂いた」と。

 

ヒックスの記録は3時間28分45秒で従来のオリンピック記録から30分も遅く、マラソンの参加選手32名のうち完走は18名、棄権は14名。これらは代々のオリンピックのマラソン史上最悪の結果として記録に残りました。ローツの「わたしは冗談を言ってるんだ」という主張が通り、彼の出場停止は1年間にとどまります。

ヒックスとローツは翌年のボストンマラソンで再会し、ローツは「自分の足以外の助けなしに見事に優勝を果たしました」(スミソニアン記事)

(おわり)

 

[主な参照記事と引用画像出典]

The 1904 Olympic Marathon May Have Been the Strangest Ever SMITHSONIANMAG.COM

Disastrous  1904 Men’s Olympic MarathonExpress To Nowhere 

Wikipedia Athletics at the 1904 Summer Olympics – Men’s marathon

 

【記事は無断転載を禁じられています】

オリンピック女子テニス / 金メダリストのベストファッションを紹介

テニス観戦の興味の一つは、女性選手の機能的で華麗なファッションです。

女性のアスリートがオリンピックのテニス競技に参加できたのは1900年の第2回パリ・オリンピックが始まりです。パリから2016年リオデジャネイロ・オリンピックまで、途中中止を挟んで、競技の記録写真からオリンピック女子テニス、金メダリストのベストファッションを選んで紹介します。

1900年パリオリンピックの女子テニス・金メダリストはロングスカートでプレーしていた?

 

シャーロット・クーパー
パリ五輪テニス優勝

 

1900年、パリで開催された第2回近代オリンピックに女性がはじめて参加しました。

このときテニスの女子シングルスと混合ダブルスで二つの金メダルを手にしたのが、写真のシャーロット・クーパーです。

 

イギリス・ロンドン生まれのシャーロットは全英オープンに相当する「ウインブルドン選手権」で5回も優勝している名プレーヤーです。

このときのパリ・オリンピックは、世紀の変わり目にあたる国際博の付帯競技大会として開かれていて、運営の体制が整わず、陸上以外の競技は公式記録が残されていません。

 

しかしテニスは別格だったようです。

優勝者のシャーロットの立派な記念写真が残されていました。

 

襟付きの長袖ブラウスに小さなネクタイ、足首が隠れそうなロングスカートにベルトがきりりと締められています。

この写真は金メダルの表彰式のときの服装でしょうか?

 

それとも、プレーするときもこの服装だったのでしょうか?

このファッションでプレーをしたら、スカートで足がもつれて、転んでしまいそうです。

 

じつは、1900年当時、女性はこんな服装でテニス・プレーをしていたのです。

 

・・

次の写真は、パリから8年後の1908年に開催されたロンドン・オリンピックで、テニスのシングルスに優勝したドロテア・ダグラス・チェンバースのプレー写真です。

 

1908年ロンドン五輪優勝
ドロテア・ダグラス・チェンバース

イングランド出身のドロテアは、重たそうなスカートを引きずりながら、こんなスタイルでプレーをしていました。

ドロテアは、自分のバックサイドに来たボールを打ち返すために、右足を踏み込んで肩を廻しています。

 

バックサイドというのは右利きなら身体の左側にあたります。

バックサイドに来たボールは右足を思い切り左に踏み込まないと、力強い返球ができません。

 

ドロテアのスカートが膝にかかって、身体をひねるのも限度いっぱいのように見えます。

これではあっという間に疲れてしまうでしょうね。

 

ドロテアはこの服装でウインブルドンのシングルスで7回も優勝しているのです。

1900年から1910年頃の女性のテニス・ファッションには慎み深い上品さが求められていました。

 

足首まであるロングドレス、長袖のブラウス、ネクタイにタイトなベルト・・・

機能性のみじんもない悲劇的ファッションで、彼女たちは長い時間、コートの上でけなげに戦ったのです。

 

スザンヌ・ランランはジャン・パトーのデザインでコートを跳ねた。

 

VOGUE誌のサイトによれば・・1920年代「テニスの女神」と呼ばれたパリ出身のスザンヌ・ランランが、当時流行していたフラッパースタイルをテニスコートに持ち込みました。

 彼女が身につけていたのは、ノースリーブのドレスで、膝がちょうど隠れるくらいのプリーツスカートになっています。

 

プレー中のランラン

このファッションはシャーロットやドロテアのものと比べて、格段に機能的です。

足の可動域も拡がり、コートを飛び跳ねています。

 

ランランの戦績は全仏優勝六回、ウインブルドン六回、1920アントワープ・オリンピックで金メダル獲得というすさまじい活躍振りでした。

 

このファッションを考案したのは当時の人気デザイナー、ジャン・パトーです。

ジャン・パトーはテニス・ファッションを華やかにしただけでなく、機能を進化させて女性のテニスの発展に大きな貢献をした人物といえます。

 

1929年にテニスファッションの原型/膝下までのプリーツ・スカートにカーディガン

 

ヘレン・ウイルス・ムーディー
1929年

 

この写真の女性は、米国出身で1924年パリ五輪のシングルスで金メダルを獲得したヘレン・ウイルス・ムーディーです。

写真は1929年に撮影されたものです。

 

服装は膝下までの白いプリーツ・スカートに襟付きシャツとカーディガンという、テニスファッションの原型ができあがっています。

おとなしいファッションですが、この服装なら現在のテニスコートでプレーしても、おかしくありません。

 

悲しいことですが、ヘレンの活躍した1924年からオリンピックのテニスは長い凍結の時期に入ります。

テニスのプレーヤーは半世紀以上の間、オリンピックという華やかなステージからその姿を消しています。

 

オリンピック・テニスの凍結と復活

 

1928年から1984年までのおよそ60年と言う長い期間、オリンピックからテニス競技が除外されています。

原因はテニス競技のプロ化が始まったことです。

 

男子、女子とも、賞金が手に入るテニス試合が始まって、ランラン選手をはじめ、有力選手のプロ転向が進みます。

その結果、スポーツのアマチュアリズムを提唱していたIOCは、プロ化したテニス競技をオリンピックから除外することを決めました。

 

その後、60年もの歳月が流れて、1984年のロサンゼルスオリンピックで公開競技としてテニス復活が試されています。

ロスオリンピックは、米国のピーター・ユベロスという実業家が大会組織委員長を務め、オリンピックの運営に民間主導のマーケテイング手法を導入して、事業の黒字化に成功したことで有名です。

 

この大会以降、オリンピックはアマチュア主義からプロの選手を含めた商業化「オリンピック・マーケティング」の時代に突入していきます。

そして1988年、ソウルオリンピックでついにテニス競技が64年振りに公式競技として復活します。

 

競技に賞金はありませんが、プロ選手の出場が認められ、有力選手が出場しました。

基本理念「オリンピックはアマチュアスポーツの祭典である」と言う考え方が大きく変更された大会でした。

 

このとき女子シングルスで金メダルを取ったのがドイツのシュテフィー・グラフです。

シュテフィー・グラフ

 

グラフは世界ランキング一位の地位を377週(7年強)続けたという男女を通じて史上最多の記録を持っています。

また全豪・全仏・全英・全米の四大タイトルをとる“グランドスラム”に加えて、オリンピックの金メダルをあわせた“ゴールデンスラム”を達成しました。

(4大大会のことを単にグランドスラムと呼ぶことがあります)

 

しかも、すべてのタイトルを1988年の一年間で獲得したテニス史上ただ一人のプレーヤーです。

グラフのプレースタイルは卓越したフットワークと必殺のフォアハンドでした。

 

写真を見てください。

ファッションに一分の隙もありません。

 

半袖シャツに、動きやすいミニスカ、軽いテニスシューズに髪留め。

一切の無駄をそぎ取った究極の機能美と言えるファッションです。

 

女子テニスの歴史上、もっとも機能的なスタイルといえるかもしれません。

グラフはこのスタイルで強敵のナブラチロワやクリス・エバートと戦い、3回のグランドスラムを達成しました。

 

彼女は引退後、男子のグランドスラマー、アンドレ・アガシと結婚しました。

アガシはバツイチで、できちゃった婚だそうです。

 

今は幸せな二児の母親で、夫婦でチャリテイー活動に励んでいるという話です。

 

もう一人のゴールデンスラマー/セリーナ・ウイリアムズ

 

 

セリーナ・ウイリアムズ

 

オリンピックベストの最後は、セリーナ・ウイリアムズの華麗でパワー溢れるテニス・ファッションです。

エレガントで機能的な白いワンピースに身を包んだセリーナは米国の国民的英雄です。

 

彼女はグラフと並び四大タイトルとオリンピック金メダルをとったゴールデンスラマーです。

さらに男女を通じてシングルス・ダブルス共に「キャリア・ゴールデンスラム」を獲得しているただ一人の選手です。

 

彼女は2002~2003年、2014~2015年に全米などのグランドスラム4大会を連続優勝しています。

また、2012年ロンドンオリンピックでシングルスとダブルスの両方で金メダルを獲得。

 

プレースタイルは姉のビーナス・ウイリアムズとともに圧倒的なパワー・テニスです。

二人が組んだダブルスは大胆なファッションと共に、男子をしのぐほどのスピードとパワーで観客を魅了しました。

 

エピソード/セリーナ・ウイリアムズは大坂なおみ選手が2018年の全米オープン決勝で戦った相手!

 

2018年9月、全米オープン・テニスで、大坂なおみ選手は、ゴールデンスラマーのセリーナ・ウイリアムズを破って、日本人で初めてグランドスラムのチャンピオンに輝きました。

 

この試合で審判の警告に対して、セリーヌ選手は「警告されるようなことは何もしていない」と抗議をして、試合中なんども審判に怒りを表しました。

試合中、観客もセリーナ選手に同情して、審判にブーイングを繰り返しています。

 

試合後の表彰式で、セリーナの全米制覇を期待していた地元ファンからはブーイングが起こったのです。

セリーナは客席に対し、ブーイングではなく大坂のグランドスラム制覇を祝うように呼びかけました。

 

大坂は「みんな、セリーナのことを応援していたのをわかっています。こんな終わり方になって、ごめんなさい」と声を詰まらせます。

セリーナに「プレーしてくれてありがとう」と涙ぐみ、憧れの元世界女王への敬意を忘れません。

(NEWS JAPAN より)

 大坂なおみ、セリーナ破りテニス全米オープン初優勝

 

大坂なおみに話しかけるセリーナ

 

二人の優しいやりとりは、観客と世界を感激させました。

大坂なおみ選手! 東京オリンピック! 応援してます!

 

大坂なおみ選手はどんなファッションで東京オリンピックのコートに現れるのでしょうか?

セリーナウイリアムズは欠場の予定ですが、世界の若手選手のベストファッションが今から楽しみです。

(おわり)

 

【記事は無断の転載を禁じています】

第二回 パリ・オリンピックのゴルフは競馬場の中? 選手はオリンピックと知らなかった!

 2016年リオデジャネイロ・オリンピックに続いて、2020年東京オリンピックでもゴルフ競技が開催されます。

女子では全英オープン優勝の渋野選手や米ツアーで活躍中の畑岡選手、男子では松山選手や今平選手、復活した石川選手などの活躍が期待されています。

 

ここではオリンピックで行われたゴルフ競技の歴史を振り返って、1900年のパリ、1904年のセントルイスでのゴルフにまつわるエピソードを集めてみました。

 

(1900年パリオリンピックの記事は下記をご覧ください)

競泳はセーヌ川! マラソンは炎天下! 1900年パリ五輪は万博の付録だった?

 

1900年パリ五輪ゴルフ/開催場所は競馬場!参加選手はオリンピックと知らなかった?

 

優勝 チャールズ・サンズ

 

19oo年のパリ・オリンピックで、ゴルフ競技がはじめて五輪の正式競技として採用されています。

しかし、このときパリでは、19世紀から20世紀の変わり目に際して、歴史的な意味を持つ国際博覧会が盛大に開催されていたのです。

 

そのためオリンピックは万国博の附属競技会とされ、まとまりのつかない運営体制で実施され、陸上競技以外は公式記録としても認められないような惨憺たる有様でした。

ゴルフ競技も冷遇され、本格的なゴルフコースではなくて、パリから50キロ離れた競馬場の中に造られたCompiègne Clubで行われました。

 

競馬場というのは競馬のレースが外周で行われるために、真ん中に大きな空間ができます。

レースのない日はここが格好のゴルフ場になります。

 

日本でもむかし、仁川の競馬場のまん中が、9ホールのパブリックのゴルフコースになっていて、レースのない平日に練習ラウンドができました。

ときどき、騎手に引かれた競走馬がティーグラウンドの前を横切るので、その時はゴルフは小休止になります。

高い競走馬にボールを当てたりしたらとんでもないことになりますからね。

 

競馬場のゴルフコースは、設計上の理由で、どうしても平坦で変化が少なくて、良いスコアが出るコースになります。

Compiègne Clubは、密生したラフ(長く伸びた芝生)やグリーンを狭くして、変化をつけてコース設計をしたと記録されています。

 

1900年10月2日、男子の競技が始まりました。

イギリス、フランス、ギリシャ、アメリカから参加した12人のアマチュア選手が、36ホールのストローク・プレーで争っています。

 

競技は、アメリカのチャールズ・サンズが二位に1打差で優勝しました。

スコアは82-85でした。

 

1ラウンド平均スコアは83.5です。

彼は1895年からゴルフを始め、その年の全米アマチュアで決勝に残った経歴を持っています。

 

しかしこのスコアは現在のアマチュアならハンデイキャップ10程度の人のレベルです。

現在は道具が格段に進化していますので一概に比較はできませんが、当時の世界のトップ・アマチュアはこの位のレベルだったと思われます。

 

サンズの経歴は変わっています。

サンズは1905年のテニスの全米チャンピオンです。

 

パリオリンピックのテニスにも出場して、このときは調子が出なかったのか、初戦敗退しています。

テニスとゴルフの2種目に出場しているのですから、これはオリンピック新記録でしょうね。

 

サンズのゴルフの腕前がどのくらいだったのか、気になって調べてみました。

この年と同じ1900年に行われた全英オープン・ゴルフの優勝者は、どのくらいのスコアで回っていたのでしょうか?

 

全英オープンの歴史は古く、1860 年にスコットランドのブレストウイックゴルフクラブで第一回の大会が開催されています。

1990年の大会はゴルフの聖地と言われるセント・アンドルーズ・オールドコースで行われ、イングランドのジョン・H・テイラーと言う選手が309のスコアで優勝していました。

 

このテイラーのスコアは1ラウンド平均にすると77.25になります。

パリで同年に行われたサンズのスコアは83.5でした。

 

セントアンドルーのコースは、パリ近郊の競馬場のコースより難易度が相当高いと思われますので、プロとアマチュアのトップ比較としても、二人の力の差は大きすぎます。

パリオリンピックのゴルフのレベルは全英オープンのレベルと比較してずいぶんマイナーだったようです。

 

リンクスという海岸沿いの自然を生かしたセントアンドルーズの難しさは別格なのです。

余談になりますが、筆者はテレビ放送の仕事で2000年の全英オープンの立ち会いに行ったとき、セントアンドリュースのコースを日本の丸山選手の組について回りました。

 

あるホールで丸山選手が打ち込んだラフは、近づいてみますと、芝の高さがわたしのひざまでありました。

そのラフは非力なアマチュアにはとても脱出できる状況ではありません。

 

しかし、丸山選手は豪腕でした。

ラフに沈み込んだボールを見事にとらえて、フェアウエーに運んだのです。

 

わたしはそのラフに恐れをなして翌日の月曜日に予定していたラウンドを止めました。

今思い起こしますとゴルフの発祥の地と呼ばれる聖地でのラウンド中止とは、もったいないことをしたものです。

 

話をパリに戻しますと、男子ゴルフの翌日に女子のゴルフ競技が行われました。

 

優勝 マーガレット・アボット

 

競技は男子と同じ競馬場のコースで9ホールで争われ、アメリカからパリに芸術の勉強にきていたマーガレット・アボットと言う女性が優勝しています。

9ホールのスコアは47ストロークでした。

 

「あらっ!それならわたしでも・・オリンピック・チャンピオン?」

そう思う女性の読者もきっとおられますよね。

 

実は、このときパリに同伴していた彼女の母親・ Maryも一緒にオリンピックでプレーをして7位に入っているのです。

親子で同じ競技の出場はもちろんオリンピック珍記録ですよ。

 

後日の調査でわかったことですが、二人の母娘はこの大会が、オリンピックであることを知らないままアメリカに帰っています。

競馬場主催の懇親ゴルフ大会とでも思っていたのでしょうか。

 

男子の選手たちも、自分たちがオリンピックに参加しているという認識はなかったと記録されています。

第二回パリのオリンピックはあくまで万博の付録イベントでした。

 

付録のオリンピックですから、競技の記録は、陸上競技以外はIOCの公式記録からすべて削除され、ゴルフの記録も空白のままになっています。

五輪のゴルフ競技の始まりはパリの社交界のコンペ程度のレベルでした。

 

1904年セントルイスオリンピックのゴルフ競技はアメリカとカナダの二カ国対抗だった!

 

1904年米国セントルイスで開催されたオリンピックのゴルフ競技は、男子のみで行われ、参加者は75人で三人はカナダ国籍、残りはすべてアメリカ国籍という北米大陸大会になりました。

もともとゴルフはスコットランドで育った競技ですから、英国やヨーロッパの選手はわざわざゴルフ後進国のアメリカまで遠い船旅で出かける気持ちにはならなかったのでしょう。

 

このときの個人戦は、パリのときのようなストローク・プレーではなくて、二人ずつ戦って勝ち抜いていくマッチ・プレー形式で行われました。

優勝はアメリカ選手を撃破したカナダのジョージ・シーモア・リオン(George Seymour Lyon)という選手でした。

 

米国やカナダでゴルフ人気が高まるのは相当後のことで、リオンも38才の年でゴルフをはじめカナダのアマチュア・チャンピオンになっています。

今では考えられない高年齢でのゴルフ人生のスタートだったのです。

 

・・オリンピックにおけるゴルフ競技の歴史はセントルイスで終わってしまいました。

セントルイスの4年後にロンドンでオリンピックが開催されていますが、ゴルフの盛んな英国なのに、なぜかゴルフ競技は中止となっています。

 

これは推測に過ぎませんが、英国におけるゴルフは近代オリンピックに比べても、はるかに歴史のあるスポーツで、ゴルフのメッカとしての「全英オープン」が存在する以上、ロンドンオリンピックでゴルフ競技を開催する意味があまりなかったのではないでしょうか?

 

セントルイスオリンピックのあと、112年間の空白の時を経て、ゴルフがオリンピックに復活するのは、2016年のブラジル・リオ・オリンピックでした。

 

リオの反省/東京オリンピックでのゴルフ競技に緊急提案!

 

リオ五輪ゴルフ・メダリスト
左から銀ヘンリック・ステンソン 金ジャスティン・ローズ 銅マット・クーチャー

 

リオ五輪では英国のジャスティンローズが金、スエーデンのヘンリック・ステンソンが銀、米国のマット・クーチャーが銅と世界ランク上位の選手がメダルを獲得しました。

 

しかしリオのオリンピックでは、ゴルフ競技への出場を辞退した男子選手が続出しています。

ジェイソン・ディ

ローリー・マキロイ

ダステイン・ジョンソン

ジョーダン・スピース

松山英樹

 

このほかにも相当数の有力選手が参加を辞退しています。

ジカ熱の感染を危惧したことと、治安への不安が、その理由でした。

 

それにしてもこの選手たちは当時のPGAランクで世界のトップ10に相当する人気選手です。

全英オープン、全米プロ、全米オープン、マスターズの四大メジャートーナメントでトップ10の半数が辞退したら、そのトーナメントはメジャーとはいえないでしょうね。

 

それでは来年に迫った東京オリンピックに世界のゴルフの有力選手は何人くらい参加してくれるのでしょうか?

男子の有力選手の大半はアメリカとヨーロッパです。

 

来年も秋口からUSPGAトーナメントは4試合によるフェデックスカップ・プレーオフに突入します。

フェデックスカップのチャンピオンには11億円が渡されます。

 

年間の賞金レースの頂点を目指して、熾烈な勝ち残りレースが始まるのです。

世界の有力選手によって争われるこの大会は、年間の王者を決める巨額の賞金レースなのです。

 

一方、東京オリンピックは、酷暑のなか、四日間にわたって、個人戦が行われます。

その前には、コース攻略のための練習日が必要です。

 

スタッフの帯同も必要です。

欧米から東京オリンピックに出場するには移動も含めて、少なくても10日間の日数が必要になります。

 

秋のプレーオフを控えて、東京オリンピックへの出場を彼らはどのように考えるのでしょう。

国を代表する名誉と金銀銅のメダルという勲章が用意されていますが、オリンピックには賞金はありません。

 

東京オリンピックのゴルフ競技は、リオ以上に、有力選手を惹きつけるだけの魅力があるかどうか、疑問に思えてきます。

なにか良いアイデアはないものでしょうか?

 

全くの素人考えですが、ここはメジャー競技と張り合わないで、別のアプローチをしたらいかがでしょう?

どうぞ笑いながらお聞きください。

 

いくら名門といっても、賞金の出ないゴルフトーナメントで四日間も同じコースでプレーをしたら、選手も観客もテレビの前の視聴者も飽きがこないでしょうか?

 

猛暑の四日間、予選カットなしでは、順位が後半の選手は三日目や最終日にモチベーションを保つのはたいへんでしょうね。

テレビ映りもないし、観客もついて来ないし、ツアー・ポイントの加算もないし、選手には辛くて張り合いのない日になりそうです。

 

ここは、ぎゅっと引き締めて、コンパクトにいたしましょう。

四日間競技を予選なしの二日間にいたしましょう。

 

いきなり二日間の決勝ラウンドです。

これで選手の肉体的負担は半減して、東京オリンピック参加へのハードルがどんと下がります。

 

圧縮した二日間に選手の集中力が増して、僅差の緊迫したゲーム展開が期待されます。

切り取った二日間の中、最初の日は日本や世界の子供たちを招待して、選手との交流の日にします。

 

ついでにスポンサーを付けてゴルフで遊ぼう○○デーにしましょう。

 

本番前日は、練習日として有料で公開します。

練習日はテレビ中継を入れて、有力選手の練習プレーを見ながら、丸山選手と岡本綾子のホール攻略レッスン番組にします。

 

「なるほど、このロングホール、渋野選手の戦略は、2オンを狙わずに3打目に賭ける考えですよ。十分届く距離なのにどうしてでしょう。直接シンデレラにインタビューして聞いてみましょう」

・・有力選手のコース戦略を徹底調査しましょう。

 

これで、視聴者のテレビ中継本番への予備知識は整います。

あとは本番で世界の一流選手のプレーをテレビの前で楽しみましょう。

 

以上は勝手な提案でした。

いまから東京オリンピックでの日本選手の活躍が楽しみです。

 

・・リオ・オリンピックでせっかく112年振りに復活したゴルフです。

東京のあとつぎのオリンピック開催地、パリでは124年振りのオリンピック・ゴルフ開催が決まっています。

 

東京やパリを最後に、またどこかに消えてしまわないように、私たちゴルフファンも東京オリンピックのゴルフ競技を応援してまいりましょう。

 (続く)

 

渋野日向子選手の全英オープン優勝の活躍はここからご覧ください。

https://tossinn.com/?p=3661

 

【記事の無断転載は禁じられています】

 

記録から消された幻のオリンピック/ゲオルギオス1世の執念で開かれたアテネ五輪とは?

開催から45年後になって五輪の公式記録から削除された“幻のオリンピック”があったことをあなたは知っていますか?

その答えは1906年ギリシャのアテネで開かれた“中間年オリンピック”です。

 

1904年のセントルイスオリンピック、1908年のロンドンオリンピックのちょうど中間の年である1906年に、アテネでオリンピックが開催されています。

オリンピックは4年に1度開催されるはずなのにどうしたことでしょうか?

消し去られた記録“中間年オリンピック”誕生の秘密を調べてみました。

 

“中間年オリンピック”誕生のいきさつとは?

 

中間年という中途半端な年に五輪の開催を実現した人物はギリシャの王ゲオルギオス1世です。

ゲオルギオス1世はオリンピックの提唱者クーベルタン男爵と共に、古代オリンピックを近代オリンピックとして1896年にアテネで蘇らせた人物の一人です。

 

ゲオルギオス1世は「オリンピックはギリシャ固有の伝統であり、ギリシャを離れて行われるべきものではない」という強い信念を持っていました。

ところが、ギリシャ王の要請にもかかわらず、第2回オリンピックはアテネを離れ、1900年にクーベルタン男爵の故郷・フランスのパリで万博の付属競技大会として開かれます。

その後、アメリカ大陸に渡った第3回オリンピックは1904年にセントルイスで開催され、さらに1908年の第4回大会はヨーロッパに戻りますが、アテネではなく英国のロンドンで開催されることが決まりました。

 

オリンピックがオリンピック発祥の地、アテネに戻る気配はまるでなかったのです。

IOC国際オリンピック委員会はクーベルタン男爵の提唱の元に、「オリンピックは世界の国が持ち回りで開催し、4年に1度行われるものとする」というルールを決めていました。

 

一方、アテネではギリシャの王ゲオルギオス1世が執念を燃やし続けています。

オリンピックはギリシャ固有の祭典であり、永遠にアテネで開催されべきである”と。

 

ゲオルギオスは、IOCの決定に対して一計を案じます。

・・・4年に1度、持ち回りで行う世界に開かれたオリンピックなら、その真ん中の年には原点に戻り、オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで開催されるべきである・・・

と世界に訴えたのです。

 

中間年のオリンピック」と呼ばれたゲオルギオスの訴えは、1904年セントルイス大会と1908年ロンドン大会の中間の年、1906年にアテネで実現することになります。

近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンの見解に反対して、オリンピックを毎回アテネで行うことに執着したギリシャの王、ゲオルギオス1世とはいったいどのような人物だったのでしょうか?

 

オリンピックのアテネ開催に執念を燃やし続けたゲオルギオス1世とは、どんな人物?

 

彼は1845年12月24日にデンマークのコペンハーゲンでデンマークの王クリスチャン9世の次男として生まれています。

生家グリュックスブルク家はデンマーク王国とノルウエー王国を束ねた王家でした。

 

彼の兄フレゼリク8世は父親の後を継いでデンマークの国王になっていますから、次男の彼はギリシャの国王として養子に出されたことになりますね。

当時のヨーロッパは各国の王侯貴族がお互いに親戚関係にありましたから、こんなことは珍しくもなんともなかったのです。

 

彼のフルネームを紹介します。

「クリステイアノス・グリエルモス・フェルデイナノス・アドルフォス・ゲオルギオス」

 

伝統のあるヨーロッパ貴族の名前は、両親や祖先の名前、出身地などを加えていって、このようにとても長いフルネームになるのです。

当時のヨーロッパでは王室間の婚姻は広く行われていて、ゲオルギオスは17才の若さでギリシャの王として迎えられることになります。

 

その頃、ギリシャは長年にわたって征服されていたオスマン帝国からの独立を、欧州列強(イギリス、フランス、ロシア、オーストリアなど)の支援の元に果たしていました。

そして、欧州列強は相談の結果、オスマン帝国に長年征服されて疲弊したギリシャが立ち直るには、当面君主制が適当であるという結論を下したのです。

ギリシャはすでに君主としてドイツの貴族オソン一世を初代国王に迎えていました。

 

ところがギリシャの初代王として赴任したオソンは、経済政策で大失敗をしてしまいました。

彼はオスマン帝国以上の重税を国民にかけたのです。

そのうえ、ギリシャの習慣や風習に無頓着なオソン王はギリシャ正教に改宗することをせず、ドイツ人の女性とギリシャ国外で結婚式を挙げる有様でした。

 

ギリシャ国民の反発を招いた結果として、1854年、2度目のクーデターが起こり、身の危険を感じた国王夫妻は英国の艦艇でギリシャからバイエルンに逃げ帰ることになります。

そして1863年、ギリシャ議会は初代国王オソン1世の廃位を決め、ゲオルギオスの国王即位を可決しました。

 

新しくギリシャ国王として迎えられたゲオルギオスの若い肩には、政治改革と経済の復興という大きな課題が乗っていたのでした。

 

(若いときのゲオルギオス1世)

 

ところで、ゲオルギオスは英語読みで「ジョージ」です。

「ゲオルギオス」と読むと、とても近寄りがたい雰囲気ですが、「ジョージ1世」というと、俄然、親しみやすい印象になります。

 

上の写真は当時のゲオルギオス1世です。

いかにも若々しくて、気品に溢れて見えます。

 

ゲオルギオスは“ギリシャの国民に自ら歩み寄って、気さくに付き合った”と言われています。

オソン王の失敗から教訓を学んだ彼は、まずギリシャ語を覚え、ギリシャ聖教に帰依しました。

 

次に懸案であった憲法を制定して新しいギリシャ政治の土台を作り上げます。

1院制議会制による立憲君主制国家であることを内外に宣言したのです。

 

このとき制定された選挙制度は当時のヨーロッパでは相当進歩的なもので、ゲオルギオス国王は開かれた王室として国民と共に歩む姿勢を示したのです。

そして疲弊した経済を農政改革によって主導し、近代化を図ります。

 

月日はたち、1894年、万博が開催されていたパリで「古代オリンピックを復活して、新しい世界のオリンピックを作り上げる」という案がフランスのクーベルタン男爵から、各国のスポーツ界代表を集めた会議で提議されました。

提案は満場一致で認められ、第1回近代オリンピック大会を2年後の1896年にギリシャのアテネで開催することが決定されます。

 

ギリシャのアテネで計画された第1回近代オリンピックの誕生に際して、最大の課題は資金集めでした。

当時、できあがったばかりのIOC国際オリンピック委員会は欧米主要国12カ国からスポーツ界の有志14名を初代委員として構成しています。

 

IOCは現在のような各国単位の支部組織を持たなかったこともあって、各国からの資金集めは大変難しいことでした。

あたりまえの話ですが、スポンサーシップとか、オリジナルグッズとか、テレビの放送権といった資金集めのためのマーケティング手法はまだ存在しません。

資金集めはもっぱら、個人からの寄付に頼っていたのです。

 

このころ、国際社会でのギリシャの地位を復活させることに腐心していたゲオルギオスにとつて、近代オリンピックをアテネで開催し成功に導くことはギリシャ国王として至上の命題であると思ったのに違いありません。

ギリシャの王としてゲオルギオス1世は財政面での協力を惜しまずに行いました。

 

彼はヨーロッパ各国の王室とのネットワーク(姻戚関係)を通じて、経済界の有力者からの資金集めに奔走します。

当時、ギリシャ王国は、王の指導の下に農政を中心とした経済の回復に向かっている真っ最中で、財政の状態は悪く、オリンピックの資金集めは王の外交手腕に頼らざるを得ない状況でした。

 

国王自らの努力で、なんとか海外同胞からの資金が集まり、第1回近代オリンピックは無事開催の日を迎えました。

1896年4月6日・開会宣言は国王が自ら行い、オリンピック会場にファンファーレが鳴り響きます。

 

ゲオルギオス国王にとってその瞬間は忘れがたい感動の瞬間だったことでしょう。

ゲオルギオス1世の胸の中に、オリンピックは永遠にギリシャと共にあると言う固い信念が生まれた瞬間でした。

 

一方、ゲオルギオスの強い思いに反して、IOC国際オリンピック委員会は第2回大会をパリで開催したあと、第3回大会は海を越えた米国のセント・ルイス、その次は英国のロンドンで行うことに決めてしまいました。

しかし、IOCの決定に対抗して中間年オリンピックのアテネ開催を宣言したゲオルギオスの執念が、最後にはIOC国際オリンピック委員会を動かし、セントルイスとロンドンの中間年1906年にオリンピックをアテネで実現させることに成功するのでした。

 

それでは、中間年のアテネ・オリンピックとはどのような大会だったのでしょうか?

 

参加は自費/マラソンの優勝者シェリングはカナダからバイトしながらやって来た!

1906年開会式・パナシナイコスタジアム

 

 

 

 

 

 

 

 

五輪史上はじめて、開会式典が競技と独立したイベントとして企画され、パナシナイコスタジアムで挙行されました。このとき、ゲオルギオス1世の開会宣言に続いて、各国の旗の後ろで選手が行進するというセレモニーが生まれています。

 

マラソン優勝・シェリング

オリンピックのメイン競技、マラソンのエピソードを紹介します。

このときのマラソンの金メダリストはカナダのウイリアム・シェリングという選手で、2時間51分23秒6と言う自己ベストのタイムで走っています。

 

ボストンマラソンで実績のあるシェリングはカナダの代表に選ばれたのですが、渡航資金が乏しくてとてもアテネまでいけません。

当時は代表に選ばれても、資金は自分持ちだったのです。

 

困り切ったシェリングは、競馬に運命をかけました。

掛け率は6倍。

勝ち目は薄いが、高倍率。

これにシェリングは有り金のすべてをかけます。

 

シェリングは強運の持ち主でした。

なんとこの競走馬が優勝したのです。

 

カナダを出発したシェリングは船で2ヶ月かかってギリシャに到着。

現地に適応するために練習をしながらさらに2ヶ月間をギリシャで暮らしています。

オリンピック開催までの間シェリングはアテネの鉄道の駅でポーターをしながら練習にかかる費用や、生活費を稼いで過ごしました。

 

オリンピックが始まり、マラソンランナーは全員出発地点の「マラトン」に運ばれます。

マラトンはその名の通り“マラソン”の発祥の地です。

 

前日の夜をギリシャの外務大臣の邸宅で過ごしたあと、5月1日午後3時5分にレースがスタートしました。

マラソンコースは1896年と同様にタフなコースです。

 

距離は測定された結果、41.86 km。

気温は27度と高く、マラソンには危険な温度でしたが体制と準備は完璧でした。

 

パリやセントルイスの“疑惑マラソン”の不備な警護体制が反省されたのでしょうか。

選手は1マイル間隔に5人の兵士によって守られ、急救、介護士、軍の外科医、担架によって救急体制が整えられています。

 

最初オーストラリアと米国の二人の選手が先頭を走ります。

しかし25キロ地点でカナダのシェリングが2人を抜き去り、そのまま独走しました。

 

ギリシャの人たちは1896年のアテネオリンピックでギリシャ人ルイスが優勝したときの感激を思い出して、自国選手が競技場に走り込んでくることを期待していました。

ゴールの競技場に見知らぬカナダのシェリングが現れたとき、観衆の落胆振りは明らかでした。

 

拍手の少ない中、1人の若者がシェリングを歓迎して競技場の入り口まで出迎えたのです。

若者はシェリングと併走して場内を1周、ゴールに向かいます。

 

彼はギリシャの王ゲオルギオスの息子、プリンスギオルグでした。

プリンスはかつての第1回アテネオリンピックでギリシャのルイスが優勝したときにも、競技場の中をルイスと併走して走っています。

 

しかし今回は地元の選手ではなくて、カナダの選手に併走したのです。

シェリングはゴールしたあと、シューズを脱いで感謝の気持ちと共にプリンスの手に渡しました。

 

プリンスは喜んで記念の品物を受け取り、観衆に向かってシューズを高く掲げて、頭上で大きく振ります。

2人の友情に感激した観衆は大きな拍手を送りました。

 

圧倒的な強さで優勝したシェリングには、国王ゲオルギオス1世から報償として、生きた子羊と女神アテネの彫像が送られます。

名誉を獲得したとはいえ、当時の報償は渡航費にはほど遠いものでした。

 

無事カナダに凱旋した彼には、生誕地のハミルトン市から5000ドルが贈られ、トロント市は400ドルを贈りました。

シェリングは間もなく現役を退き、ハミルトン市は彼の功績を称えて「ビリー・シェリング公園」を造っています。

「中間年のオリンピック」アテネオリンピックは公式記録から削除され「幻のオリンピック」とされた?

 

第2回アテネオリンピックは、1906年にセントルイス大会とロンドン大会の中間年に開催されました。

いわゆる「中間年オリンピック」としてIOC国際オリンピック委員会の公式オリンピックとして認められた上で、開催されているのです。

 

このときの開会式でゲオルギオス自らが開会宣言をしています。

第1回アテネに続いて2度目の開会宣言です。

 

ギリシャ国王として、さぞ誇らしかったことでしょうね。

余談になりますが、歴史上オリンピックで開会宣言を2度行っているのは3人だけです。

 

1人は1936年の夏と冬のドイツ大会で開会を宣言したアドルフ・ヒトラーです。

このころは夏期と冬期のオリンピックは同じ場所で同じ年に行われました。

 

2人目は1976年のカナダのモントリオール大会でカナダの女王として、また、2012年ロンドン大会ではイギリス女王として宣言したエリザベス2世です。

3人目は1964年東京オリンピックと、1972年札幌の冬期オリンピックで開会を宣言した日本の昭和天皇です。

 

ゲオルギオス1世はアテネ・オリンピックと共に生きた人物でした。

その後、中間年オリンピックがアテネで開催されることはありませんでした。

 

理由としては、ギリシャの財政が好転しなかったことと・・・

ゲオルギオス1世が、1913年3月18日、第1次バルカン戦争中にオスマン帝国から奪還したテッサロニキを訪問した際に暗殺されたことによります。

 

ゲオルギオスは気さくな人柄で、政情不安のテッサロニキを訪問したときも町中で無防備だったとされています。

ゲオルギオスは凶弾に倒れ、68才で世を去りました。

 

そして1950年にIOCはアテネの中間年大会の記録を公式記録から削除しました。

 

削除の理由は「4年に1度開催される」というオリンピック・ルールに抵触するからと言う理由でした。

しかし1950年という年は開催から44年も経っているのです。

 

およそ半世紀後になぜ削除したのか、腑に落ちない話です。

第2回アテネオリンピックは、開催内容にも問題があったからだ、と言う見方がありますが、果たしてどうでしょう。

 

開催内容の目安として、アテネ大会を参加国数(地域)、参加人数、競技種目数の三項目で前後のオリンピックと比較してみました。    

 

    セントルイス   アテネ    ロンドン

開催年度    1904        1906         1908

参加国             13            20              22

参加人数    689            903           2035

競技   16種目(89競技) 13(78)   22(110)

 

参加国数ではアテネはロンドンと拮抗しています。

参加人数はアテネはセントルイスから5割増えて、ロンドンではアテネの倍増です。

セントルイスに比べてアテネは競技数が減っていますが、ボクシング、アーチェリー、ゴルフ、ラクロスで、逆に射撃が増えています。

 

ざっくり見たところ、素人感覚ではセントルイスと遜色ない内容に見えます。

アテネの中間年オリンピックは内容がなかったと言う話は論拠に乏しい気がします。

 

4年に1度のオリンピック開催という原点に戻り、公式記録から削除されたのでしょうか?

それ以降、ゲオルギオス1世が執念で開催した1906年アテネオリンピックは「幻のオリンピック」として語り継がれているのです。

 

(おわり)

【参照:JOC公式サイト、ウイキペデイア他】

 

(記事は無断転載を禁じています)

 

 

競泳はセーヌ川! マラソンは炎天下! 1900年パリ五輪は万博の付録だった?

1900年、日本では鹿鳴館が華やかにその姿を現した明治33年、パリでは万国博覧会が開催されていました。

エッフェル塔が建てられ、街には地下鉄が走り、4700万人の人々がパリに詰めかけます。

その年、パリではなんと第二回近代オリンピックが万博と同時に開催されていたのです。

 

パリかアテネか? オリンピック開催地を巡るクーベルタンとギリシャ王たちの争い!

 

第一回近代オリンピックは、1896年にアテネで行われ、厳しい財政の中にもかかわらず大成功を収め、ギリシャは大きな名声を勝ち取りました。

ギリシャの王ゲオルギオス一世はオリンピックは自分たちの国技であり、永遠にギリシャのアテネで行われるべきであると主張します。

 

しかし、IOCは、開かれた近代オリンピックは毎年異なる場所で行うべきであると宣言して、ギリシャの猛反対にもかかわらず第2回大会をパリで開催することを決めました。

オリンピックの提唱者であったクーベルタン男爵は、オリンピックは平和の精神に基づき、世界に開かれたスポーツであるべきだという理念の持ち主でした。オリンピックは世界のすべての国が順番に開催するべきものであると。

 

(クーベルタン男爵)

もともと、フランス人であったクーベルタン男爵は、第一回近代オリンピックを自国のフランス・パリで開催したいという考えを持っていたといわれています。

 

クーベルタンは1894年にパリで行われた万国博覧会のとき、欧米各国のスポーツ関係者を集めた国際会議を開いて、第一回近代オリンピックをパリで開催する構想を提案します。

これに反対したのが後にIOC国際オリンピック委員会の初代会長となったディミトリウス・ヴィケラスというギリシャの財界人です。

 

彼は第一回近代オリンピックはオリンピック発祥の地であるギリシャで開催するべきであるという意見の持ち主でした。

会議では討議が続きますが、ヴィケラスの説得により、第一回オリンピックはギリシャのアテネで二年後の1896年に開かれることになり、彼は発足したIOCの初代会長に就任します。

 

IOC会長は次期開催地から選ばれるべきであるという考えに基づくものでした。

第一回近代オリンピックがアテネで無事終了しますと、クーベルタン男爵は、さっそく第二回近代オリンピックをパリで開催するための準備を開始します。

 

アテネ大会が終わるや否や、彼はIOCの2代目の会長に就任しました。

もともとオリンピックの提唱者であるクーベルタン男爵がIOC会長に就任することで、次回の開催をフランスのパリで行うことを決定的にしたのです。

 

IOC初代会長:デイミトリウス・ヴィケラス 

       ギリシャ 1894~1896

IOC第二代会長:ピエール・ド・クーベルタン男爵

       フランス 1896~1925

 

アテネ・オリンピック開催の年、1896年に会長が入れ替わりました。

オリンピックが終了した年の年内に、早くもクーベルタン男爵が次の会長に就任しているのです。

一方、資金集めに奔走して、第一回アテネ・オリンピックを成功に導いたギリシャの王ゲオルギオス一世は、オリンピックは古代オリンピックが行われたギリシャ固有のものであり、永遠にギリシャで開催されるべきであると主張していました。

 

見解も利害も対立するクーベルタン男爵とゲオルギオス一世の間には、第二回開催地を巡って激しい確執があったと思われます。

ギリシャの王の強い反対にもかかわらず、第二回近代オリンピックは、クーベルタンの生まれ故郷、フランスのパリで1900年に開催されることになりました。

 

ところが驚いたことに、パリでは1900年に国際博覧会(万博)を開催する計画が進んでいたのです。

万博と、オリンピックという二つの世界規模のイベントが同じ年に同じ街で計画されたことになります。

 

現在ではとても考えられないことです。

じつは、博覧会の歴史は近代オリンピックよりも相当古く、パリだけでもそれまでに四回の国際博が実施されていました。

 

そのうえ、1900年は19世紀最後の年であり、国際博覧会としても新しい世紀へとつなぐ重要な役割を持っていたのです。

パリでは、世紀の変わり目にあたり、フランスの芸術性を表現したコンセプトをベースに、史上最大規模の博覧会が計画されていました。

 

その結果、万博と五輪はそれぞれ独立したプロジェクトとして運営されるのではなく、オリンピックは「万国博の付属国際競技大会」として実施されることになったのです。

 

近代オリンピックは、まだまだスタートしたばかりの黎明期にあたり、国際博覧会に付属した競技大会として併催されました。

その運営はたいへんな混乱の中で行われることになります。

パリは大混乱/オリンピックの水泳はセーヌ川で行われた!

さて、1900年パリ万博は4月14日から11月12日まで半年以上にわたって行われ、4800万人という博覧会史上最多の来場者をパリに集めました。

万博会場はエッフェル塔がそびえるパリの中心部、セーヌ川を挟んだ二つのエリアで開催されています。

エッフェル塔、セーヌ川を含む万博会場のパノラマ図

(ウイキペデイアより)

 

一方、併催されたオリンピックは5月20日に開会式が行われ、10月28日に閉会式が行われました。

パリオリンピックは5ヶ月という長期にわたって、混雑を極めたパリ万博と共に実施されているのです。

 

競技数が増え、参加国が増えた現在でも夏季オリンピックの競技はコンパクトに16日以内で行うことになっています。

開催が5ヶ月間に分散していたパリでは、競技の運営は大変困難で、現場は混乱を極めたようです。

 

ところで、水泳競技はパリのどこで行われたと思いますか?

アテネオリンピックの水泳競技は、港町ピレウスのゼーアという湾で行われましたが、パリには海はないのでパリの街中を流れるセーヌ川で実施されました。

 

自由形は三種目に増え、200m、1000m、4000m それに200m背泳ぎなどが加わっています。

アテネでは自由形は平泳ぎがメインでしたが、パリでは背泳ぎが自由型から分離されています。

 

平泳ぎを裏返して始まった新しい泳法の背泳ぎは、平泳ぎよりスピードが出るので、自由形から分離して、別の競技にしたのです。

自由形が形にとらわれないで、スピードを競うのであれば、逆に平泳ぎを分離して独立するべきだと思われますが・・。

 

競泳の関係者は、伝統ある平泳ぎをメインの泳法として大事にしたくて、自由形に残したのだといわれています。

ところでパリを流れるセーヌ川は、ヨーロッパの上流から水を集めて、ゆったり流れる大河です。

 

大会の関係者は大河の中にどんなコースを作ったのでしょうか?

 

フレデリック・レーン200m自由形、200m障害優勝(ウイキペデイア)

この写真の水泳選手は200m自由形に優勝したオーストラリアのフレデリック・レーンです。

レース直後か直前の写真と思われますが、となりの男がフレデリックの肩に手をかけて、優勝を祝福しているようにも見えます。

 

フレデリックは自信たっぷりの様子です。

ウイキペデイアによれば、レースはセーヌ川の川上から川下に向かって行われたと伝えています。

陸上競技では「追い風3m」とかいいますが、追い風が強いと、公式記録としては認められません。

 

セーヌ川では追い風どころが、水そのものが動いているのですから、とんでもなく早い記録が出たようです。

これでは参考記録にもならなかったでしょう。

 

日本の逸話に「河童の川流れ」という言葉があります。

いくら泳ぎが上手な河童でも、「速い流れの川では流されてしまうので気をつけろ」という警句です。

 

セーヌ川は落差が少なくて、流れもゆったりしているように見えますが、水量も多くて選手は大変だったことでしょう。

 

ところで、写真のフレデリックは200m障害にも優勝したと記録されていますので「水泳選手が陸上の障害レースにも出場したのか?」と驚いて調べたら、全くの勘違いでした。

 

水泳競技になんと、障害レースが新設されていたのです。

セーヌ川の中にどんな障害物を設けたのでしょう?

 

このとき、セーヌ川の両岸の万博会場を結んで、アレキサンドル三世橋が記念に架けられた(前掲のパノラマ写真に工事中の橋の写真が写っています)ということですから、新しい橋桁のまわりを泳いで何周もしたのでしょうか。

どうやらそうではなくて、セーヌ川に浮かぶものは何でも障害物にしたのです。

 

浮かんでいるボートや、水面に突き出しているポール、それに小さな船、何でも障害物だったとされています。

 

パリの次に行われた米国セントルイス・オリンピックの競泳記録を調べてみましたが、障害レースの記録はありません。

 

競泳の障害レースは一体どんな目的で設けられたのでしょうか?

おそらく観客を喜ばすためのショー・イベントだったと思われます。

 

パリ・オリンピックでは、これ以外にもオリンピック史上一度きりで終わった種目がいっぱいあります。

 

面白い競技としては、「綱引き」があります。

綱引きはスポーツ種目として許容範囲内でしょうが・・「凧揚げ」に「魚釣り」まで実施したと記録に残っています。

 

古代ギリシャのオリンピック選手が、もしもパリにやって来て、オリンピック選手が凧揚げや魚釣りをしているのを見たら、大笑いしたことでしょう。

 

鳩を打ち落とす射撃競技から伝書鳩競技、熱気球の競争まで行われました。

 

日経BPの記事で、国際オリンピック史学会の元会長ビル・ロマン氏の言葉を紹介しています。 

「1990年のパリ・オリンピックは空前絶後の数の公開競技が実施されたがその好例が熱気球レースである。あまりにも多くのイベントが開催され、どれがオリンピック種目か判断できないほどだった」と。

 

 

万博のイベントなのか、オリンピック競技なのか、観客にも区別がつかなかったのです。

まるでパリの夏祭りじゃありませんか?

 

オリンピックが万博の共催イベントとして方々で分散して開催されたために、IOCやクーベルタン男爵(IOC会長)のコントロールも陸上競技で精一杯で、そのほかの競技までは行き届かなかったのでしょう。

 

水泳競技に話を戻しますと、オリンピックの歴史上、いつ頃から競泳が海や川ではなくて、正式の競技プールで行われるようになったのでしょうか。

1904年の第三回オリンピックはセントルイスで行われましたが、水泳競技は人造湖が会場だったと記されています。

 

第四回ロンドンオリンピックではじめて競泳用のプールが作られていました。

なんと、陸上競技場のフィールドに100mプールが設けられたのです。

観客は陸上と水泳の両方の競技を一度に見ることができたのですね。

 

このとき、競泳の自由形では、平泳ぎではなくて、クロールがメインな泳法になっています。

自由形は高速泳法のクロールの時代に移り、平泳ぎは独立した種目として別立てにされました。

 

オリンピックの水泳会場は・・アテネの海から、セーヌ川、セントルイスの人造湖、ロンドンの競泳用のプール・・と、新しい泳法の出現と共にその形を変えていったのです。

 

話を戻して1900年のパリでは、万博で混雑する中、陸上の花形・マラソンはどのように行われたのでしょうか?

マラソンは炎天下のパリで行われ、脱落選手が続出した!

マラソンは1900年の夏、7月19日午後の2時半にスタートして、選手はパリ市街の40.26kmのコースを走りました。

 

その時の様子が「The Sankei News」のサイトに出ていました。

記事によれば、科学誌「ジャーナル・オブ・スポーツサイエンス」のデータを元にして過去のオリンピック・マラソンを調べた結果、1990年のパリオリンピックが、五輪史上もっとも過酷なレ-スだったと結論づけています。

 

その日、気温は35~39度まで上がり、半数を超える選手が体力を使い果たして、途中で棄権しています。

優勝はミッシェル・テアトというフランスの選手で、記録は2時間59分45秒でした。

 

彼はパリのパン職人で、パリの裏通りをよく知っていて、途中で近道をしたのではないかと、一部の選手からクレームがついたそうです。

それにしても、選手がコースから外れたら、沿道の観客や警備員から注意される筈ですよね。

 

ということは、このときのマラソンは、沿道にロープが張られたり、観客が整然と応援していたりと言った風景はなかったということになります。

沿道に観客はいなかったのでしょうか?

 

マラソン選手がコースを走っている一枚のピンぼけ写真が見つかりました。

1900年パリ・マラソンと書いてあります。

 

これは先頭集団でしょうか?

 

選手三人を囲んで、観客?が自転車で走っています。

右後ろの自転車には、関係者を示す腕章らしいものを付けた男がいます。

 

これだけ自転車に囲まれていては、選手はとても走りにくそうです。

コース管理が行き届いていたとはとても思えません。

 

三人の先頭を走る縞模様のシャツの男は、優勝したミッシェル・テアトでしょうか?

優勝したテアトの写真では彼は縞模様のシャツを着ています。

 

こちらもピンぼけ写真なので、同一人物かどうか判別できません。

いずれにしてもテアトのマラソン記録は公式記録として現在も認められているのです。

 

スですから、もともとコースの管理がたいへんです。

そのうえ、万博との併催でしたから、競技の管理も混乱を来したのでしょう。

 

ゲオルギオスの執念/アテネに再びオリンピックを!

ヨーロッパのパリを離れて、アメリカ大陸に渡ったオリンピックは、セントルイスから再びヨーロッパに戻り、英国のロンドンで第三回大会が開催されることになりました。

 

IOC国際オリンピック委員会はクーベルタン男爵の提唱の元に、1894年の会議で「オリンピックは世界の国が持ち回りで開催し、四年に一度行われるものとする」ことに決めていました。

オリンピックがオリンピック発祥の地、アテネに戻る気配はありませんでした。

 

その頃、アテネでは、ギリシャ経済の復興に力を入れたギリシャの王ギオルギオス一世が、かっての執念を燃やし続けていました。

(ゲオルギオス一世)

「オリンピックはギリシャ固有の祭典であり、永遠にアテネで開催されべきである」と主張していたのです。

ギリシャの王ゲオルギオスは、一計を案じます。

 

四年に一度、持ち回りで行う世界に開かれたオリンピックなら、その真ん中の年には原点に戻り、オリンピックの発祥の地ギリシャのアテネで開催されるべきである、と世界に訴えたのです。

もちろん冬のオリンピックではなくて、夏期オリンピックのことです。

 

そしてこの訴えは1906年に「幻のオリンピック」としてアテネで実現されることになります。

 

   (続く)

 

アテネで行われた第一回近代オリンピックについては、下記の記事をご覧ください。

マラソン優勝賞品はロバ一頭/水泳は海の中/第一回 近代オリンピックは貧乏だった!

 

マラソン優勝賞品はロバ一頭/水泳は海の中/第一回 近代オリンピックは貧乏だった!

今朝、一枚の古い写真がデスクの奥から出てきました。

数年前にハリウッドの映画会社からいただいた秘蔵写真の中の一枚です。

 

三人の男性が人気の無い、でこぼこの山道を走っています。

裏には英語でアテネ・オリンピック・マラソンと書いてあります。

 

怪しげな白黒のピンぼけ写真の正体をどうしても知りたくなって、一日かけて調べてみました。

マラソン賞品はロバ一頭・貧乏オリンピックの始まり

上の写真を見てください。

三人の男性が人気のない、でこぼこの山道を走って来ます。

 

後方から追いかけてくる数人の姿が小さく見えます。

震災でもあって逃げているのでしょうか。

 

それにしてもみすぼらしいファッションです。

身につけているのは普段の仕事着のようです。

 

よく見ると、足元は履き古して、つぶれたシューズです。

沿道に人影はなく、後方には小高い丘が続いています。

 

ここはどこで、彼らは一体何者なのでしょうか?

ネットで調べて、ついに発見しました。

 

JOCの公式サイトやウイキペデイアに同じ写真が小さく載っているのを見つけました。

この写真は1896年第一回近代オリンピックでマラソンを走る選手を撮影したものでした。

 

場所はギリシャのアテネの近くです。

JOC日本オリンピック委員会の公式サイトによれば、このときのマラソン競技は、出発点の「マラトン」からパンアテナイ競技場までの約40キロのコースを、25人の選手が走ったとされています。

 

フランスの教育家クーベルタンが提唱して、古代オリンピック(オリュンピア競技会)の故郷ギリシャで復活した、記念すべきオリンピック大会なのに、マラソンに出場したのはわずか25人でした。

(さらに少ない15人だったという異説もあります)

 

古代ギリシャの有名な逸話に基づいて創設されたマラソン競技がわずか25人で争われたとは、なんだかのんびりした話です。

マラソンには地元アテネの市民から、ギリシャの選手に大きな期待が寄せられていました。

 

というのも資金集めに苦労して、ようやくできあがった新しい競技場で、地元の観客を集めて行われた陸上競技では、アメリカの選手が11種目の中9種目で優勝して、肝心の地元ギリシャの選手は優勝することができなかったからです。

 

陸上競技の最後を飾るマラソンは、出場選手25人のうち半数以上が地元ギリシャの選手でした。

当然ギリシャ選手に大きな期待がかけられましたが、残念なことに、レースが始まるとコースの途中まで先頭はギリシャ以外の国の選手でした。

 

しかしレースの途中から外国選手は次々と脱落していきます。

そして残り7キロの地点でギリシャのスピリドン・ルイスという選手がトップにおどり出たのです。

 

ルイスは地元の大声援の中、パンアナテイ競技場に走り込み、優勝を果たします。

ギリシャ人として、マラソン競技初の金メダリストとして歴史にその名を刻んだのです。

 

・・実は財政難のため金メダルはなくて、優勝は銀メダル、二位が銅メダル、三位は表彰状だけだったといわれています。

 

JOCの公式サイトの写真を見ますと、ルイスはひげを生やしています。

ところが先ほどの写真をみても、三人の選手の中にひげを生やした男はいません。

 

三人の集団には二位に入ったギリシャのハリラオス・バシラコスという選手の名前が挙がっていますが、優勝したルイスの名前はありません。

この写真がトップ集団を撮したものだとしますと、ルイスは相当後ろに見える集団から追い上げて、大逆転で優勝を果たしたことになります。

 

ところで、ルイスはレース途中で沿道の旅籠?で、一休みをしたそうですよ。

ルイスは旅籠から差し出されたチーズを食べ、ワインまで飲んでいます。

 

ギリシャではワインは水代わりですから、すこしくらい飲んでも、どうってことなかったのでしょうね。

もしかすると、先頭の海外の選手はギリシャの市民から上手にワインを飲まされて、酔っ払ったあげくにレースから脱落したのかもしれません。

 

レースの記録は一位のルイスが2時間58分50秒、二位のバシラコスが3時間6分3秒と、あたりまえですがオリンピック新記録でした。

ワインまで飲んで、超難所と言われたでこぼこの山道を3時間前後で走ったのですから、立派な記録です。

 

ルイスが競技場に入ってくるとギリシャの王ゲオルギオス一世は大喜びして、ルイスの功績を称えました。

ゲオルギオスはルイスに褒美として何が欲しいかと聞いたところ・・・羊飼いの仕事をしていたルイスは「ロバを一頭・・水を運ぶ助けにいたします」と答えたとされています。

 

褒美に「荷馬車をもらった」という説もあります。

ロバと荷馬車の両方を褒美としてもらったとしたら、ルイスの水運びの仕事はとても楽になったでしょうね。

 

どちらにしても記念すべきオリンピック大会としては、驚くほどささやかな賞です。

でもなんとも平和で、ほほえましくて、良いお話じゃありませんか?

 

英雄になったルイスは、他にもギリシャ中からいろいろなプレゼントを贈られたと言われています。

ウィキペデイアによれば貴金属といった高価なものから、一生無料で髭をそってもらえる床屋からの特別優待券まであったそうです。

 

ほっこりする話です。

今なら、日本選手が地元で開催されるオリンピック・マラソンに優勝したら、一億円を超える報奨金が出るかもしれません。

 

近代オリンピックのスタートは、古代ギリシャの有名なエピソードから作られたマラソン競技でさえ、選手はこんな貧乏な服装で走って、王様からの優勝の報償はロバ一頭とか荷車一台だったということです。

 

第一回近代マラソンは貧乏マラソンだったのです。

フランスのクーベルタン男爵の提唱で実現した近代オリンピック、その開催地ギリシャは、当時、政府の財政が火の車でした。

 

ギリシャの王、ゲオルギオス一世の後援と世界の有力者から寄付を集めて、なんとか新しい競技場が新設され、大会はスタートしますが、目標のお金が集まらずに関係者は大変な苦労をしたのです。

 

陸上競技の華、マラソンがでこぼこ道の山道を走ったのなら、もう一つの花形競技、水泳の方はどうだったのでしょうか?

そもそも、第一回近代オリンピックで水泳競技は行われていたのでしょうか?

 

なんだか心配になってきて、詳しく調べてみました。

アテネ・オリンピックにプールはなかった!水泳競技は海の中だった。

調べてみて驚きました。

水泳競技は海の中で行われていたのです。

 

トライアスロンは海の中の水泳から始まりますが、競泳競技はプールに決まってます。

実はその頃、プールなんていう贅沢な施設はどこにもなかったのです。

 

古代ギリシャのオリンピックでは水泳競技はなかったのですが、水泳そのものは盛んで、川の中で水泳の訓練なども行われていました。

近代オリンピックではじめて水泳が競技として設けられたのです。

 

競泳コースはアテネの港町ピレウスのゼーアという湾の中に作られたものでした。

公式の記録として、小さな古い白黒のピンぼけ写真が一枚残っていますが、海の中に桟橋のようなものが写っています。

 

レースのためのコースの枠組みか、ゴール地点として作られたのではないかと推測されます。

レースの記録も残っていますので、桟橋の上に審判員や記録係がいたのでしょう。

 

レースは、自由形100m、500m、 1200m、水兵による100mの4競技でした。

多分仕切られた海の上を何回か往復して、スピードを競ったのでしょう。

 

競泳が行われた1896年4月11日の海水の温度は摂氏12度、波の高さは4mだったという記録が残されています。

マラソンには最適の季節だったでしょうが、水泳には厳しい季節で、海水は冷水でした。

 

一度12度のお風呂に浸かってみてください。

おちんちんも縮み上がりますよ。

(オリンピックは古代も近代アテネも選手はまだ男性に限られていました)

 

そのうえ4mという荒波を乗り越えて、戦ったのです。

マラソンではワインを飲んで、つまみにチーズまで食べながら、優雅に走ったのですから、天国と地獄、雲泥の差です。

 

一体どんな選手が泳いだのでしょうか。

競泳は4レースとも自由形とされています。

 

自由形とはなんでしょう。

平泳ぎでしょうか、背泳ぎでしょうか、バタフライでしょうか、クロールでしょうか?

 

実は、あの頃、人間の泳法は動物の犬かきに似た平泳ぎだけだったのです。

 

人間の泳ぎは動物が犬かきで泳ぐのを見習って始めたとされています。

犬かきは両手を交互に前後して、水面下で推進力を得ます。

 

平泳ぎは両手を同時に身体の側面で前後して推進力を得ます。

足はカエルのように水を挟みます。

 

昔はカエル泳ぎと言っていました。

平泳ぎは犬かきより効率的なのです。

 

平泳ぎは人間にしかできない技なのですよ。

わんちゃんやニャンコも、牛も象も皆犬かきです。

 

平泳ぎではありません。

どうしてでしょう?

 

試しに、お宅のわんちゃんの前足(人間の手にあたります)を側面に曲げてみてください。

飼い主といえども、そんなことをしたらワンコに噛みつかれますよ。

 

動物は、4本とも足であるので、前足も関節の都合上、横には動きません。

前足(手)を横に動かせるのは人間とお猿さんぐらいです。

 

だから動物は川や池や海で泳ぐとき、平泳ぎではなくて、犬かきをします。

筆者の父は、元・大阪の天王寺動物園長でしたから、その血を引いている私の見解は正しいのです。

 

ということで当時の自由形は全員が平泳ぎでした。

海がこれだけの波の高さと低温では、顔を水につけるクロールがまだなくて、顔を水につけないで泳げる平泳ぎだけだったので、選手に取っては都合がよかったのかもしれません。

 

厳しい自然の中で生活する動物が顔を水につけない犬かき専門なのにも、それだけの理由があるのです。

ところで、そんな厳しいレースを勝ち抜いたのはどこの国の選手だったのでしょうか?

 

競技には4カ国から19人の精鋭が参加して争われました。

厳しい条件の中で、100m と1200m、自由形の両方で優勝した選手が現れました。

 

地元ギリシャではなくて、ハンガリー・ブタペスト生まれ、18才のハヨーシュ・アルフレッドという選手です。

ウイキペデイアに彼のエピソードが詳しく紹介されていました。

 

アテネ水泳100m1200m優勝    ハヨーシュ・アルフレッド

 

彼が13才のときに父親がドナウ川で水に溺れて亡くなりました。

失意の彼は、水泳を覚えて一流の競技者になろうと決心します。

 

その時名前を元のアルノルトからハヨーシュに改名しますが、ハヨーシュとはハンガリー語で「船乗り」を意味します。

そしてハヨーシュは夢を実現したのです。

 

アテネで二つの金メダル(事実は銀メダル)を手に入れたハヨーシュは勝利の晩餐会で、ギリシャの王太子コンスタンティノスから・・

「君はその素晴らしい泳ぎをどこで学んだのか?」と聞かれ・・

 

「水の中でございます」と答えます。

このときから、ハヨーシュのあだ名は「ハンガリーのイルカ」となったのだそうですよ。

 

ハヨーシュはブタペストの大学で建築を学んでいましたが、大学に戻ったとき学部長は「私はあなたのメダルになんの興味も無いが、次の試験についての返答を聞きたい」と言ったそうです。

 

その言葉を弾みにしたのか、彼はパリで行われた第二回近代オリンピックの芸術競技にコンペ参加をして、スタジアムの建築プランで事実上の優勝を果たします。

 

そのあとハヨーシュがデザインした水泳競技場がブタペストに1930年に建てられ、ハヨーシュ記念競技場として、現在も大きな大会で使われています。

 

ハヨーシュは水泳と建築という二つの人生のフィールドを、見事にまとめ上げた天才なのでした。

 

マラソンの初代オリンピックチャンピオン、スピリドン・ルイスは1940年3月26日に67才でその生涯を閉じ・・

また、水泳競技の初代チャンピオン、ハヨーシュ・アルフレッドは1955年11月12日に77才で亡くなっています。

 

二人の名前とそのエピソードは、オリンピックの歴史と共に永遠に語り継がれていくことでしょう。