開催から45年後になって五輪の公式記録から削除された“幻のオリンピック”があったことをあなたは知っていますか?
その答えは1906年ギリシャのアテネで開かれた“中間年オリンピック”です。
1904年のセントルイスオリンピック、1908年のロンドンオリンピックのちょうど中間の年である1906年に、アテネでオリンピックが開催されています。
オリンピックは4年に1度開催されるはずなのにどうしたことでしょうか?
消し去られた記録“中間年オリンピック”誕生の秘密を調べてみました。
目次
“中間年オリンピック”誕生のいきさつとは?
中間年という中途半端な年に五輪の開催を実現した人物はギリシャの王ゲオルギオス1世です。
ゲオルギオス1世はオリンピックの提唱者クーベルタン男爵と共に、古代オリンピックを近代オリンピックとして1896年にアテネで蘇らせた人物の一人です。
ゲオルギオス1世は「オリンピックはギリシャ固有の伝統であり、ギリシャを離れて行われるべきものではない」という強い信念を持っていました。
ところが、ギリシャ王の要請にもかかわらず、第2回オリンピックはアテネを離れ、1900年にクーベルタン男爵の故郷・フランスのパリで万博の付属競技大会として開かれます。
その後、アメリカ大陸に渡った第3回オリンピックは1904年にセントルイスで開催され、さらに1908年の第4回大会はヨーロッパに戻りますが、アテネではなく英国のロンドンで開催されることが決まりました。
オリンピックがオリンピック発祥の地、アテネに戻る気配はまるでなかったのです。
IOC国際オリンピック委員会はクーベルタン男爵の提唱の元に、「オリンピックは世界の国が持ち回りで開催し、4年に1度行われるものとする」というルールを決めていました。
一方、アテネではギリシャの王ゲオルギオス1世が執念を燃やし続けています。
“オリンピックはギリシャ固有の祭典であり、永遠にアテネで開催されべきである”と。
ゲオルギオスは、IOCの決定に対して一計を案じます。
・・・4年に1度、持ち回りで行う世界に開かれたオリンピックなら、その真ん中の年には原点に戻り、オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで開催されるべきである・・・
と世界に訴えたのです。
「中間年のオリンピック」と呼ばれたゲオルギオスの訴えは、1904年セントルイス大会と1908年ロンドン大会の中間の年、1906年にアテネで実現することになります。
近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンの見解に反対して、オリンピックを毎回アテネで行うことに執着したギリシャの王、ゲオルギオス1世とはいったいどのような人物だったのでしょうか?
オリンピックのアテネ開催に執念を燃やし続けたゲオルギオス1世とは、どんな人物?
彼は1845年12月24日にデンマークのコペンハーゲンでデンマークの王クリスチャン9世の次男として生まれています。
生家グリュックスブルク家はデンマーク王国とノルウエー王国を束ねた王家でした。
彼の兄フレゼリク8世は父親の後を継いでデンマークの国王になっていますから、次男の彼はギリシャの国王として養子に出されたことになりますね。
当時のヨーロッパは各国の王侯貴族がお互いに親戚関係にありましたから、こんなことは珍しくもなんともなかったのです。
彼のフルネームを紹介します。
「クリステイアノス・グリエルモス・フェルデイナノス・アドルフォス・ゲオルギオス」
伝統のあるヨーロッパ貴族の名前は、両親や祖先の名前、出身地などを加えていって、このようにとても長いフルネームになるのです。
当時のヨーロッパでは王室間の婚姻は広く行われていて、ゲオルギオスは17才の若さでギリシャの王として迎えられることになります。
その頃、ギリシャは長年にわたって征服されていたオスマン帝国からの独立を、欧州列強(イギリス、フランス、ロシア、オーストリアなど)の支援の元に果たしていました。
そして、欧州列強は相談の結果、オスマン帝国に長年征服されて疲弊したギリシャが立ち直るには、当面君主制が適当であるという結論を下したのです。
ギリシャはすでに君主としてドイツの貴族オソン一世を初代国王に迎えていました。
ところがギリシャの初代王として赴任したオソンは、経済政策で大失敗をしてしまいました。
彼はオスマン帝国以上の重税を国民にかけたのです。
そのうえ、ギリシャの習慣や風習に無頓着なオソン王はギリシャ正教に改宗することをせず、ドイツ人の女性とギリシャ国外で結婚式を挙げる有様でした。
ギリシャ国民の反発を招いた結果として、1854年、2度目のクーデターが起こり、身の危険を感じた国王夫妻は英国の艦艇でギリシャからバイエルンに逃げ帰ることになります。
そして1863年、ギリシャ議会は初代国王オソン1世の廃位を決め、ゲオルギオスの国王即位を可決しました。
新しくギリシャ国王として迎えられたゲオルギオスの若い肩には、政治改革と経済の復興という大きな課題が乗っていたのでした。
(若いときのゲオルギオス1世)
ところで、ゲオルギオスは英語読みで「ジョージ」です。
「ゲオルギオス」と読むと、とても近寄りがたい雰囲気ですが、「ジョージ1世」というと、俄然、親しみやすい印象になります。
上の写真は当時のゲオルギオス1世です。
いかにも若々しくて、気品に溢れて見えます。
ゲオルギオスは“ギリシャの国民に自ら歩み寄って、気さくに付き合った”と言われています。
オソン王の失敗から教訓を学んだ彼は、まずギリシャ語を覚え、ギリシャ聖教に帰依しました。
次に懸案であった憲法を制定して新しいギリシャ政治の土台を作り上げます。
1院制議会制による立憲君主制国家であることを内外に宣言したのです。
このとき制定された選挙制度は当時のヨーロッパでは相当進歩的なもので、ゲオルギオス国王は開かれた王室として国民と共に歩む姿勢を示したのです。
そして疲弊した経済を農政改革によって主導し、近代化を図ります。
月日はたち、1894年、万博が開催されていたパリで「古代オリンピックを復活して、新しい世界のオリンピックを作り上げる」という案がフランスのクーベルタン男爵から、各国のスポーツ界代表を集めた会議で提議されました。
提案は満場一致で認められ、第1回近代オリンピック大会を2年後の1896年にギリシャのアテネで開催することが決定されます。
ギリシャのアテネで計画された第1回近代オリンピックの誕生に際して、最大の課題は資金集めでした。
当時、できあがったばかりのIOC国際オリンピック委員会は欧米主要国12カ国からスポーツ界の有志14名を初代委員として構成しています。
IOCは現在のような各国単位の支部組織を持たなかったこともあって、各国からの資金集めは大変難しいことでした。
あたりまえの話ですが、スポンサーシップとか、オリジナルグッズとか、テレビの放送権といった資金集めのためのマーケティング手法はまだ存在しません。
資金集めはもっぱら、個人からの寄付に頼っていたのです。
このころ、国際社会でのギリシャの地位を復活させることに腐心していたゲオルギオスにとつて、近代オリンピックをアテネで開催し成功に導くことはギリシャ国王として至上の命題であると思ったのに違いありません。
ギリシャの王としてゲオルギオス1世は財政面での協力を惜しまずに行いました。
彼はヨーロッパ各国の王室とのネットワーク(姻戚関係)を通じて、経済界の有力者からの資金集めに奔走します。
当時、ギリシャ王国は、王の指導の下に農政を中心とした経済の回復に向かっている真っ最中で、財政の状態は悪く、オリンピックの資金集めは王の外交手腕に頼らざるを得ない状況でした。
国王自らの努力で、なんとか海外同胞からの資金が集まり、第1回近代オリンピックは無事開催の日を迎えました。
1896年4月6日・開会宣言は国王が自ら行い、オリンピック会場にファンファーレが鳴り響きます。
ゲオルギオス国王にとってその瞬間は忘れがたい感動の瞬間だったことでしょう。
ゲオルギオス1世の胸の中に、オリンピックは永遠にギリシャと共にあると言う固い信念が生まれた瞬間でした。
一方、ゲオルギオスの強い思いに反して、IOC国際オリンピック委員会は第2回大会をパリで開催したあと、第3回大会は海を越えた米国のセント・ルイス、その次は英国のロンドンで行うことに決めてしまいました。
しかし、IOCの決定に対抗して中間年オリンピックのアテネ開催を宣言したゲオルギオスの執念が、最後にはIOC国際オリンピック委員会を動かし、セントルイスとロンドンの中間年1906年にオリンピックをアテネで実現させることに成功するのでした。
それでは、中間年のアテネ・オリンピックとはどのような大会だったのでしょうか?
参加は自費/マラソンの優勝者シェリングはカナダからバイトしながらやって来た!
五輪史上はじめて、開会式典が競技と独立したイベントとして企画され、パナシナイコスタジアムで挙行されました。このとき、ゲオルギオス1世の開会宣言に続いて、各国の旗の後ろで選手が行進するというセレモニーが生まれています。
オリンピックのメイン競技、マラソンのエピソードを紹介します。
このときのマラソンの金メダリストはカナダのウイリアム・シェリングという選手で、2時間51分23秒6と言う自己ベストのタイムで走っています。
ボストンマラソンで実績のあるシェリングはカナダの代表に選ばれたのですが、渡航資金が乏しくてとてもアテネまでいけません。
当時は代表に選ばれても、資金は自分持ちだったのです。
困り切ったシェリングは、競馬に運命をかけました。
掛け率は6倍。
勝ち目は薄いが、高倍率。
これにシェリングは有り金のすべてをかけます。
シェリングは強運の持ち主でした。
なんとこの競走馬が優勝したのです。
カナダを出発したシェリングは船で2ヶ月かかってギリシャに到着。
現地に適応するために練習をしながらさらに2ヶ月間をギリシャで暮らしています。
オリンピック開催までの間シェリングはアテネの鉄道の駅でポーターをしながら練習にかかる費用や、生活費を稼いで過ごしました。
オリンピックが始まり、マラソンランナーは全員出発地点の「マラトン」に運ばれます。
マラトンはその名の通り“マラソン”の発祥の地です。
前日の夜をギリシャの外務大臣の邸宅で過ごしたあと、5月1日午後3時5分にレースがスタートしました。
マラソンコースは1896年と同様にタフなコースです。
距離は測定された結果、41.86 km。
気温は27度と高く、マラソンには危険な温度でしたが体制と準備は完璧でした。
パリやセントルイスの“疑惑マラソン”の不備な警護体制が反省されたのでしょうか。
選手は1マイル間隔に5人の兵士によって守られ、急救、介護士、軍の外科医、担架によって救急体制が整えられています。
最初オーストラリアと米国の二人の選手が先頭を走ります。
しかし25キロ地点でカナダのシェリングが2人を抜き去り、そのまま独走しました。
ギリシャの人たちは1896年のアテネオリンピックでギリシャ人ルイスが優勝したときの感激を思い出して、自国選手が競技場に走り込んでくることを期待していました。
ゴールの競技場に見知らぬカナダのシェリングが現れたとき、観衆の落胆振りは明らかでした。
拍手の少ない中、1人の若者がシェリングを歓迎して競技場の入り口まで出迎えたのです。
若者はシェリングと併走して場内を1周、ゴールに向かいます。
彼はギリシャの王ゲオルギオスの息子、プリンスギオルグでした。
プリンスはかつての第1回アテネオリンピックでギリシャのルイスが優勝したときにも、競技場の中をルイスと併走して走っています。
しかし今回は地元の選手ではなくて、カナダの選手に併走したのです。
シェリングはゴールしたあと、シューズを脱いで感謝の気持ちと共にプリンスの手に渡しました。
プリンスは喜んで記念の品物を受け取り、観衆に向かってシューズを高く掲げて、頭上で大きく振ります。
2人の友情に感激した観衆は大きな拍手を送りました。
圧倒的な強さで優勝したシェリングには、国王ゲオルギオス1世から報償として、生きた子羊と女神アテネの彫像が送られます。
名誉を獲得したとはいえ、当時の報償は渡航費にはほど遠いものでした。
無事カナダに凱旋した彼には、生誕地のハミルトン市から5000ドルが贈られ、トロント市は400ドルを贈りました。
シェリングは間もなく現役を退き、ハミルトン市は彼の功績を称えて「ビリー・シェリング公園」を造っています。
「中間年のオリンピック」アテネオリンピックは公式記録から削除され「幻のオリンピック」とされた?
第2回アテネオリンピックは、1906年にセントルイス大会とロンドン大会の中間年に開催されました。
いわゆる「中間年オリンピック」としてIOC国際オリンピック委員会の公式オリンピックとして認められた上で、開催されているのです。
このときの開会式でゲオルギオス自らが開会宣言をしています。
第1回アテネに続いて2度目の開会宣言です。
ギリシャ国王として、さぞ誇らしかったことでしょうね。
余談になりますが、歴史上オリンピックで開会宣言を2度行っているのは3人だけです。
1人は1936年の夏と冬のドイツ大会で開会を宣言したアドルフ・ヒトラーです。
このころは夏期と冬期のオリンピックは同じ場所で同じ年に行われました。
2人目は1976年のカナダのモントリオール大会でカナダの女王として、また、2012年ロンドン大会ではイギリス女王として宣言したエリザベス2世です。
3人目は1964年東京オリンピックと、1972年札幌の冬期オリンピックで開会を宣言した日本の昭和天皇です。
ゲオルギオス1世はアテネ・オリンピックと共に生きた人物でした。
その後、中間年オリンピックがアテネで開催されることはありませんでした。
理由としては、ギリシャの財政が好転しなかったことと・・・
ゲオルギオス1世が、1913年3月18日、第1次バルカン戦争中にオスマン帝国から奪還したテッサロニキを訪問した際に暗殺されたことによります。
ゲオルギオスは気さくな人柄で、政情不安のテッサロニキを訪問したときも町中で無防備だったとされています。
ゲオルギオスは凶弾に倒れ、68才で世を去りました。
そして1950年にIOCはアテネの中間年大会の記録を公式記録から削除しました。
削除の理由は「4年に1度開催される」というオリンピック・ルールに抵触するからと言う理由でした。
しかし1950年という年は開催から44年も経っているのです。
およそ半世紀後になぜ削除したのか、腑に落ちない話です。
第2回アテネオリンピックは、開催内容にも問題があったからだ、と言う見方がありますが、果たしてどうでしょう。
開催内容の目安として、アテネ大会を参加国数(地域)、参加人数、競技種目数の三項目で前後のオリンピックと比較してみました。
セントルイス アテネ ロンドン
開催年度 1904 1906 1908
参加国 13 20 22
参加人数 689 903 2035
競技 16種目(89競技) 13(78) 22(110)
参加国数ではアテネはロンドンと拮抗しています。
参加人数はアテネはセントルイスから5割増えて、ロンドンではアテネの倍増です。
セントルイスに比べてアテネは競技数が減っていますが、ボクシング、アーチェリー、ゴルフ、ラクロスで、逆に射撃が増えています。
ざっくり見たところ、素人感覚ではセントルイスと遜色ない内容に見えます。
アテネの中間年オリンピックは内容がなかったと言う話は論拠に乏しい気がします。
4年に1度のオリンピック開催という原点に戻り、公式記録から削除されたのでしょうか?
それ以降、ゲオルギオス1世が執念で開催した1906年アテネオリンピックは「幻のオリンピック」として語り継がれているのです。
(おわり)
【参照:JOC公式サイト、ウイキペデイア他】
(記事は無断転載を禁じています)
下條 俊隆
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コメント
下條さん
年賀状で教えて頂いたブログ、遅まきながら覗きました。幻のオリンピック、興味深いエピソードで感心しつつ読ませて頂き、有難うございました。お元気で何よりです。では、続きを読ませて頂きます。寒中、ご自愛下さい。下村 拝
下村さん
幻のオリンピック、記事をお読み頂きありがとうございます。
下村さんも過去にパナソニックのオリンピックにかかわっておられたことから、興味を持っていただいたのでしょうね。
ゲオルギオスの人柄に興味を持って調べた記事です。
東京オリンピックとパナソニックの関係式などまた教えてください。
下條 拝