幻のオリンピック/ゲオルギオス一世の執念で開かれた1906年アテネ五輪とは?

1896年の第一回アテネ・オリンピックで、マラソンに優勝した地元ギリシャの英雄ルイスに、報償としてロバ一頭を与えたギリシャの王をご存じでしょうか?

王の名はゲオルギオス一世です。

彼はオリンピックの提唱者クーベルタン男爵と共に、古代オリンピックを近代オリンピックとしてギリシャのアテネに蘇らせた貢献者の一人です。

ギリシャ王ゲオルギオスは・・

「オリンピックはギリシャ固有の伝統であり、ギリシャを離れて行われるべきものではない」という強い信念を持っていました。

ところが、ギリシャ王の強い反対にもかかわらず、第2回オリンピックはパリで万博の付属競技大会として開かれました。

(パリ・オリンピックの様子はこの記事をご覧ください)

競泳はセーヌ川! マラソンは炎天下! 1900年パリ五輪は万博の付録だった?

パリの後アメリカ大陸に渡った第3回オリンピックはセントルイスで開催され、さらに第4回大会はヨーロッパに戻りますが、アテネではなく英国のロンドンで開催されることが決まりました。

オリンピックがオリンピック発祥の地、アテネに戻る気配はまるでなかったのです。

IOC国際オリンピック委員会はクーベルタン男爵の提唱の元に、「オリンピックは世界の国が持ち回りで開催し、四年に一度行われるものとする」ことに決めていました。

一方、アテネでは、ギリシャの王ギオルギオス一世が、かっての執念を燃やし続けていました。

・・オリンピックはギリシャ固有の祭典であり、永遠にアテネで開催されべきである・・と。

ゲオルギオスは、IOCの決定に対して、一計を案じます。

・・四年に一度、持ち回りで行う世界に開かれたオリンピックなら、その真ん中の年には原点に戻り、オリンピックの発祥の地ギリシャのアテネで開催されるべきである・・

と世界に訴えたのです。

中間年のオリンピック」と呼ばれたこの訴えは、セントルイス大会とロンドン大会の中間の年、1906年にアテネで実現されることになります。

近代オリンピックの提唱者であるクーベルタンの見解に反対して、オリンピックを毎回アテネで行うことに執着したギリシャの王、ゲオルギオス一世とはどんな人物だったのでしょうか?

オリンピックのアテネ開催に執念を燃やし続けたゲオルギオス一世とは、どんな人物?

彼は1845年12月24日にデンマークのコペンハーゲンでデンマークの王クリスチャン9世の次男として生まれています。

生家グリュックスブルク家はデンマーク王国とノルウエー王国を束ねた王家でした。

彼の兄フレゼリク8世はデンマークの国王になっていますから、次男の彼はギリシャの国王として養子に出されたことになりますね。

当時のヨーロッパは各国の王侯貴族が、お互いに親戚関係にありましたから、こんなことは珍しくもなんともなかったのです。

彼のフルネームを紹介します。

「クリステイアノス・グリエルモス・フェルデイナノス・アドルフォス・ゲオルギオス」

伝統のあるヨーロッパ貴族の名前は、両親や祖先の名前、出身地などを加えていって、このようにとても長いフルネームになるのです。

当時のヨーロッパでは王室間の婚姻は広く行われていて、ゲオルギオスは17才の若さでギリシャの王として迎えられることになりました。

その頃、ギリシャは長年にわたって征服されていたオスマン帝国からの独立を、欧州列強の支援の元に果たしていました。

そして、列強(イギリス、フランス、ロシア、オーストリアなど)の見解としては、ギリシヤの政治体制は当面、君主制が望ましいとして、ドイツの貴族オソン一世をギリシャの初代国王に迎えていました。

欧州列強は、オスマン帝国に長年征服されて疲弊したギリシャが立ち直るには、当面君主制が適当であるという結論を下したのです。

ところがギリシャの初代王として赴任したオソンの政治は、まず経済政策で大失敗をします。

彼はオスマン帝国以上の重税を国民にかけたのです。

そのうえ、ギリシャの習慣や風習に無頓着なオソン王はギリシャ正教に改宗することをせず、ドイツ人の女性とギリシャ国外で結婚式を挙げる有様でした。

結果として、1854年に二度目のクーデターが起こり、国王夫妻は英国の艦艇でギリシャからバイエルンに逃げ帰ることになります。

1863年にギリシャ議会は初代国王オソン一世の廃位とゲオルギオスの即位を可決しました。

新しく迎えられた国王ゲオルギオスの若い肩には、新しい政治と、経済の復興という大きな課題が乗っかっていたのでした。

(若いときのゲオルギオス一世)

ところで、ゲオルギオスは英語読みで「ジョージ」です。

ゲオルギオスと言うと近寄りがたい雰囲気ですが、ジョージ一世というと、俄然、親しみやすい印象になります・

上の写真は当時のゲオルギオス一世です。

いかにも若々しくて、気品に溢れて見えます。

ゲオルギオスはギリシャの国民に自ら歩み寄って、気さくに付き合ったと言われています。

オソン王の失敗から教訓を学んだ彼は、まずギリシャ語を覚え、ギリシャ聖教に帰依しました。

次に懸案であった憲法を制定して新しいギリシャの政治の土台を作り上げます。

一院制議会制による立憲君主制国家であることを内外に宣告したのです。

そして疲弊した経済を農政改革によって主導し、近代化を図ります。

このとき制定された選挙制度は、当時のヨーロッパでは相当進んだもので、彼は開かれた王室として国民と共に歩む姿勢を示したのです。

この頃、1894年に万博が開催されていたパリで「古代オリンピックを復活して、新しいオリンピックを作り上げる」という話がフランスのクーベルタン男爵から、各国のスポーツ界代表に対して提案されました。

提案は賛成され、第1回大会は二年後の1896年にギリシャのアテネで開催することが決定しました。

国際社会でのギリシャの地位を復活させることに腐心していたゲオリギオスにとつて、近代オリンピックをアテネで開催し、成功に導くことは至上の命題であると思ったのに違いありません。

ギリシャのアテネで計画された第一回近代オリンピックの誕生に際して、ギリシャの王としてゲオルギオス一世は財政面での協力を惜しまずに行いました。

彼はヨーロッパ各国の王室とのネットワーク(姻戚関係)を通じて、経済界の有力者からの資金集めに奔走します。

当時、できあがったばかりのIOC国際オリンピック委員会は欧米主要国12カ国からスポーツ界の有志14名を初代委員として構成しています。

IOCは現在のような各国単位の支部組織を持たなかったこともあって、各国からの資金集めは大変難しいことでした。

あたりまえの話ですが、スポンサーシップとか、オリジナルグッズとか、テレビの放送権といった資金集めのためのマーケティング手法はまだ存在しません。

資金集めはもっぱら、個人からの寄付に頼っていたのです。

当時、ギリシャ王国は、王の指導の下に、農政を中心とした経済の回復に向かっている真っ最中で、財政の状態は悪く、オリンピックの資金集めは王の外交手腕に頼らざるを得ない状況でした。

国王自らの努力で、なんとか海外同胞からの資金が集まり、第一回近代オリンピックは無事開催の日を迎えました。

1896年4月6日・開会宣言は国王が自ら行い、オリンピック会場にファンファーレが鳴り響きます。

ゲオルギオス国王にとってその瞬間は忘れがたい感動の瞬間だったことでしょう。

ゲオルギオス一世の胸の中に、オリンピックは永遠にギリシャと共にあると言う固い信念が生まれた瞬間でした。

ギオルギオスの思いに反して、オリンピックはアテネの次はパリ、パリの次はセント・ルイスで開催され、その次はロンドンで行うことが決まっていました。

しかし・・オリンピックのアテネ開催に執念を燃やしたゲオルギオスは、四年に一度の中間の年にアテネでオリンピックを開催することを宣言し、セントルイスとロンドンの中間年1906年に再びオリンピックをアテネで実現させることに成功しました。

ギリシャ王の執念が、アテネで二度目のオリンピックを開催させることになったのです。

はたして中間年のアテネ・オリンピックとはどのような大会だったのでしょうか?

参加は自費/マラソンの優勝者シェリングはカナダからバイトしながらやって来た!

マラソン優勝者・カナダ

アテネで行われたマラソンのエピソードを紹介します。

このときのマラソンの金メダリストはカナダのウイリアム・シェリングという選手で、2時間51分23秒6と言う自己ベストのタイムで走っています。

ボストンマラソンでも実績のあるシェリングはカナダの代表に選ばれたのですが、渡航資金が乏しくてとてもアテネまでいけません。

当時は代表に選ばれても、資金は自分持ちだったのです。

困り切ったシェリングは、競馬に勝負をかけます。

掛け率は六倍。

勝ち目は薄いが、高倍率。

これにシェリングは有り金のすべてをかけます。

シェリングは強運の持ち主でした。

なんとこの競走馬が優勝したのです。

カナダから船で二ヶ月かかってアテネに着いたシェリングは、鉄道の駅でポーターをしながら練習にかかる費用や、生活費を稼いでいます。

マラソンコースは1896年と同様にタフなコースでした。

距離は測定された結果、41.86 km。

ギリシャの人たちは1896年のルイスと同じように自国選手の優勝を期待していました。

マラソンランナーは全員出発地点の「マラトン」に運ばれます。

前日の夜をギリシャの外務大臣の邸宅で過ごしたあと、翌日の5月1日午後3時5分にレースがスタートしました。

気温は27度と危険な温度でしたが、体制と準備は完璧でした。

パリやセントルイスの疑惑マラソンの体制が反省されたのでしょうか。

ルートは1マイル間隔に五人の兵士によって守られ、急救、介護士、軍の外科医、担架によって救急体制が整えられています。

最初オーストラリアと米国の二人の選手が先頭を走ります。

しかし25キロ地点でカナダのシェリングが二人を抜き去り、そのまま独走しました。

ゴールの競技場にシェリングが現れたとき、ギリシャ選手の到着を期待していた観衆の落胆振りは明らかでした。

拍手の少ない中、一人の若者がシェリングを歓迎して競技場の入り口まで出迎えたのです。

若者はシェリングと併走して場内を一周、ゴールに向かいます。

彼はギリシャの王ゲオルギオスの息子、プリンスギオルグでした。

プリンスはかつての第一回アテネオリンピックでギリシャのルイスが優勝したときにも、競技場の中をルイスと併走して走っています。

しかし今回は地元の選手ではなくて、カナダの選手に併走したのです。

これこそオープンで国境を越えたオリンピック精神でした。

シェリングはゴールしたあと、シューズを脱いで、感謝の気持ちと共にプリンスの手に渡しました。

プリンスは喜んで記念の品物を受け取りました。

観衆に向かってシューズを高く掲げて、頭上で大きく振ります。

観衆は二人に大きな拍手を送りました。

圧倒的な強さで優勝したシェリングには、ゲオルギオス一世から報償として、生きた子羊と女神アテネの彫像が送られます。

名誉を獲得したとはいえ、報償は渡航費にはほど遠いものでした。

無事カナダに凱旋した彼には、生誕地のハミルトン市から5000ドルが贈られ、トロント市は400ドルを贈りました。

彼は間もなく現役を退き、ハミルトン市は彼の功績を称えて「ビリー・シェリング公園」を造っています。

「中間年のオリンピック」アテネオリンピックは公式記録から削除され「幻のオリンピック」とされた?

第二回アテネオリンピックは、1906年にセントルイス大会とロンドン大会の中間年に開催されました。

いわゆる「中間年オリンピック」としてIOCの公式オリンピックとして認められた上で、開催されているのです。

このときの開会式でギオルギオス自らが開会宣言をしています。

第一回アテネに続いて二度目の開会宣言です。

ギリシャ国王として、さぞ誇らしかったことでしょうね。

歴史上、オリンピックで開会宣言を二度しているのは三人だけです。

一人は1936年の夏冬ドイツ大会で宣言したアドルフ・ヒトラー。

一人は1976年のモントリオール大会でカナダ女王として、2012年ロンドン大会でイギリス女王として宣言したエリザベス二世。

一人は1964年東京大会と、1972年札幌大会で開会を宣言した日本の昭和天皇です。

ゲオルギオス一世はアテネ・オリンピックと共に生きた人物でした。

その後、中間年オリンピックがアテネで開催されることはありませんでした。

理由としては、ギリシャの財政が好転しなかったことと・・

ゲオルギオス一世が、1913年3月18日、第一次バルカン戦争中にオスマン帝国から奪還したテッサロニキを訪問した際に暗殺されたことによります。

ゲオルギオスは気さくな人柄で、政情不安のテッサロニキを訪問したときも町中で無防備だったとされています。

ゲオルギオスは凶弾に倒れ、68才で世を去りました。

そして1950年にIOCはアテネの中間年大会の記録を公式記録から削除しました。

削除の理由は「四年に一度開催される」というオリンピック・ルールに抵触するからと言う理由でした。

しかし1950年という年は開催から44年も経っているのです。

およそ半世紀後になぜ削除したのか、腑に落ちない話です。

第二回アテネオリンピックは、開催内容にも問題があったからだ、と言う見方がありますが、果たしてどうでしょう。

開催内容の目安として、アテネ大会を参加国数(地域)、参加人数、競技種目数の三項目で前後のオリンピックと比較してみました。    

    セントルイス  アテネ   ロンドン

開催年度    1904       1906       1908

参加国            13           20           22

人数      689         903        2035

競技種目   16-89    13-78      22-110

(競技種目の数字:左は競技数ー右は種目数)

参加国(地域)ではセントルイスが欧州からアメリカ大陸と遠く離れたことで、ヨーロッパからの参加国が少なくなっています。

参加国数ではアテネはロンドンと拮抗しています。

参加人数はアテネはセントルイスから5割増えて、ロンドンではアテネの倍増です。

セントルイスに比べてアテネは競技数が減っていますが、ボクシング、アーチェリー、ゴルフ、ラクロスで、逆に射撃が増えています。

ざっくり見たところ、素人感覚ではセントルイスと遜色ない内容に見えます。

ちなみに1900年のパリは参加国(地域)が13で参加人数は1225人、競技は19で95種目となっています。

このときは万博の附属競技大会とされ、一過性の種目を増やしていますので、あまり参考になりません。

つまるところ、アテネの中間年オリンピックは内容がなかったと言う話は論拠に乏しい気がします。

四年に一度のオリンピック開催という原点に戻り、記録も削除されたのでしょう。

それ以降、ゲオルギオス一世の執念のアテネオリンピックは「幻のオリンピック」として語り継がれているのです。

    (続く)

【追記:この記事は・・JOCの公式サイト、ウイキペデイアの記事を主に参照しました】

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下條 俊隆

下條 俊隆

ペンネーム:筒井俊隆  作品:「消去」(SFマガジン)「相撲喪失」(宝石)他  大阪府出身・兵庫県芦屋市在住  大阪大学工学部入学・法学部卒業  職歴:(株)電通 上席常務執行役員・コンテンツ事業本部長  大阪国際会議場参与 学校法人顧問  プロフィール:学生時代に、筒井俊隆姓でSF小説を書いて小遣いを稼いでいました。 そのあと広告代理店・電通に勤めました。芦屋で阪神大震災に遭い、復興イベント「第一回神戸ルミナリエ」をみんなで立ち上げました。一人のおばあちゃんの「生きててよかった」の一声で、みんなと一緒に抱き合いました。 仕事はワールドサッカーからオリンピック、万博などのコンテンツビジネス。「千と千尋」など映画投資からITベンチャー投資。さいごに人事。まるでカオスな40年間でした。   人生の〆で、終活ブログをスタートしました。雑学とクレージーSF。チェックインしてみてくださいね。

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コメント

  1. 下村倫生 より:

    下條さん

    年賀状で教えて頂いたブログ、遅まきながら覗きました。幻のオリンピック、興味深いエピソードで感心しつつ読ませて頂き、有難うございました。お元気で何よりです。では、続きを読ませて頂きます。寒中、ご自愛下さい。下村 拝

    • 下條 俊隆 下條 俊隆 より:

      下村さん

      幻のオリンピック、記事をお読み頂きありがとうございます。
      下村さんも過去にパナソニックのオリンピックにかかわっておられたことから、興味を持っていただいたのでしょうね。

      ゲオルギオスの人柄に興味を持って調べた記事です。
      東京オリンピックとパナソニックの関係式などまた教えてください。

       下條 拝