クーベルタンの男子五輪に反発!“女子オリンピック”を創設したアリス・ミリアとは?

ボートを漕ぐアリス・ミリア/1913 ウイキペディア

 

 

 

 

 

 

 

女子オリンピック”を知っていますか?

20世紀の初頭、女性の参加を認めないで男子主体で行われていた近代オリンピックに反発して、女性だけが参加できるWOMEN’S OLYMPIAD(女子オリンピック)が1922年にパリで開催されています。

国際オリンピック委員会(IOC)会長のクーベルタン男爵やそのあとに続くIOC会長がオリンピックへの女性の参加に否定的であったことに業を煮やして、女性だけの「女子オリンピック」を創設した凄腕の女性とは、フランス人の“アリス・ミリア”です。

ボート選手のアリス・ミリアは国際女子スポーツ連盟(FSFI)の創設に携わり、初代会長に就任。ミリアは国際オリンピック委員会や国際陸連(IAAF)に対して、オリンピックのメイン競技である陸上競技に女性を参加させることを何度も要請しますが、冷たく拒否されます。

これに反発したミリアが選んだ最後の手段は、パリで女性だけのオリンピックを開催することでした。オリンピックにおける女性の参画を進めた女性、アリス・ミリアの凄腕に迫ります。

クーベルタン会長の近代オリンピックとは男子だけのオリンピックだった!

 

1900パリオリンピックでテニスとゴルフをプレーする女性選手 ウイキペデイア
IOCクーベルタン会長

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オリンピックは参加することに意義がある」と宣言したクーベルタン会長ですが、彼の思い描くオリンピックとは、女性にオープンな大会ではなかったのです。第1回アテネオリンピックは男子のみで行われ、第2回パリオリンピックで始めて女性の参加が認められます。

しかし女性が参加できた競技はゴルフとテニスの2種目だけでした。IOCはその後のオリンピックで水泳など女子のプログラムを加えますが、大会の花形競技である陸上競技には女性の参加を認めなかったのです。

20世紀初頭は女性の参政権運動が始まったばかりの時代でした。近代オリンピックに女性が参加できたのはテニスやアーチェリーといった「女性らしい競技」と男性が認めた競技だけでした。

古代オリンピックが男子のみで行われたことは有名ですが、20世紀初頭の欧米社会においても社会参加やスポーツは男性が行い、女性は男性を支えていればよいといった男性中心の意識が強かったのです。

初期の近代オリンピックにおいて女子が参加できる競技はどのようなものだったのでしょう。1896年アテネオリンピックから1924年パリオリンピックまでの女子参加競技の推移をまとめてみました。

 

20世紀初頭・近代オリンピックにおける女子競技の開催状況

開催年度・都市

女子競技

1896年 アテネ

なし

1900年 パリ

テニス ゴルフ

1904年 セントルイス

テニス アーチェリー

1908年 ロンドン

テニス アーチェリー フィギュアスケート

1912年 ストックホルム

テニス 水泳 ダイビング

1916年 ベルリン 

(第一次世界大戦で開催中止)

1920年 アントワープ

テニス 水泳 ダイビング

1924年 パリ

テニス 水泳 ダイビング

 

第7回を迎えた1924年パリ・オリンピックにおいても女性が参加できる競技は、テニス、水泳、ダイビングの3種目だけという寂しい状況だったのです。

 

IOCの冷たい態度に業を煮やしたミリアは「女子オリンピック」の開催を決定

 

アリス・ミリア(Allice Milliat)は1884年にフランスのナントに生まれました。障害を抱えながら、ボートの選手として活躍したミリアは、女性のスポーツ参画運動に身を投じ、1917年に女子スポーツクラブ「フランセーズスポーツフェミニン」の活動に参加、後に会長に就任します。 

1917年の末、ミリアはIOCの会長に一通の手紙を出します。その内容は次のオリンピックであるアントワープ大会で女性が参加できる競技を増やして欲しいという要請でした。しかしクーベルタン会長の態度はオリンピックへの女性の参加に否定的で、女性の出場競技を増やそうとしなかったのです。

イギリスで世界に先駆けて女性の参政権が認められた翌年の1919年、ミリアはIOCに強い影響力を持つIAAF国際陸上連盟に対して、1924年のオリンピック・パリ大会で陸上競技に女子ゲームを含めるように要請しました。

しかしIOCと同じ思想に立つIAAFもこれを拒否。業を煮やしたミリアは1921年10月、国際女性スポーツイベントを監督するフェデレーションスポーツフェミニンインターナショナル(FSFI)を結成して、国際オリンピック委員会IOCに対抗。すべてのスポーツ・競技を含む女性のオリンピックを開催することを決定・宣言しました。

女子オリンピアード1922年開催に成功! クーベルタン激怒!

IOCの冷たい態度に対して、ミリアや女性のアスリートが回答として開催したのが1922年「世界女子競技大会」通称「女子オリンピック」です。

正式タイトルはJeux Athlétiques Internationaux Féminins and Jeux Olympiques Féminins直訳して「遊戯・体育国際女子大会・女子オリンピック」。Fémininsを繰り返して「オリンピックは男ばかりの世界じゃありません!」と叫ぶミリアの声が聞こえて来るようなタイトルです。

フランスのパリで開催された女子オリンピックは1922年8月20日の1日だけの大会でした。米、英、仏を始め5カ国を代表する女性のアスリートが参加、11の陸上競技が行われ18人のアスリートが世界新記録を出しています。

20世紀初めの女性だけの世界大会とはどんな風景だったのでしょうか? 現存するサイレント動画をご覧ください。

Women’s Olympiad1922

2万人の観衆を集めた会場のスタッドペルシングは、フランスのパリのヴァンセンヌの森にある多目的スタジアムでした。ハイジャンプ、砲丸投げ、短距離ハードルの競技の様子と、選手が和やかに談笑する風景が記録されています。

一方、「オリンピック」の名称を了解なしに使用されたIOCのクーベルタン会長は激怒しました。現在では「Olympic」「Olympiad」「Olympic Games」という名称はIOCの許可がないと使用が法令で禁止されていますが、このときには名称の使用を差し押さえる強制権がなかったとされています。スポーツ仲裁裁判所もまだありません。IOCはミリアとFSFIに対して直接交渉を開始しました。

オリンピックで一部の陸上競技と体操を女性に開放することを約束する代わりに、女子オリンピックの名称からオリンピアードという言葉を取るように要請したのです。

このためFSFIの第2回女子オリンピックは“女子世界大会”と名称を変更して、1926年にスエーデンのイエテボリで開催されます。大会には9カ国100人のアスリートが集合。ベルギー、チェコ、英、仏、など欧州各国に加えて日本も参加。

このとき日本から只1人参加した人見絹枝選手は幅跳びで世界新記録を出し、立ち幅跳びと合わせて2種目で優勝。国別のポイント順位で日本を5位に持ち上げ、大会を盛り上げています。大会の成功はIOCのオリンピックへの女性参画を推し進める原動力となりました。

アムステルダムオリンピックで女子の陸上競技始まる!

1928年オリンピック 女子陸上競技  (VOGUE JAPAN)

 

 

 

 

 

 

 

1925年IOCの会長が創始者クーベルタン男爵から、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵に交代。新会長も女性のオリンピック参画には否定的でしたが、IAAF国際陸連会長ジークフリード・エドストレームの助言の下、IOCは1928年のアムステルダムオリンピック競技に女子の陸上競技5種目と女子の体操を加えることとします。

ミリアはアムステルダムオリンピックに技術役員として加わり、競技の運営に協力をしています。女性のスポーツ参画の歴史においてアムステルダムは画期的な大会となったのですが、ミリアはまだ不満でしたなんと言っても、男性は22の競技すべてに参加できたからです。

アムステルダムの大会には、1918年に参政権を手に入れていた英国の女性チームがミリアに賛同。IOCに不満を表明して大会への参加をボイコットしました。

女子800mの悲劇

1928年アムステルダムオリンピック 女子800m 銀メダルの人見絹枝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1928年のアムステルダムオリンピックには25カ国から277名の女性アスリートが参加。アントワープ大会の4倍になりました。初めての陸上競技には95人の女性が参加。800mでは日本女子初の銀メダルを人見絹枝が獲得します。

ここで悲劇が起こっています。ゴールしたあとで女子選手が次々に倒れていったのです。酸欠による一時的症状と思われますが、女子には中距離以上は体力的に無理だと判断され、その後のオリンピックから中・長距離競技が女子のレパートリーから除外される理由となります。

ミリアの最後通告

 

1930年のプラハ大会、1934年のロンドン大会と女性だけの世界大会を開催して成功を収めたミリアは、思い切った勝負に出ます。ミリアが求めたのはオリンピックでの完全な女性参加です。1936年オリンピックで完全に女性の競技を統合するか、または、すべての女性の参加の権利をFSFIに譲るか、二者択一を迫るという思いきった最後通告でした。

IAAF国際陸連はミリアのFSFIと協力する特別委員会を創設。FSFIは国際女性競技の管理をIAAFに譲渡して女子のプログラムの拡大を図る事となります。その後、1936年にフランス政府がFSFIへの助成金の交付を止め活動が縮小、ミリアは会長職を辞任します。

ミリアの活動はオリンピックでの女性の参画を促し、今日のようなオープンなオリンピックへの流れを作りましたミリアの思想と行動はフランスの女性の参政権運動にもつながったとされています。

ミリアは一度結婚しますが、子供を授かる前に夫と死別しました。1957年パリで亡くなったアリス・ミリアの名前は、生前の活動を讃えて、パリの14区の体育館のペディメントに刻まれています。

オリンピックの女子競技はアリス・ミリアが亡くなった後も時代とともに増え続けます。2000年シドニー五輪ではウエイトリフティング、2004年アテネではレスリング、2012年ロンドンではボクシング、2016年リオデジャネイロではラグビーが女子競技に採用されています

このことを知ったらアリス・ミリアもきっと驚いたことでしょうね。

(おわり)

【付録】オリンピックの女子競技の歴史

2016年 リオ・オリンピック 女子ラグビー カナダ対日本
2016年 リオ・オリンピック 女子ラグビー カナダ対日本

 

以下では新規に加わった女子競技を大会毎に記載しています。テニス、ゴルフなどその後中断した競技もあります。

開催年度/開催都市

新規に加わった女子競技

1900年 パリ

テニス ゴルフ 馬術 クロケット

(参加者997人の中女子は20人)

1904年 セントルイス

アーチェリー

1912年 ストックホルム 

水泳

1924年 パリ 

フェンシング

1928年 アムステルダム

陸上競技  体操(エキジビジョン)

1948年 ロンドン

カヌーとカヤック

1952年 ヘルシンキ

馬術

1964年 東京

バレーボール

1976年 モントリオール

ボート バスケットボール ハンドボール

1988年 ソウル

卓球 セーリング

(1991年

新種目に女子部門を設けることが決定)

1992年 バルセロナ

柔道 バドミントン バイオアスロン

1996年 アトランタ

サッカー ソフトボール

2000年 シドニー

トライアスロン ウエイトリフティング テコンドー 近代五種

2004年 アテネ

レスリング 

2012年 ロンドン

ボクシング

(全参加者のうち44%が女子選手)

2016年 リオデジャネイロ

女子ラグビー

(引用の出所の違いから一部前掲の資料と異なる箇所があります)

 

【参照サイト】 

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Alice_Milliat

https://en.m.wikipedia.org/wiki/1922_Women’s_World_Games

https://www.britishpathe.com/video/womens-olympiad

 

「2分で分かるオリンピック女子競技の歴史」VOGUE JAPANより

https://www.vogue.co.jp/lifestyle/culture/VJ104-Spotlight-2016-WhenWomensSportsWereAddedTotheOlympics

 

1908年ロンドン五輪はローマのピンチヒッター! 開会式で英米紛糾/選手1人で決勝レース

 

オリンピックと英仏博覧会の併催を伝える公式ポスター

1908年の第4回近代オリンピックは、イタリアのローマで開催されることが決まっていました。

ところが、開催の2年前1906年4月7日にイタリアのベスビオス火山が突然噴火、噴煙が9kmの近距離にあるミラノの町を襲って死者300人を含む甚大な被害を出しました。

五輪の資金をミラノの復旧に当てることにしたイタリアは、オリンピックの返上をIOC国際オリンピック委員会に申し入れます。

IOCのクーベルタン委員長は1908年の候補地の2番手であったロンドンにピンチヒッターとしてオリンピックの受け入れを要請。ロンドンは1908年に予定していた仏英博“Franco-British-Exhibition”の共催イベントとして第4会オリンピックを開催することを決定しました。

準備期間はわずか2年。急遽オリンピックスタジアムの建設を始めたロンドン五輪のエピソードを紹介して参ります。

 

常識破りの多目的競技場“ホワイトシティースタジアム”

ホワイトシティースタジアム全景 愛称グレイトスタジアム  (IOC公式)
1908年オリンピック競技場
ホワイトシティースタジアム

 

 

 

 

 

 

 

 

わずか2年足らずで建てられたオリンピック競技場は、常識破りの施設でした。当時の英国オリンピック協会会長デスボロー卿は仏英博覧会の主催者に対して、博覧会側の負担で陸上競技対応のスタジアムを建ててくれるよう強引に説得。自ら設計に関与して10ヶ月という短期間で完成した白いコンクリート構造の巨大スタジアムは「ホワイトシティースタジアム」と名付けられます。

競技場を撮影した2枚の写真をご覧ください。競技用トラックの長さは、現在のような1周400mというスタンダードなタイプではなくて536mと異常に長く、その外周には幅11mの競輪用のトラックが作られています(白い外輪のところ)

ランニングトラックの中にはスイミングとダイビングのためのプール(白く見える細長い部分)やレスリングや体操用の施設(プールの手前の白いエリア)まで含まれています。

ランニングトラックの長さを、なぜ536mなどという中途半端な距離にしたのでしょうか。536mを3倍すると1608mとちょうど1マイルになります。ということは、トラックを3周すると1マイル競争になるじゃないですか! 

当時の英国では陸上競技の中距離や競馬のレースにもマイルを使っていたのでしょう。

デスボロー卿のもと、ジョージウィンペイという人物によって設計されたこのスタジアムは、博覧会側の資金によって建てられたことから、陸上競技だけではなくて競輪も含めた多目的な設計になっていたのです。

 開会式のパレードが旗手の国旗で紛糾 

開会式 各国選手団のパレード

 

 

 

 

 

 

 

1908年4月27日、ロンドンオリンピックの開会式は各国のチームが自国の国旗を先頭にパレードをすることが新しい演出として決まっていました。しかしこの演出は当時の国際政治を反映して、とんでもない事件を引き起こします。

フィンランドは当時ロシア帝国の一部であったために、フィンランドのチームのメンバーはロシアの旗の下に行進することを求められました。その結果、反発したフィンランドチームのメンバーが旗なしでの行進を決行しました。

また、スウェーデンの旗がなぜかスタジアムの各国の旗の列に含まれていなかったために、怒ったスウェーデンのチームは開会式典に参加しないことに決め、欠席します。

アイルランドのチームはアイルランドの代表として闘うことを希望しますが、英国の一員として参加することを求められます。このときアイルランドは英国からの独立を目指して運動している最中で、選手達は英国への対抗心をかき立てられ、最後に1919年の独立戦争へとつながっていくのです。

アメリカ合衆国の旗手ラルフローズは、一般的な慣行であるロイヤルボックスの前で旗を沈めることを拒否しました。「flag dipping」と呼ばれる国旗の先端を下げるこの動作は英国の君主であるエドワード7世への敬意を表す儀礼なのですが、米チームがこれを拒否したことが、その後の大会の運営に大きな影を落とすことになります。

アメリカ合衆国の選手マーティンシェリダンはパレードのあと「国旗は地上の王には落ちない」と宣言したと言われています。この言葉は英国の君主制に対する合衆国やアイルランドによる反抗の言葉として有名になりました。

ラルフローズ旗手の行為の理由は、星条旗が会場の各国の旗の中に見当たらなかったことに対する反論だとする記事があります。経済力を背景に著しい躍進を見せる米国に対して、英国から独立してまだ130年の新興国であるアメリカを軽視する風潮が当時の英国にあったことは事実です。開会式場での星条旗の不在は、単なる過失だとはいえない動機が隠されていたのかもしれません。

この出来事は英国と米国とのその後の試合の中でさまざまな事件を起こすきっかけになりました。

前代未聞!たった一人の決勝レース

英国ハルスウェル選手  1人で走る400m決勝

 

 

 

 

 

 

この写真は1908年7月25日に行われた陸上400mの決勝のゴールの場面を写したものです。テープを切るのはゴールドメダリスト英国ハルスウェル選手、後方には選手がひとりもいません。

実は2日前の7月23日に400mの決勝がすでに行われていました。ファイナルでは、地元英国のウインダム・ハルスウェルとアメリカの選手3名の合計4名がスタートラインにたちます。レースは激しいトップ争いとなり、米ウイリアム・ロビンスとジョン・カーペンター、そして英ハルスウェルの順番でゴールに向かいます。最後の場面でカーペンターとハルスウェルがロビンスを抜きにかかりますが、ゴールでは1位カーペンター、2位ロビンス、3位ハルスウェルの順番でフィニッシュとなります。

ここまでは良かったのですが、1人の審判がカーペンターがハルスウェルの進路妨害をしたとして、カーペンターは失格とされます。審判の主張はカーペンターの行為は進路妨害に当たるという判定ですが、アメリカの選手はアメリカのレースでは進路妨害にあたらないと反論をしたのです。

問題はアメリカ選手が主張した国際ルールと英国のルールとの違いによるものです。ロンドンのレースは組織委員会の決定によって、英国のルールによって行うと決められていました。その結果、このレースは無効の判定となり、7月25日に米カーペンターを除く3選手によって再レースを行うことが決まりました。しかしアメリカのチームはこの判定を不服としてレースへの参加を拒否しました。

こうして、7月25日の決勝戦は英ハルスウェルのひとり舞台となり、金メダルだけが授与され、公式記録では銀メダルと銅メダルは該当者なしとされています。

これ以降IOCはルールをホスト国に任せるのではなく、ルールの標準化を図り、各国から派遣された国際審判団を作ることによってルール上のトラブルを避けることになります。

 

ロンドンで英米チームの紛糾が激しさを増すなか、この争いを気にかけていた米国聖公会のエセルバート・タルボット主教は、ロンドンのセントポール大聖堂で行われたミサに説教をして欲しいと呼ばれた際に、オリンピックの選手や関係者を特別に招待して説教をします。

エセルバートタルボット
米聖公会主教

・・・私はスタジアムにみられるような国際主義の時代は危険な要素を含んでいると思います。各選手がスポーツのためだけでなく自国のために努力していることも紛れもない事実です。故に新たな争いが始まっています。すべての答えはオリンピアの教えにあります。それはオリンピック自体がレースや賞よりも優れているということです・・・

“月桂冠の花輪を身につけるのはたった一人ですが、出場したすべての人がオリンピックという試合に参加した喜びを分かち合うことでしょう”と諭しました。

この言葉を受けて、クーベルタンIOC会長は数日後、英国政府が大会役員を招待したレセプションの席上「このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加したことであろう」と述べます。

 

これらの言葉はその後世界に知られるようになり、オリンピックの理念として「オリンピックは勝つことではなくて、参加することに意義がある」と言われるようになりました。

“ドランドの悲劇” マラソンが42.195kmになった理由

ゴール直前で審判に支えられるドランド・ピエトリ

 

 

 

 

 

 

 

 

第1回アテネ、第2回パリ、第3回セントルイスと続いたオリンピックでは、マラソンの距離は約40km でした。1908年のロンドンではマラソンコースがウインザー城から始まりゴールのホワイトシティースタジアムまでの42kmのコースで行うことが決まっていました。“孫がスタートを見れるように“と王がマラソンのスタート地点をウインザー城にするように要求したことがその理由です。

そのあと、マラソンランナーがスタジアムのロイヤルボックスの前でフィニッシュするように、さらに195mが追加されました。その結果、総距離は42.195kmとなります。この距離が後の1921年にマラソンの公式距離として認定されます。これがマラソンの距離が42.195kmとなったいきさつです。

ロンドンのマラソンの悲劇は最後の340mで起こりました。イタリアのドランド・ピエトリは極度の疲労と脱水症状に見舞われていましたが、トップでホワイトシティースタジアムに到着します。しかしスタジアムの中でドランドは道を間違えました。間違っていることを審判に教えられ、ドランドはグラウンドに倒れ込んでしまいました。審判の助けを借りて立ち上がったドランドはそのあと4回倒れ、そのたびに審判に助けられます。

ドランドはなんとかゴールに到着してレースを終えることができました。タイムは2時間54分46秒、そのうち最後の360mに10分を必要としました。もしも2.195kmが360m少なかったら、悲劇は起こらなかったかもしれません。

2位でゴールをした選手はアメリカのジョニー・ヘイズです。アメリカのチームは審判の助けでドランドがゴールしたことを訴え、その結果ドランドは失格となり、ジョニー・ヘイズが優勝しました。

審判が選手に手を貸すことは固く禁じられているルール違反です。当時においても審判は違反だと分かってながら、つい手を出してしまったのでしょう。

審判が選手に手を貸したことは明らかなルール違反とされたのですが、ドランド選手には失格の責任はないとして、アレクサンドラ女王は翌日彼に金色の杯を授与しました。

冬季オリンピックの萌芽・フィギュアスケート開催

1908 ロンドンオリンピック フィギュアスケート

 

 

 

 

 

 

ロンドンオリンピックでフィギュアスケートが始めて実施されています。たまたまロンドンに1895年にスケート場ができたこともあって、他の競技から数ヶ月遅れて10月28日と29日にオリンピックプログラムとして簡単に組み入れることができたのです。もう一つフィギュアスケートが開催された理由としては、オリンピックが博覧会と併催されたために、開催期間が博覧会の期間(5/14~10/31)に合わせて4/27~10/31と大変長期にわたったことがあげられます。

このあと、1920年の第7回アントワープでは冬のスポーツの人気種目、アイスホッケーが採用されます。こういった流れの中で、冬のスポーツを集めた冬期オリンピックが夏季オリンピックと独立して開催されることになっていきます。

第1回冬季オリンピックは1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催されています。

おわりに

ロンドン大会では22カ国から2008人の選手が参加。英国は花形の陸上競技では米国に後れをとりましたが、全22競技109種目のうち56種目で金メダルを獲得して、開催国としての威厳を保つことができました。1900年のパリ、1904年のセントルイスがいずれも万博の付帯イベントのような様相を呈していたのに比べると、ロンドン大会は仏英博覧会との併催とはいえ、BOC英国オリンピック協会の努力でオリンピックの独立性が保たれ、クーベルタン会長の思い描く近代オリンピックの姿に一歩近づいた大会だったのです。

愛称“グレイトスタジアム”と呼ばれた巨大なホワイトシティースタジアムはオリンピックの後、ロンドンに寄贈され、アマチュアの陸上競技会からグレイハウンドレース(ドッグレース)や1966年のFIFAワールドカップにも使われて、近代的なスタジアムとしての先駆けの役割を終えて1983年に閉鎖されます。

(おわり)

 

参考サイト(記事、画像)

 IOC公式   olympic.org/london-1908

 Britannica    britannica.com/event/London-1908-Olympic-Games

 WIKIPEDIA  wikipedia.org/wiki/1908_Summer_Olympics

 

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