
オリンピックと英仏博覧会の併催を伝える公式ポスター
1908年の第4回近代オリンピックは、イタリアのローマで開催されることが決まっていました。
ところが、開催の2年前1906年4月7日にイタリアのベスビオス火山が突然噴火、噴煙が9kmの近距離にあるミラノの町を襲って死者300人を含む甚大な被害を出しました。
五輪の資金をミラノの復旧に当てることにしたイタリアは、オリンピックの返上をIOC国際オリンピック委員会に申し入れます。
IOCのクーベルタン委員長は1908年の候補地の2番手であったロンドンにピンチヒッターとしてオリンピックの受け入れを要請。ロンドンは1908年に予定していた仏英博“Franco-British-Exhibition”の共催イベントとして第4会オリンピックを開催することを決定しました。
準備期間はわずか2年。急遽オリンピックスタジアムの建設を始めたロンドン五輪のエピソードを紹介して参ります。
目次
常識破りの多目的競技場“ホワイトシティースタジアム”

ホワイトシティースタジアム全景 愛称グレイトスタジアム (IOC公式)

1908年オリンピック競技場
ホワイトシティースタジアム
わずか2年足らずで建てられたオリンピック競技場は、常識破りの施設でした。当時の英国オリンピック協会会長デスボロー卿は仏英博覧会の主催者に対して、博覧会側の負担で陸上競技対応のスタジアムを建ててくれるよう強引に説得。自ら設計に関与して10ヶ月という短期間で完成した白いコンクリート構造の巨大スタジアムは「ホワイトシティースタジアム」と名付けられます。
競技場を撮影した2枚の写真をご覧ください。競技用トラックの長さは、現在のような1周400mというスタンダードなタイプではなくて536mと異常に長く、その外周には幅11mの競輪用のトラックが作られています(白い外輪のところ)
ランニングトラックの中にはスイミングとダイビングのためのプール(白く見える細長い部分)やレスリングや体操用の施設(プールの手前の白いエリア)まで含まれています。
ランニングトラックの長さを、なぜ536mなどという中途半端な距離にしたのでしょうか。536mを3倍すると1608mとちょうど1マイルになります。ということは、トラックを3周すると1マイル競争になるじゃないですか!
当時の英国では陸上競技の中距離や競馬のレースにもマイルを使っていたのでしょう。
デスボロー卿のもと、ジョージウィンペイという人物によって設計されたこのスタジアムは、博覧会側の資金によって建てられたことから、陸上競技だけではなくて競輪も含めた多目的な設計になっていたのです。
開会式のパレードが旗手の国旗で紛糾

開会式 各国選手団のパレード
1908年4月27日、ロンドンオリンピックの開会式は各国のチームが自国の国旗を先頭にパレードをすることが新しい演出として決まっていました。しかしこの演出は当時の国際政治を反映して、とんでもない事件を引き起こします。
フィンランドは当時ロシア帝国の一部であったために、フィンランドのチームのメンバーはロシアの旗の下に行進することを求められました。その結果、反発したフィンランドチームのメンバーが旗なしでの行進を決行しました。
また、スウェーデンの旗がなぜかスタジアムの各国の旗の列に含まれていなかったために、怒ったスウェーデンのチームは開会式典に参加しないことに決め、欠席します。
アイルランドのチームはアイルランドの代表として闘うことを希望しますが、英国の一員として参加することを求められます。このときアイルランドは英国からの独立を目指して運動している最中で、選手達は英国への対抗心をかき立てられ、最後に1919年の独立戦争へとつながっていくのです。
アメリカ合衆国の旗手ラルフローズは、一般的な慣行であるロイヤルボックスの前で旗を沈めることを拒否しました。「flag dipping」と呼ばれる国旗の先端を下げるこの動作は英国の君主であるエドワード7世への敬意を表す儀礼なのですが、米チームがこれを拒否したことが、その後の大会の運営に大きな影を落とすことになります。
アメリカ合衆国の選手マーティンシェリダンはパレードのあと「国旗は地上の王には落ちない」と宣言したと言われています。この言葉は英国の君主制に対する合衆国やアイルランドによる反抗の言葉として有名になりました。
ラルフローズ旗手の行為の理由は、星条旗が会場の各国の旗の中に見当たらなかったことに対する反論だとする記事があります。経済力を背景に著しい躍進を見せる米国に対して、英国から独立してまだ130年の新興国であるアメリカを軽視する風潮が当時の英国にあったことは事実です。開会式場での星条旗の不在は、単なる過失だとはいえない動機が隠されていたのかもしれません。
この出来事は英国と米国とのその後の試合の中でさまざまな事件を起こすきっかけになりました。
前代未聞!たった一人の決勝レース

英国ハルスウェル選手 1人で走る400m決勝
この写真は1908年7月25日に行われた陸上400mの決勝のゴールの場面を写したものです。テープを切るのはゴールドメダリスト英国ハルスウェル選手、後方には選手がひとりもいません。
実は2日前の7月23日に400mの決勝がすでに行われていました。ファイナルでは、地元英国のウインダム・ハルスウェルとアメリカの選手3名の合計4名がスタートラインにたちます。レースは激しいトップ争いとなり、米ウイリアム・ロビンスとジョン・カーペンター、そして英ハルスウェルの順番でゴールに向かいます。最後の場面でカーペンターとハルスウェルがロビンスを抜きにかかりますが、ゴールでは1位カーペンター、2位ロビンス、3位ハルスウェルの順番でフィニッシュとなります。
ここまでは良かったのですが、1人の審判がカーペンターがハルスウェルの進路妨害をしたとして、カーペンターは失格とされます。審判の主張はカーペンターの行為は進路妨害に当たるという判定ですが、アメリカの選手はアメリカのレースでは進路妨害にあたらないと反論をしたのです。
問題はアメリカ選手が主張した国際ルールと英国のルールとの違いによるものです。ロンドンのレースは組織委員会の決定によって、英国のルールによって行うと決められていました。その結果、このレースは無効の判定となり、7月25日に米カーペンターを除く3選手によって再レースを行うことが決まりました。しかしアメリカのチームはこの判定を不服としてレースへの参加を拒否しました。
こうして、7月25日の決勝戦は英ハルスウェルのひとり舞台となり、金メダルだけが授与され、公式記録では銀メダルと銅メダルは該当者なしとされています。
これ以降IOCはルールをホスト国に任せるのではなく、ルールの標準化を図り、各国から派遣された国際審判団を作ることによってルール上のトラブルを避けることになります。
ロンドンで英米チームの紛糾が激しさを増すなか、この争いを気にかけていた米国聖公会のエセルバート・タルボット主教は、ロンドンのセントポール大聖堂で行われたミサに説教をして欲しいと呼ばれた際に、オリンピックの選手や関係者を特別に招待して説教をします。

エセルバートタルボット
米聖公会主教
・・・私はスタジアムにみられるような国際主義の時代は危険な要素を含んでいると思います。各選手がスポーツのためだけでなく自国のために努力していることも紛れもない事実です。故に新たな争いが始まっています。すべての答えはオリンピアの教えにあります。それはオリンピック自体がレースや賞よりも優れているということです・・・
“月桂冠の花輪を身につけるのはたった一人ですが、出場したすべての人がオリンピックという試合に参加した喜びを分かち合うことでしょう”と諭しました。
この言葉を受けて、クーベルタンIOC会長は数日後、英国政府が大会役員を招待したレセプションの席上「このオリンピックで重要なことは、勝利することより、むしろ参加したことであろう」と述べます。
これらの言葉はその後世界に知られるようになり、オリンピックの理念として「オリンピックは勝つことではなくて、参加することに意義がある」と言われるようになりました。
“ドランドの悲劇” マラソンが42.195kmになった理由

ゴール直前で審判に支えられるドランド・ピエトリ
第1回アテネ、第2回パリ、第3回セントルイスと続いたオリンピックでは、マラソンの距離は約40km でした。1908年のロンドンではマラソンコースがウインザー城から始まりゴールのホワイトシティースタジアムまでの42kmのコースで行うことが決まっていました。“孫がスタートを見れるように“と王がマラソンのスタート地点をウインザー城にするように要求したことがその理由です。
そのあと、マラソンランナーがスタジアムのロイヤルボックスの前でフィニッシュするように、さらに195mが追加されました。その結果、総距離は42.195kmとなります。この距離が後の1921年にマラソンの公式距離として認定されます。これがマラソンの距離が42.195kmとなったいきさつです。
ロンドンのマラソンの悲劇は最後の340mで起こりました。イタリアのドランド・ピエトリは極度の疲労と脱水症状に見舞われていましたが、トップでホワイトシティースタジアムに到着します。しかしスタジアムの中でドランドは道を間違えました。間違っていることを審判に教えられ、ドランドはグラウンドに倒れ込んでしまいました。審判の助けを借りて立ち上がったドランドはそのあと4回倒れ、そのたびに審判に助けられます。
ドランドはなんとかゴールに到着してレースを終えることができました。タイムは2時間54分46秒、そのうち最後の360mに10分を必要としました。もしも2.195kmが360m少なかったら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
2位でゴールをした選手はアメリカのジョニー・ヘイズです。アメリカのチームは審判の助けでドランドがゴールしたことを訴え、その結果ドランドは失格となり、ジョニー・ヘイズが優勝しました。
審判が選手に手を貸すことは固く禁じられているルール違反です。当時においても審判は違反だと分かってながら、つい手を出してしまったのでしょう。
審判が選手に手を貸したことは明らかなルール違反とされたのですが、ドランド選手には失格の責任はないとして、アレクサンドラ女王は翌日彼に金色の杯を授与しました。
冬季オリンピックの萌芽・フィギュアスケート開催

1908 ロンドンオリンピック フィギュアスケート
ロンドンオリンピックでフィギュアスケートが始めて実施されています。たまたまロンドンに1895年にスケート場ができたこともあって、他の競技から数ヶ月遅れて10月28日と29日にオリンピックプログラムとして簡単に組み入れることができたのです。もう一つフィギュアスケートが開催された理由としては、オリンピックが博覧会と併催されたために、開催期間が博覧会の期間(5/14~10/31)に合わせて4/27~10/31と大変長期にわたったことがあげられます。
このあと、1920年の第7回アントワープでは冬のスポーツの人気種目、アイスホッケーが採用されます。こういった流れの中で、冬のスポーツを集めた冬期オリンピックが夏季オリンピックと独立して開催されることになっていきます。
第1回冬季オリンピックは1924年にフランスのシャモニー・モンブランで開催されています。
おわりに
ロンドン大会では22カ国から2008人の選手が参加。英国は花形の陸上競技では米国に後れをとりましたが、全22競技109種目のうち56種目で金メダルを獲得して、開催国としての威厳を保つことができました。1900年のパリ、1904年のセントルイスがいずれも万博の付帯イベントのような様相を呈していたのに比べると、ロンドン大会は仏英博覧会との併催とはいえ、BOC英国オリンピック協会の努力でオリンピックの独立性が保たれ、クーベルタン会長の思い描く近代オリンピックの姿に一歩近づいた大会だったのです。
愛称“グレイトスタジアム”と呼ばれた巨大なホワイトシティースタジアムはオリンピックの後、ロンドンに寄贈され、アマチュアの陸上競技会からグレイハウンドレース(ドッグレース)や1966年のFIFAワールドカップにも使われて、近代的なスタジアムとしての先駆けの役割を終えて1983年に閉鎖されます。
(おわり)
参考サイト(記事、画像)
IOC公式 olympic.org/london-1908
Britannica britannica.com/event/London-1908-Olympic-Games
WIKIPEDIA wikipedia.org/wiki/1908_Summer_Olympics
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下條 俊隆

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