“女子オリンピック”を知っていますか?
20世紀の初頭、女性の参加を認めないで男子主体で行われていた近代オリンピックに反発して、女性だけが参加できるWOMEN’S OLYMPIAD(女子オリンピック)が1922年にパリで開催されています。
国際オリンピック委員会(IOC)会長のクーベルタン男爵やそのあとに続くIOC会長がオリンピックへの女性の参加に否定的であったことに業を煮やして、女性だけの「女子オリンピック」を創設した凄腕の女性とは、フランス人の“アリス・ミリア”です。
ボート選手のアリス・ミリアは国際女子スポーツ連盟(FSFI)の創設に携わり、初代会長に就任。ミリアは国際オリンピック委員会や国際陸連(IAAF)に対して、オリンピックのメイン競技である陸上競技に女性を参加させることを何度も要請しますが、冷たく拒否されます。
これに反発したミリアが選んだ最後の手段は、パリで女性だけのオリンピックを開催することでした。オリンピックにおける女性の参画を進めた女性、アリス・ミリアの凄腕に迫ります。
目次
クーベルタン会長の近代オリンピックとは男子だけのオリンピックだった!
「オリンピックは参加することに意義がある」と宣言したクーベルタン会長ですが、彼の思い描くオリンピックとは、女性にオープンな大会ではなかったのです。第1回アテネオリンピックは男子のみで行われ、第2回パリオリンピックで始めて女性の参加が認められます。
しかし女性が参加できた競技はゴルフとテニスの2種目だけでした。IOCはその後のオリンピックで水泳など女子のプログラムを加えますが、大会の花形競技である陸上競技には女性の参加を認めなかったのです。
20世紀初頭は女性の参政権運動が始まったばかりの時代でした。近代オリンピックに女性が参加できたのはテニスやアーチェリーといった「女性らしい競技」と男性が認めた競技だけでした。
古代オリンピックが男子のみで行われたことは有名ですが、20世紀初頭の欧米社会においても社会参加やスポーツは男性が行い、女性は男性を支えていればよいといった男性中心の意識が強かったのです。
初期の近代オリンピックにおいて女子が参加できる競技はどのようなものだったのでしょう。1896年アテネオリンピックから1924年パリオリンピックまでの女子参加競技の推移をまとめてみました。
【20世紀初頭・近代オリンピックにおける女子競技の開催状況】
開催年度・都市 |
女子競技 |
1896年 アテネ |
なし |
1900年 パリ |
テニス ゴルフ |
1904年 セントルイス |
テニス アーチェリー |
1908年 ロンドン |
テニス アーチェリー フィギュアスケート |
1912年 ストックホルム |
テニス 水泳 ダイビング |
1916年 ベルリン |
(第一次世界大戦で開催中止) |
1920年 アントワープ |
テニス 水泳 ダイビング |
1924年 パリ |
テニス 水泳 ダイビング |
第7回を迎えた1924年パリ・オリンピックにおいても女性が参加できる競技は、テニス、水泳、ダイビングの3種目だけという寂しい状況だったのです。
IOCの冷たい態度に業を煮やしたミリアは「女子オリンピック」の開催を決定
アリス・ミリア(Allice Milliat)は1884年にフランスのナントに生まれました。障害を抱えながら、ボートの選手として活躍したミリアは、女性のスポーツ参画運動に身を投じ、1917年に女子スポーツクラブ「フランセーズスポーツフェミニン」の活動に参加、後に会長に就任します。
1917年の末、ミリアはIOCの会長に一通の手紙を出します。その内容は次のオリンピックであるアントワープ大会で女性が参加できる競技を増やして欲しいという要請でした。しかしクーベルタン会長の態度はオリンピックへの女性の参加に否定的で、女性の出場競技を増やそうとしなかったのです。
イギリスで世界に先駆けて女性の参政権が認められた翌年の1919年、ミリアはIOCに強い影響力を持つIAAF国際陸上連盟に対して、1924年のオリンピック・パリ大会で陸上競技に女子ゲームを含めるように要請しました。
しかしIOCと同じ思想に立つIAAFもこれを拒否。業を煮やしたミリアは1921年10月、国際女性スポーツイベントを監督するフェデレーションスポーツフェミニンインターナショナル(FSFI)を結成して、国際オリンピック委員会IOCに対抗。すべてのスポーツ・競技を含む女性のオリンピックを開催することを決定・宣言しました。
女子オリンピアード1922年開催に成功! クーベルタン激怒!
IOCの冷たい態度に対して、ミリアや女性のアスリートが回答として開催したのが1922年「世界女子競技大会」通称「女子オリンピック」です。
正式タイトルはJeux Athlétiques Internationaux Féminins and Jeux Olympiques Féminins。直訳して「遊戯・体育国際女子大会・女子オリンピック」。Fémininsを繰り返して「オリンピックは男ばかりの世界じゃありません!」と叫ぶミリアの声が聞こえて来るようなタイトルです。
フランスのパリで開催された女子オリンピックは1922年8月20日の1日だけの大会でした。米、英、仏を始め5カ国を代表する女性のアスリートが参加、11の陸上競技が行われ18人のアスリートが世界新記録を出しています。
20世紀初めの女性だけの世界大会とはどんな風景だったのでしょうか? 現存するサイレント動画をご覧ください。
2万人の観衆を集めた会場のスタッドペルシングは、フランスのパリのヴァンセンヌの森にある多目的スタジアムでした。ハイジャンプ、砲丸投げ、短距離ハードルの競技の様子と、選手が和やかに談笑する風景が記録されています。
一方、「オリンピック」の名称を了解なしに使用されたIOCのクーベルタン会長は激怒しました。現在では「Olympic」「Olympiad」「Olympic Games」という名称はIOCの許可がないと使用が法令で禁止されていますが、このときには名称の使用を差し押さえる強制権がなかったとされています。スポーツ仲裁裁判所もまだありません。IOCはミリアとFSFIに対して直接交渉を開始しました。
オリンピックで一部の陸上競技と体操を女性に開放することを約束する代わりに、女子オリンピックの名称からオリンピアードという言葉を取るように要請したのです。
このためFSFIの第2回女子オリンピックは“女子世界大会”と名称を変更して、1926年にスエーデンのイエテボリで開催されます。大会には9カ国100人のアスリートが集合。ベルギー、チェコ、英、仏、など欧州各国に加えて日本も参加。
このとき日本から只1人参加した人見絹枝選手は幅跳びで世界新記録を出し、立ち幅跳びと合わせて2種目で優勝。国別のポイント順位で日本を5位に持ち上げ、大会を盛り上げています。大会の成功はIOCのオリンピックへの女性参画を推し進める原動力となりました。
アムステルダムオリンピックで女子の陸上競技始まる!
1925年IOCの会長が創始者クーベルタン男爵から、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール伯爵に交代。新会長も女性のオリンピック参画には否定的でしたが、IAAF国際陸連会長ジークフリード・エドストレームの助言の下、IOCは1928年のアムステルダムオリンピック競技に女子の陸上競技5種目と女子の体操を加えることとします。
ミリアはアムステルダムオリンピックに技術役員として加わり、競技の運営に協力をしています。女性のスポーツ参画の歴史においてアムステルダムは画期的な大会となったのですが、ミリアはまだ不満でした。なんと言っても、男性は22の競技すべてに参加できたからです。
アムステルダムの大会には、1918年に参政権を手に入れていた英国の女性チームがミリアに賛同。IOCに不満を表明して大会への参加をボイコットしました。
女子800mの悲劇
1928年のアムステルダムオリンピックには25カ国から277名の女性アスリートが参加。アントワープ大会の4倍になりました。初めての陸上競技には95人の女性が参加。800mでは日本女子初の銀メダルを人見絹枝が獲得します。
ここで悲劇が起こっています。ゴールしたあとで女子選手が次々に倒れていったのです。酸欠による一時的症状と思われますが、女子には中距離以上は体力的に無理だと判断され、その後のオリンピックから中・長距離競技が女子のレパートリーから除外される理由となります。
ミリアの最後通告
1930年のプラハ大会、1934年のロンドン大会と女性だけの世界大会を開催して成功を収めたミリアは、思い切った勝負に出ます。ミリアが求めたのはオリンピックでの完全な女性参加です。1936年オリンピックで完全に女性の競技を統合するか、または、すべての女性の参加の権利をFSFIに譲るか、二者択一を迫るという思いきった最後通告でした。
IAAF国際陸連はミリアのFSFIと協力する特別委員会を創設。FSFIは国際女性競技の管理をIAAFに譲渡して女子のプログラムの拡大を図る事となります。その後、1936年にフランス政府がFSFIへの助成金の交付を止め活動が縮小、ミリアは会長職を辞任します。
ミリアの活動はオリンピックでの女性の参画を促し、今日のようなオープンなオリンピックへの流れを作りました。ミリアの思想と行動はフランスの女性の参政権運動にもつながったとされています。
ミリアは一度結婚しますが、子供を授かる前に夫と死別しました。1957年パリで亡くなったアリス・ミリアの名前は、生前の活動を讃えて、パリの14区の体育館のペディメントに刻まれています。
オリンピックの女子競技はアリス・ミリアが亡くなった後も時代とともに増え続けます。2000年シドニー五輪ではウエイトリフティング、2004年アテネではレスリング、2012年ロンドンではボクシング、2016年リオデジャネイロではラグビーが女子競技に採用されています。
このことを知ったらアリス・ミリアもきっと驚いたことでしょうね。
(おわり)
【付録】オリンピックの女子競技の歴史
以下では新規に加わった女子競技を大会毎に記載しています。テニス、ゴルフなどその後中断した競技もあります。
開催年度/開催都市 |
新規に加わった女子競技 |
1900年 パリ |
テニス ゴルフ 馬術 クロケット (参加者997人の中女子は20人) |
1904年 セントルイス |
アーチェリー |
1912年 ストックホルム |
水泳 |
1924年 パリ |
フェンシング |
1928年 アムステルダム |
陸上競技 体操(エキジビジョン) |
1948年 ロンドン |
カヌーとカヤック |
1952年 ヘルシンキ |
馬術 |
1964年 東京 |
バレーボール |
1976年 モントリオール |
ボート バスケットボール ハンドボール |
1988年 ソウル |
卓球 セーリング |
(1991年 |
新種目に女子部門を設けることが決定) |
1992年 バルセロナ |
柔道 バドミントン バイオアスロン |
1996年 アトランタ |
サッカー ソフトボール |
2000年 シドニー |
トライアスロン ウエイトリフティング テコンドー 近代五種 |
2004年 アテネ |
レスリング |
2012年 ロンドン |
ボクシング (全参加者のうち44%が女子選手) |
2016年 リオデジャネイロ |
女子ラグビー |
(引用の出所の違いから一部前掲の資料と異なる箇所があります)
【参照サイト】
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Alice_Milliat
https://en.m.wikipedia.org/wiki/1922_Women’s_World_Games
https://www.britishpathe.com/video/womens-olympiad
「2分で分かるオリンピック女子競技の歴史」VOGUE JAPANより
下條 俊隆
最新記事 by 下條 俊隆 (全て見る)
- 地球温暖化はもう止まらないかもしれない!灼熱の気温上昇にいまから備えるべきこととは? - 2024年11月5日
- おでこや顔のヘルペスに厳重注意!顔面麻痺・後遺症・失明の恐れがあります(ルポ) - 2024年3月3日
- GPT4のBingがヤバイ! しつこく誘うので難問ぶつけたら答えが凄かった。 - 2023年11月1日