今朝、一枚の古い写真がデスクの奥から出てきました。
数年前にハリウッドの映画会社からいただいた秘蔵写真の中の一枚です。
三人の男性が人気の無い、でこぼこの山道を走っています。
裏には英語でアテネ・オリンピック・マラソンと書いてあります。
怪しげな白黒のピンぼけ写真の正体をどうしても知りたくなって、一日かけて調べてみました。
マラソン賞品はロバ一頭・貧乏オリンピックの始まり
上の写真を見てください。
三人の男性が人気のない、でこぼこの山道を走って来ます。
後方から追いかけてくる数人の姿が小さく見えます。
震災でもあって逃げているのでしょうか。
それにしてもみすぼらしいファッションです。
身につけているのは普段の仕事着のようです。
よく見ると、足元は履き古して、つぶれたシューズです。
沿道に人影はなく、後方には小高い丘が続いています。
ここはどこで、彼らは一体何者なのでしょうか?
ネットで調べて、ついに発見しました。
JOCの公式サイトやウイキペデイアに同じ写真が小さく載っているのを見つけました。
この写真は1896年第一回近代オリンピックでマラソンを走る選手を撮影したものでした。
場所はギリシャのアテネの近くです。
JOC日本オリンピック委員会の公式サイトによれば、このときのマラソン競技は、出発点の「マラトン」からパンアテナイ競技場までの約40キロのコースを、25人の選手が走ったとされています。
フランスの教育家クーベルタンが提唱して、古代オリンピック(オリュンピア競技会)の故郷ギリシャで復活した、記念すべきオリンピック大会なのに、マラソンに出場したのはわずか25人でした。
(さらに少ない15人だったという異説もあります)
古代ギリシャの有名な逸話に基づいて創設されたマラソン競技がわずか25人で争われたとは、なんだかのんびりした話です。
マラソンには地元アテネの市民から、ギリシャの選手に大きな期待が寄せられていました。
というのも資金集めに苦労して、ようやくできあがった新しい競技場で、地元の観客を集めて行われた陸上競技では、アメリカの選手が11種目の中9種目で優勝して、肝心の地元ギリシャの選手は優勝することができなかったからです。
陸上競技の最後を飾るマラソンは、出場選手25人のうち半数以上が地元ギリシャの選手でした。
当然ギリシャ選手に大きな期待がかけられましたが、残念なことに、レースが始まるとコースの途中まで先頭はギリシャ以外の国の選手でした。
しかしレースの途中から外国選手は次々と脱落していきます。
そして残り7キロの地点でギリシャのスピリドン・ルイスという選手がトップにおどり出たのです。
ルイスは地元の大声援の中、パンアナテイ競技場に走り込み、優勝を果たします。
ギリシャ人として、マラソン競技初の金メダリストとして歴史にその名を刻んだのです。
・・実は財政難のため金メダルはなくて、優勝は銀メダル、二位が銅メダル、三位は表彰状だけだったといわれています。
JOCの公式サイトの写真を見ますと、ルイスはひげを生やしています。
ところが先ほどの写真をみても、三人の選手の中にひげを生やした男はいません。
三人の集団には二位に入ったギリシャのハリラオス・バシラコスという選手の名前が挙がっていますが、優勝したルイスの名前はありません。
この写真がトップ集団を撮したものだとしますと、ルイスは相当後ろに見える集団から追い上げて、大逆転で優勝を果たしたことになります。
ところで、ルイスはレース途中で沿道の旅籠?で、一休みをしたそうですよ。
ルイスは旅籠から差し出されたチーズを食べ、ワインまで飲んでいます。
ギリシャではワインは水代わりですから、すこしくらい飲んでも、どうってことなかったのでしょうね。
もしかすると、先頭の海外の選手はギリシャの市民から上手にワインを飲まされて、酔っ払ったあげくにレースから脱落したのかもしれません。
レースの記録は一位のルイスが2時間58分50秒、二位のバシラコスが3時間6分3秒と、あたりまえですがオリンピック新記録でした。
ワインまで飲んで、超難所と言われたでこぼこの山道を3時間前後で走ったのですから、立派な記録です。
ルイスが競技場に入ってくるとギリシャの王ゲオルギオス一世は大喜びして、ルイスの功績を称えました。
ゲオルギオスはルイスに褒美として何が欲しいかと聞いたところ・・・羊飼いの仕事をしていたルイスは「ロバを一頭・・水を運ぶ助けにいたします」と答えたとされています。
褒美に「荷馬車をもらった」という説もあります。
ロバと荷馬車の両方を褒美としてもらったとしたら、ルイスの水運びの仕事はとても楽になったでしょうね。
どちらにしても記念すべきオリンピック大会としては、驚くほどささやかな賞です。
でもなんとも平和で、ほほえましくて、良いお話じゃありませんか?
英雄になったルイスは、他にもギリシャ中からいろいろなプレゼントを贈られたと言われています。
ウィキペデイアによれば貴金属といった高価なものから、一生無料で髭をそってもらえる床屋からの特別優待券まであったそうです。
ほっこりする話です。
今なら、日本選手が地元で開催されるオリンピック・マラソンに優勝したら、一億円を超える報奨金が出るかもしれません。
近代オリンピックのスタートは、古代ギリシャの有名なエピソードから作られたマラソン競技でさえ、選手はこんな貧乏な服装で走って、王様からの優勝の報償はロバ一頭とか荷車一台だったということです。
第一回近代マラソンは貧乏マラソンだったのです。
フランスのクーベルタン男爵の提唱で実現した近代オリンピック、その開催地ギリシャは、当時、政府の財政が火の車でした。
ギリシャの王、ゲオルギオス一世の後援と世界の有力者から寄付を集めて、なんとか新しい競技場が新設され、大会はスタートしますが、目標のお金が集まらずに関係者は大変な苦労をしたのです。
陸上競技の華、マラソンがでこぼこ道の山道を走ったのなら、もう一つの花形競技、水泳の方はどうだったのでしょうか?
そもそも、第一回近代オリンピックで水泳競技は行われていたのでしょうか?
なんだか心配になってきて、詳しく調べてみました。
アテネ・オリンピックにプールはなかった!水泳競技は海の中だった。
調べてみて驚きました。
水泳競技は海の中で行われていたのです。
トライアスロンは海の中の水泳から始まりますが、競泳競技はプールに決まってます。
実はその頃、プールなんていう贅沢な施設はどこにもなかったのです。
古代ギリシャのオリンピックでは水泳競技はなかったのですが、水泳そのものは盛んで、川の中で水泳の訓練なども行われていました。
近代オリンピックではじめて水泳が競技として設けられたのです。
競泳コースはアテネの港町ピレウスのゼーアという湾の中に作られたものでした。
公式の記録として、小さな古い白黒のピンぼけ写真が一枚残っていますが、海の中に桟橋のようなものが写っています。
レースのためのコースの枠組みか、ゴール地点として作られたのではないかと推測されます。
レースの記録も残っていますので、桟橋の上に審判員や記録係がいたのでしょう。
レースは、自由形100m、500m、 1200m、水兵による100mの4競技でした。
多分仕切られた海の上を何回か往復して、スピードを競ったのでしょう。
競泳が行われた1896年4月11日の海水の温度は摂氏12度、波の高さは4mだったという記録が残されています。
マラソンには最適の季節だったでしょうが、水泳には厳しい季節で、海水は冷水でした。
一度12度のお風呂に浸かってみてください。
おちんちんも縮み上がりますよ。
(オリンピックは古代も近代アテネも選手はまだ男性に限られていました)
そのうえ4mという荒波を乗り越えて、戦ったのです。
マラソンではワインを飲んで、つまみにチーズまで食べながら、優雅に走ったのですから、天国と地獄、雲泥の差です。
一体どんな選手が泳いだのでしょうか。
競泳は4レースとも自由形とされています。
自由形とはなんでしょう。
平泳ぎでしょうか、背泳ぎでしょうか、バタフライでしょうか、クロールでしょうか?
実は、あの頃、人間の泳法は動物の犬かきに似た平泳ぎだけだったのです。
人間の泳ぎは動物が犬かきで泳ぐのを見習って始めたとされています。
犬かきは両手を交互に前後して、水面下で推進力を得ます。
平泳ぎは両手を同時に身体の側面で前後して推進力を得ます。
足はカエルのように水を挟みます。
昔はカエル泳ぎと言っていました。
平泳ぎは犬かきより効率的なのです。
平泳ぎは人間にしかできない技なのですよ。
わんちゃんやニャンコも、牛も象も皆犬かきです。
平泳ぎではありません。
どうしてでしょう?
試しに、お宅のわんちゃんの前足(人間の手にあたります)を側面に曲げてみてください。
飼い主といえども、そんなことをしたらワンコに噛みつかれますよ。
動物は、4本とも足であるので、前足も関節の都合上、横には動きません。
前足(手)を横に動かせるのは人間とお猿さんぐらいです。
だから動物は川や池や海で泳ぐとき、平泳ぎではなくて、犬かきをします。
筆者の父は、元・大阪の天王寺動物園長でしたから、その血を引いている私の見解は正しいのです。
ということで当時の自由形は全員が平泳ぎでした。
海がこれだけの波の高さと低温では、顔を水につけるクロールがまだなくて、顔を水につけないで泳げる平泳ぎだけだったので、選手に取っては都合がよかったのかもしれません。
厳しい自然の中で生活する動物が顔を水につけない犬かき専門なのにも、それだけの理由があるのです。
ところで、そんな厳しいレースを勝ち抜いたのはどこの国の選手だったのでしょうか?
競技には4カ国から19人の精鋭が参加して争われました。
厳しい条件の中で、100m と1200m、自由形の両方で優勝した選手が現れました。
地元ギリシャではなくて、ハンガリー・ブタペスト生まれ、18才のハヨーシュ・アルフレッドという選手です。
ウイキペデイアに彼のエピソードが詳しく紹介されていました。

アテネ水泳100m1200m優勝 ハヨーシュ・アルフレッド
彼が13才のときに父親がドナウ川で水に溺れて亡くなりました。
失意の彼は、水泳を覚えて一流の競技者になろうと決心します。
その時名前を元のアルノルトからハヨーシュに改名しますが、ハヨーシュとはハンガリー語で「船乗り」を意味します。
そしてハヨーシュは夢を実現したのです。
アテネで二つの金メダル(事実は銀メダル)を手に入れたハヨーシュは勝利の晩餐会で、ギリシャの王太子コンスタンティノスから・・
「君はその素晴らしい泳ぎをどこで学んだのか?」と聞かれ・・
「水の中でございます」と答えます。
このときから、ハヨーシュのあだ名は「ハンガリーのイルカ」となったのだそうですよ。
ハヨーシュはブタペストの大学で建築を学んでいましたが、大学に戻ったとき学部長は「私はあなたのメダルになんの興味も無いが、次の試験についての返答を聞きたい」と言ったそうです。
その言葉を弾みにしたのか、彼はパリで行われた第二回近代オリンピックの芸術競技にコンペ参加をして、スタジアムの建築プランで事実上の優勝を果たします。
そのあとハヨーシュがデザインした水泳競技場がブタペストに1930年に建てられ、ハヨーシュ記念競技場として、現在も大きな大会で使われています。
ハヨーシュは水泳と建築という二つの人生のフィールドを、見事にまとめ上げた天才なのでした。
マラソンの初代オリンピックチャンピオン、スピリドン・ルイスは1940年3月26日に67才でその生涯を閉じ・・
また、水泳競技の初代チャンピオン、ハヨーシュ・アルフレッドは1955年11月12日に77才で亡くなっています。
二人の名前とそのエピソードは、オリンピックの歴史と共に永遠に語り継がれていくことでしょう。
