競泳はセーヌ川! マラソンは炎天下! 1900年パリ五輪は万博の付録だった?

1900年、日本では鹿鳴館が華やかにその姿を現した明治33年、パリでは万国博覧会が開催されていました。

エッフェル塔が建てられ、街には地下鉄が走り、4700万人の人々がパリに詰めかけます。

一方で、その年、混雑するパリではなんと第二回近代オリンピックが同時開催されていたのです。

第一回近代オリンピックは、1896年にアテネで行われ、厳しい財政の中にもかかわらず大成功を収め、ギリシャは大きな名声を勝ち取りました。

(アテネで行われた第一回近代オリンピックについては、下記の記事をご覧ください)

マラソン優勝賞品はロバ一頭/水泳は海の中/第一回 近代オリンピックは貧乏だった!

ギリシャの王ゲオルギオス一世はオリンピックは自分たちの国技であり、永遠にギリシャのアテネで行われるべきであると主張します。

しかし、IOCは、開かれた近代オリンピックは毎年異なる場所で行うべきであるとして、ギリシャの猛反対にもかかわらず第2回大会をパリで開催することを決めました。

フランス人で、オリンピックの提唱者であったクーベルタン男爵は、オリンピックは世界に開かれたスポーツと平和の精神に基づいて、世界のすべての国が順番に開催するべきであると思っていました。

(クーベルタン男爵)

もともとクーベルタン男爵は第一回近代オリンピックは自国のフランス、パリで開催したいという考えを持っていたと言う説があります。

クーベルタンは1894年にパリで行われた万国博覧会のときに、スポーツの国際会議を開き、この構想を主張しますが、これに反対したのが後にIOC国際オリンピック委員会の初代会長になったディミトリウス・ヴィケラスというギリシャの財界人です。

彼は第一回近代オリンピックはオリンピック発祥の地であるギリシャで開催するべきであるという意見でした。

会議では討議が続きますが、ヴィケラスの説得により、第一回オリンピックはギリシャのアテネで二年後に開かれることになり、彼は発足したIOCの会長に就任します。

IOC会長は次期開催地から選ばれるべきであるというIOCの考えに基づくものでした。

第一回近代オリンピックがアテネで無事終了しますと、クーベルタン男爵は、さっそく第二回オリンピックをパリで開催するための準備を開始します。

アテネ大会が終わるや否や、彼はIOCの2代目の会長に就任しているのです。

もともとオリンピックの提唱者である男爵が、IOC会長に就任することで、次回の開催をフランスのパリで行うことを決定的にしたのです。

IOC初代会長 デイミトリウス・ヴィケラス 

       ギリシャ 1894~1896

第二代会長 ピエール・ド・クーベルタン男爵

       フランス 1896~1925

・・アテネ・オリンピック開催の年、1896年に会長が入れ替わっています。

一方、資金集めに奔走して、第一回アテネ・オリンピックを成功に導いたギリシャの王ゲオルギオス一世は、オリンピックは古代オリンピックが行われたギリシャ固有のものであり、永遠にギリシャで開催されるべきであると主張していました。

見解も利害も対立するクーベルタン男爵とゲオルギオス一世の間には、第二回開催地を巡って激しい確執があったと思われます。

ギリシャの王の強い反対にもかかわらず、第二回近代オリンピックは、クーベルタンの生まれ故郷、フランスのパリで1900年に開催されることになりました。

ところが驚いたことに、パリでは国際博覧会(万博)を1900年に開催する計画が進んでいたのです。

万博と、オリンピックという二つの世界規模のイベントが同じ年に同じ街で計画されたのです。

博覧会の歴史は近代オリンピックよりも古くて、パリだけでもそれまでに四回の国際博が実施されていました。

そのうえ、1900年は19世紀最後の年で、国際博にとっても、新しい20世紀への幕開けを祝う重要な意味を持つ年でした。

パリでは、世紀の変わり目にあたり、フランスの芸術性を表現したコンセプトに基づいて、史上最大の規模の博覧会が計画されていました。

・・紆余曲折の末、万博と五輪はそれぞれ独立したプロジェクトとして運営されるのではなく・・

オリンピックは「万博の付属国際競技大会」として実施されることになったのです。

近代オリンピックは、まだまだスタートしたばかりの黎明期にあたり、国際博覧会に付属した競技大会として併催されたことで、その運営はたいへんな混乱の中で行われることになりました。

パリは大混乱/オリンピックの水泳はセーヌ川で行われた!

さて、パリ万博の期間は4月14日から11月12日まで半年以上にわたって行われ、4800万人という博覧会史上最多の来場者がパリにやって来ました。

万博会場はエッフェル塔がそびえるパリの中心部で、セーヌ川を挟んで開催されました。

これはエッフェル塔、セーヌ川を含む万博会場のパノラマ図です。

(ウイキペデイアより)

そんな中、併催されたオリンピックは5月20日に開会式が行われ、10月28日に閉会式が行われています。

5ヶ月という長期にわたって、混雑を極めたパリ万博と一緒に実施されているのです。

競技数が増え、参加国が増えた現在でも夏季オリンピックの競技の期間はコンパクトに16日以内で行うことになっています。

開催が5ヶ月間に分散していたパリでは、競技の運営は大変で、混乱を極めたようです。

ところで、アテネで採用された水泳競技は、どこで行われたのでしょうか?

アテネでは港町ピレウスのゼーアという湾で行われましたが、パリには海はないので街の真ん中を流れるセーヌ川で実施されていました。

自由形は三種目に増え、200m、1000m、4000m それに200m背泳ぎなどが加わっています。

アテネでは自由形は平泳ぎがメインでしたが、パリでは背泳ぎが自由型から分離されています。

平泳ぎを裏返して始まった新しい泳法の背泳ぎは、平泳ぎよりスピードが出るので、自由形から分離して、別の競技にしたのです。

自由形が形にとらわれないで、スピードを競うのであれば、逆に平泳ぎを分離して独立するべきだと思われますが・・。

競泳の関係者は、伝統ある平泳ぎをメインの泳法として大事にしたのだと言われています。

ところでパリを流れるセーヌ川は、ヨーロッパの上流から水を集めて、ゆったり流れる大河です。

大会の関係者は大河の中にどんなコースを作ったのでしょうか?

フレデリック・レーン200m自由形、200m障害優勝(ウイキペデイア)

この写真は200m自由形に優勝したオーストラリアのフレデリック・レーンの写真です。

レース直後か直前の写真と思われますが、となりの男がフレデリックの肩に手をかけて、優勝を祝福しているようにも見えます。

フレデリックは自信たっぷりの様子です。

ウイキペデイアによれば、レースはセーヌ川の川上から川下に向かって行われたと伝えています。

陸上競技では「追い風3m」とかいいますが、追い風が強いと、公式記録としては認められません。

セーヌ川では追い風どころが、水そのものが動いているのですから、とんでもなく早い記録が出たようです。

これでは参考記録にもならなかったでしょう。

日本の逸話に「河童の川流れ」という言葉があります。

いくら泳ぎが上手な河童でも、「速い流れの川では流されてしまうので気をつけろ」という警句です。

セーヌ川は落差が少なくて、流れもゆったりしているように見えますが、水量も多くて選手は大変だったことでしょう。

ところで、写真のフレデリックは200m障害にも優勝したと記録されていますので「水泳選手が陸上にも出場したのか?」と驚いて調べたら、全くの勘違いでした。

水泳の競技になんと、障害レースが新設されていたのです。

セーヌ川の中にどんな障害物を設けたのでしょうか?

このとき、セーヌ川の両岸の万博会場を結んで、アレキサンドル三世橋が記念に架けられた(上記の写真に工事中の橋の写真が写っています)と言うことですから、新しい橋桁のまわりを泳いで何周もしたのでしょうか。

どうやらそうではなくて、セーヌ川に浮かぶものは何でも障害物にしたのです。

浮かんでいるボートや、水面に突き出しているポール、それに小さな船、何でも障害物だったとされています。

パリの次に行われた米国セントルイス・オリンピックの競泳記録を調べてみましたが、障害レースの記録はありません。

競泳の障害レースは一体どんな目的で設けられたのでしょうか?

おそらく観客を喜ばすためのショー・イベントだったと思われます。

パリ・オリンピックでは、これ以外にも、オリンピック史上一度きりで終わった種目がいっぱいあります。

面白い競技としては、「綱引き」があります。

綱引きはスポーツ種目として許容範囲内でしょうが・・

「凧揚げ」に「魚釣り」まで実施したと記録に残っています。

古代ギリシャのオリンピック選手が、もしもパリにやって来て、オリンピック選手が凧揚げや魚釣りをしているのを見たら、大笑いしたことでしょう。

鳩を打ち落とす射撃競技から伝書鳩競技、熱気球の競争まで行われました。

日経BPの記事によりますと・・

「1990年のパリ・オリンピックは空前絶後の数の公開競技が実施されたがその好例が熱気球レースである。

あまりにも多くのイベントが開催され、どれがオリンピック種目か判断できないほどだった」という国際オリンピック史学会の元会長ビル・ロマン氏の言葉を紹介しています。 

万博のイベントなのか、オリンピック競技なのか、観客にも区別がつかなかったのです。

これではまるでパリの夏祭りじゃありませんか?

オリンピックは万博の共催イベントとして方々で開催されたために、IOCやクーベルタン男爵(IOC会長)の目も、陸上競技で精一杯で、そのほかの競技までは行き届かなかったのです。

水泳競技に話を戻しますと、オリンピックの歴史上、いつ頃から競泳が海や川ではなくて、正式の競技プールで行われるようになったのでしょうか。

1904年の第三回オリンピックはセントルイスで行われましたが、水泳競技は人造湖が会場だったと記されています。

セントルイスの次の第四回ロンドンオリンピックではじめて競泳用のプールが作られていました。

陸上競技場のフィールドに100mプールが設けられたのです。

このとき、競泳の自由形では、平泳ぎではなくて、クロールがメインな泳法になっています。

自由形は高速泳法のクロールの時代に移り、平泳ぎは独立した種目として別立てにされました。

オリンピックの水泳会場は・・アテネの海から、セーヌ川、セントルイスの人造湖、ロンドンの競泳用のプール・・と、新しい泳法の出現と共にその形を変えていったのです。

ところでパリでは、万博で混雑する中、陸上の花形マラソンはどのように行われたのでしょうか?

マラソンは炎天下のパリで行われ、脱落選手が続出した!

マラソンは1900年の夏、7月19日午後の2時半にスタートして、選手はパリ市街の40.26kmのコースを走りました。

その時の様子が「The Sankei News」のサイトに出ていました。

記事によれば、科学誌「ジャーナル・オブ・スポーツサイエンス」のデータを元にして過去のオリンピック・マラソンを調べた結果、1990年のパリオリンピックが、五輪史上もっとも過酷なレ-スだったと結論づけています。

その日、気温は35~39度まで上がり、半数を超える選手が体力を使い果たして、途中で棄権しています。

優勝はミッシェル・テアトというフランスの選手で、記録は2時間59分45秒でした。

彼はパリのパン職人で、パリの裏通りをよく知っていて、途中で近道をしたのではないかと、一部の選手からクレームがついたそうです。

それにしても、選手がコースから外れたら、沿道の観客や警備員から注意される筈ですよね。

ということは、このときのマラソンは、沿道にロープが張られたり、観客が整然と応援していたりと言った風景はなかったということになります。

沿道に観客はいなかったのでしょうか?

マラソン選手がコースを走っている一枚のピンぼけ写真が見つかりました。

1900年パリ・マラソンと書いてあります。

これは先頭集団でしょうか?

選手三人を囲んで、観客?が自転車で走っています。

右後ろの自転車には、関係者を示す腕章らしいものを付けた男がいます。

これだけ自転車に囲まれていては、選手はとても走りにくそうです。

コース管理が行き届いていたとはとても思えません。

三人の先頭を走る縞模様のシャツの男は、優勝したミッシェル・テアトでしょうか?

優勝したテアトの写真では彼は縞模様のシャツを着ています。

いずれもピンぼけ写真なので、同一人物かどうか不明です。

いずれにしてもテアトのマラソン記録は公式記録として現在も認められているのです。

マラソンは40キロを超えるレースですから、もともとコースの管理がたいへんです。

そのうえ、万博との併催でしたから、競技の管理も混乱を来したのでしょう。

・・ところで、パリ・オリンピックのあとも、マラソン競技における選手のレースには疑惑がついて回りました。

パリの次に行われた米国のセントルイス・オリンピックでは、マラソンの優勝ランナーについて有名なエピソードがあります。

ここでも炎天下の中、マラソン選手たちが次々と倒れていったそうです。

自国アメリカの選手がトップで競技場に入ってきて、大きな拍手に迎えられます。

しかし、そのあと一人の男が後を追いかけてきて、審判員にあることを話します。

「暑さで倒れていた選手を一人、介抱して車に乗せて運んでやった。ここへ来る途中でエンストしたもんで選手は車から降りて走って行った。それがあの男だ」

地元アメリカの選手は失格となり、この一件は「キセル事件」として有名になり、選手は名誉を失うことになります。

ゲオルギオスの執念/アテネに再びオリンピックを!

ヨーロッパのパリを離れて、アメリカ大陸に渡ったオリンピックは、セントルイスから再びヨーロッパに戻り、英国のロンドンで第三回大会が開催されることになりました。

IOC国際オリンピック委員会はクーベルタン男爵の提唱の元に、1894年の会議で「オリンピックは世界の国が持ち回りで開催し、四年に一度行われるものとする」ことに決めていました。

オリンピックがオリンピック発祥の地、アテネに戻る気配はありませんでした。

その頃、アテネでは、ギリシャ経済の復興に力を入れたギリシャの王ギオルギオス一世が、かっての執念を燃やし続けていました。

(ゲオルギオス一世)

「オリンピックはギリシャ固有の祭典であり、永遠にアテネで開催されべきである」と主張していたのです。

ギリシャの王ゲオルギオスは、一計を案じます。

四年に一度、持ち回りで行う世界に開かれたオリンピックなら、その真ん中の年には原点に戻り、オリンピックの発祥の地ギリシャのアテネで開催されるべきである、と世界に訴えたのです。

もちろん冬のオリンピックではなくて、夏期オリンピックのことです。

そしてこの訴えは1906年に「幻のオリンピック」としてアテネで実現されることになります。

   (続く)

(この記事は、主にJOCの公式サイトとウィキペデイアを参照して編集しました)

          

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下條 俊隆

下條 俊隆

ペンネーム:筒井俊隆  作品:「消去」(SFマガジン)「相撲喪失」(宝石)他  大阪府出身・兵庫県芦屋市在住  大阪大学工学部入学・法学部卒業  職歴:(株)電通 上席常務執行役員・コンテンツ事業本部長  大阪国際会議場参与 学校法人顧問  プロフィール:学生時代に、筒井俊隆姓でSF小説を書いて小遣いを稼いでいました。 そのあと広告代理店・電通に勤めました。芦屋で阪神大震災に遭い、復興イベント「第一回神戸ルミナリエ」をみんなで立ち上げました。一人のおばあちゃんの「生きててよかった」の一声で、みんなと一緒に抱き合いました。 仕事はワールドサッカーからオリンピック、万博などのコンテンツビジネス。「千と千尋」など映画投資からITベンチャー投資。さいごに人事。まるでカオスな40年間でした。   人生の〆で、終活ブログをスタートしました。雑学とクレージーSF。チェックインしてみてくださいね。

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