クーベルタン男爵が提唱した近代オリンピックは、古代ギリシャのオリンピックの平和主義とアマチュア精神を手本にしたとされています。しかし、史実によれば古代オリンピックの実態はクーベルタン男爵が描いた理想のイメージとは異なっています。
オリンピアで男性が裸で戦ったのは有名な話ですが、その背景に破廉恥な習慣がありました。アマチュア精神とかけ離れた優勝者への特別待遇や、“聖なる丘”の劣悪な環境、ネロ皇帝の虚栄心など「実は破廉恥な6つの裏話」をご紹介します。
目次
古代ギリシャのオリンピックとは?

古代オリンピック 陶器・壺
そもそも古代ギリシャのオリンピックとはどのような大会だったのでしょうか?
古代オリンピックが誕生したのは、紀元前6世紀から4世紀にかけて、古代ギリシャの栄光の時代でした。伝説的な話では紀元前776年にギリシャのオリンピアで始ったとされています。日本では神武天皇が国を開いたと伝承されるのが紀元前660年ですから、その100年も前にギリシャではスポーツの祭典であるオリンピック大会が開催されたことになります。
古代オリンピックは西暦393年まで12世紀ものあいだ、ゼウスの神に捧げる平和の祭として、4年に1度行われ、合計では293回の大会が開催されました。大会の開催を挟む3か月の間はアテネやスパルタなど都市国家間の戦争が禁止されたので、ギリシャ中から熱心な観客がオリンピアに向けて歩いて集まったとされています。
西暦392年、ギリシャを支配していたローマ帝国がキリスト教を国教とした事で、異教であるゼウスを崇めるオリンピックは、その翌年の393年に禁止され、長い歴史を閉じます。
近代五輪のお手本「古代ギリシャオリンピック」実は破廉恥な6つの裏話
それでは、クーベルタン男爵が近代五輪のお手本とした「古代ギリシャのオリンピック」の実は破廉恥なエピソードを6つ紹介します。
エピソード1 選手はなぜ裸で戦ったのか? 青少年教育の一環?

総合格闘技コンテスト「パンクラチオン」を示す紀元前530年頃のギリシャの壷。右側のアスリートは、服従のしるしとして人差し指を上げています。
古代オリンピックで選手が裸で戦った理由は、競技中に一人の走者の腰布が外れ、つまずいて競争できなくなったことがきっかけで、他の選手も腰布を外して走ることにしたからだという説があります。それ以外に、不正を防ぐために裸になったという説や、すべてをさらけ出して戦うのがギリシャ市民の平等の精神であったという説など、いろいろとありますがその真相は不明です。
裸体はギリシャ文化の特徴です。古代オリンピックも含めて肉体の顕示はギリシャの文化の最大の特徴とされています。
実は、古代ギリシャのスポーツの世界では思春期に達する前の少年を指導するという大義の下に、練習が裸で行われ、指導者と少年との性的な関係が一般化していたとされています。
文化的都市国家の始まりといわれる古代ギリシャで、このような行為が教育の一環として社会的に認知されていたというのには驚きます。
エピソード2 裸で戦った屈強な男性たちの姿を、なぜ未婚の女性は観覧が許されたのか?

裸で走るアスリート
IOC公式
古代オリンピックでは、競技で戦うのは男性のみで女性は競技に参加することができません。既婚の女性は競技場に入ることも観覧することも禁止されていましたが、若い女性や未婚の女性に限って観覧することが許されていました。若い男性の裸を婚前の若い女性が見ることを禁じるのが常識とされそうですが、事実は逆でした。
実は、若い娘の父親がオリンピックの優勝者と娘を結婚させたいという下心から、ルールを破って娘を会場に連れてきたのが始まりという説があります。オリンピックの優勝者はそれほど娘の結婚相手として理想的だったということです。
親心はいつの世も同じです。オリンピックの優勝者と結婚できれば、可愛い娘には生涯、裕福な生活が約束されたのでしょうね。
エピソード3 古代オリンピックの優勝賞品はオリーブの花輪と名誉だけ!は大間違い!
古代オリンピックはアマチュアリズムのお手本のように語られることが多いです。近代オリンピックからプロ選手を厳しく排除したクーベルタン男爵は、「古代オリンピックのアスリートは高貴なアマチュアであって、運動能力を現金で売るような下品なことはしなかった」と主張しています。
実は、古代ギリシャにはアマチュアとかプロといった区別はなかったのですが、優勝者が自国に凱旋すれば英雄として迎えられ、特別な待遇が待っていました。豪華な無料の食事、現金の提供、税の優遇などがあり、一生豊かに暮らすことができたとされています。古代ギリシャの植民地イタリアのクロトン(Crotona)ではオリンピック優勝が目当ての競技者を育てる専門の学校と施設まであったのです。
エピソード4 オリンピアの聖なる丘/実は不衛生で蠅だらけ、水不足で熱射病、大量の死者が出た!
大会の行われたゼウスの神域であるオリンピアは一般の観客にとって苦難の場所でした。都会であるアテネからオリンピアまで340キロも離れていて、東京から名古屋に相当する距離を数日かけて歩かないといけません。到着してもオリンピアにはVIP相手の簡易な宿泊施設しかなくて、一般の観客は不潔で過密なキャンプで過ごすしかなかったのです。
競技場は草で覆われた低い丘があるだけで、観客席や日よけの天井がなく、きれいな飲み水の不足と熱射病が待ち受けています。トイレや衛生施設もなく、悪臭が立ちこめ、病が流行ると多くの死者が出ました。
汚くて低い丘でしたが、そこはゼウスが父親とレスリングをした聖なる場所であり、神々もオリンピックの競技に参加して戦っていると考えられていました。オリンピアはギリシャの人々にとっては神の中の神であるゼウスの気配が感じられる美しい聖地でした。
エピソード5 破廉恥などんちゃん騒ぎ! 儲けたのは誰?
会場周辺では、若い学生たちが中心になって、ゼウスに捧げられた猪や牛の肉を食べ、酒を飲んでどんちゃん騒ぎが連日繰り広げられます。
実は、集まった男性の観客を目当てに地中海の方々から売春を目的にした女性が集まっていました。彼女たちはオリンピック開催のわずか5日間で1年分のお金を稼いだとされています。
また、古代オリンピック大会には、競技場への入場料がありません。大会を主催したのは貴族たちで、ギリシャ最大の宗教的行事に名誉をかけて働くことが目的で、金儲けは二の次でした。
実は、儲けたのは上手く便乗した事業家や、地元の農家や宿泊の提供者などいわゆる付帯事業を行った人達でした。現代で言えば、観光やインバウンド事業といったところでしょうね。
エピソード6 皇帝ネロの虚栄心のおかげでオリンピックが文化的イベントに?
古代オリンピックは、紀元前2世紀半ばから廃止となる393年まで、500年以上ものあいだローマ帝国の支配下で開催されていました。
ローマ皇帝はオリンピックに一般の競技者として出場することを規則で禁じられていましたが、第5代ローマ帝国の皇帝ネロはオリンピックに参加したくてたまりません。西暦67年、ネロは自ら規則を修正してオリンピックのメイン競技である数頭立ての戦車レースに出場します。
ルールにより戦車を引く馬は4頭と決められていますが、ネロは10頭立てで参戦。御者として太りすぎのネロは訓練不足も原因で、レースを開始して最初のターンの途中、10頭の制御ができずに投げ出されて瀕死の重症を負います。完走できなかったネロですが、強引にレースの勝利者としての栄誉を手に入れたとされています。
また、皇帝ネロは自分自身を詩人でありパフォーマーであると考えたため、スポーツの祭典であるオリンピックに芸術的な競技を新たに付け加えました。竪琴の演奏、トランペット、紋章コンテスト、演技と歌を競技として創設。ネロは競技のいくつかに参加し優勝しました。
ポルトガルギターの弾き語りでファドの原型と言われる“ギターラ歌手”として舞台に立った皇帝ネロ。そのパフォーマンスは聞くに堪えない代物で、観客は会場を逃げまわったとされています。もちろんネロはパフォーマンスのチャンピオンとして表彰されました。
ローマ市民は皇帝のオリンピック参加を是とせず、日頃から暴挙を行うネロを殺害する計画を秘かにたてていました。これを知ったネロ皇帝はギリシャからローマに変装して帰国しますが、燃え上がった市民の怒りから逃れられない運命と知り、覚悟を決めます。皇帝ネロは、過酷な死刑執行を避けるために西暦68年6月9日、自らの喉を切り裂いて命を絶ちました。
ネロの虚栄心のおかげでしょうか、古代オリンピックの精神を引き継いだとされる近代オリンピックでも、大会の開催都市ではスポーツ競技以外に、“アート・ウイーク”として地元の文化イベントが伝統的に併催されています。
おわりに
古代オリンピックには、興味深い裏話やエピソードがまだまだ隠されています。戦ったアスリートの汗は、媚薬として売られていたという説もあります。
古代オリンピックの裏話をこれからも探して参りますので、楽しみにしていてくださいね。
(おわり)
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下條 俊隆

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