1904年セントルイスオリンピックは万博の余興?史上最悪のマラソンレースを再現 !

はじめてヨーロッパから離れ、アメリカのセントルイスで行われた第3回オリンピックのマラソンは、史上最悪のレースとして歴史に残されています。1位でゴールしたアメリカのフレッド・ローツ選手が、途中で自動車に乗って距離を稼いでいたという「キセル事件」が起こったのです。ウイキペディアによればローツ選手は不正を糾弾されて、優勝を取り消され、マラソン界から追放を命じられたとされています。

フレッド・ローツ

このあと処分は軽減されますが、ローツは意図してこのような不正を働いたのでしょうか?それとも疲れ切ってレースを諦めた上での冗談だったのでしょうか? 

じつはセントルイスオリンピックは、ルイジアナをフランスから買い取った100周年を記念した万国博の一環として行われました。お祭り騒ぎのフェアーの影響で、オリンピックも本来の精神や趣旨から少し外れてしまったのです。

アメリカの歴史を語るスミソニアン博物館の公式サイトに掲載された記事を主なベースにして、セントルイスオリンピックのお祭り騒ぎのイベントと最悪のマラソンレースを再現してみました。

セントルイスオリンピック1904年 史上最悪のマラソンレース

オリンピックは万国博覧会の余興だった?

セントルイスオリンピック
(ポスター)

写真は1904年セントルイスオリンピックのポスターです。「五輪」のシンボルマークが開発されたのは1920年大会からで、ここではまだ使われていません。

ポスターの下半分をご覧ください。「万博 ルイジアナ購入博覧会」と記されています。

じつはセントルイスのオリンピックは、万国博覧会と併催しているイベントでした。万博はアメリカがルイジアナをフランスから購入した100周年を祝い、「アメリカの世紀」を唱い上げる幕開けイベントでした。オリンピックは万博の一環として催されていたのです。

「人類学の日」と呼ばれるスポーツイベントが“民族の体力測定”を目的としたオリンピックのゲームとして行われました。万博会場に作られた「国際的な村」(アメリカインデアン村やフィリピンの原住民の村、日本のアイヌの人を集めた村)から選手が募集されて、少数民族の体力を測定するという名目のもとに、白人の観客に向けた余興としてゲームを競わせたのです。

日本からはアイヌの人達がアイヌ村の展示物として(陳列)されていたと記録されています。日本は当時日露戦争のただ中でしたが、万博に“芸術的催し”で参加しています。オリンピックに参加するのは第5回ストックホルム大会からで、このオリンピックには参加していません。

「人類学の日」のゲームは、グリースポールクライム(あぶらを塗った棒登り)、ジャベリンコンテスト(やり投げ)、エスニックダンス、泥投げなどを競技として白人の観客に見せたのです。このような競技が体力測定などという科学的な調査目的で行われたはずがなく、「人類学の日」のゲームには人種差別的な発想が背景にあるとして、後々までの批判の的になりました。

ジャベリンコンテスト
Javelin contest during the Anthropology Days. Photo: St. Louis Public Library (www.slpl.org)

写真はやり投げコンテストの風景です。

近代オリンピックの創始者で、IOCオリンピック委員会のクーベルタン委員長は「人類学の日」の競技を見て茫然自失して言ったのです。

「(オリンピックの競技のように)走って、ジャンプして、投げて白人を後塵にすることを覚えなさい!」と。

マラソンのスタートラインに集まった有力選手と不思議な選手たち

オリンピックのマラソンは、ギリシャの古代オリンピックの伝統を引き継いで、近代オリンピックの精神を示す象徴的なゲームといわれています。しかし1904年セントルイスのマラソンは競技を競い合う崇高な精神というより、万博のフェアー「お祭り」の雰囲気に近いイベントになっていました。

有力選手はボストンマラソンの優勝者や入賞者でしたが、ほとんどは中距離のランナーや足が自慢のアマチユアの人達でした。

アメリカ人の有力選手はサム・メラー、ニュートン、ジョン・ロードン、トーマス・ヒックスなど、マラソンの経験者です。

アメリカ人のフレッド・ローツは、普段はレンガ職人で昼に働き、夜間にトレーニングを積んでいました。アマチュアのローツはアマチュアアスレチックユニオンが主催する「特別な5マイルレース」に出場して、本戦への出場権を手に入れたという経歴の持ち主です。このローツ選手がレース途中の“キセル走行”でルール違反とされ、代わってトーマス・ヒックスが優勝者として表彰されることになります。

スタートラインにひとりのキューバ人が現れました。フェリックス・カルバジャルという名前のもと郵便配達員です。郵便配達で鍛えた足でキューバ中をトレッキングしながら、デモンストレーションをしてセントルイスまでの旅費を集めました。ニューオーリンズに着いたカルバジャルはサイコロゲームに手を出して、全財産を失います。困った彼はセントルイスまでヒッチハイクをしてなんとかたどり着いたのです。

スタートラインに現れた彼は、ベレー帽をかぶり、白い長袖のシャツに、普通のストリートシューズを履いていました。濃い色の足元まで届く長いズボンは、とてもマラソンランナーに相応しいとはいえない代物。見るに見かねたオリンピアンのひとりがハサミを探して、カルバジャルのズボンの膝から下を切り落としました。

フェリックス・カルバハル Cuban marathoner (and former mailman) Félix Carbajal Photo: Britannica.com

写真は半ズボンになった小柄なカルバジャルです。二日間なにも食べていなかった彼は腹ぺこでレースに挑み、ガンバって4位でレースを終えることになります。

スタートラインに不思議な選手が二組現れました。長距離のマラソンは一度も走ったことがないというギリシャ人が10人。裸足でスタートラインに立った南アフリカのツアナ族が二人です。ツアナ族の二人は博覧会の「南アフリカ世界フェア」に展示物として参加していたのですが、なぜかオリンピックのマラソンに裸足で駆けつけたのでした。

南アからマラソン参加の二人。一人は裸足。

人間が走った、史上もっとも過酷なマラソンレースが始まった!

1904年のオリンピックマラソンレース(ミズーリ歴史協会)

1904年8月30日午後3時30分にレースがスタートしました。大勢の米国人、10人のギリシャ代表、キューバが一人、そして南ア(RSA)の黒人二人を含めて4カ国の代表32人がまず競技場を一周します。

競技場を一周する選手達

競技場を一周する選手達です。20番を付けているのが優勝したトーマス・ヒックスです。温度は33度と1日で1番暑く、湿度の高い時間を選んでいます。そして水の補給箇所はコースでただ一つ、11マイル地点の井戸に限られました。(6マイルの給水塔と12マイルの井戸の2カ所だったという説もあります)

どうしてそんな過酷な時間や給水にしたのでしょうか?マラソンゲームのチーフオーガナイザーのジェームス・サリバンは、研究分野である「意図的な脱水の限界と影響をテストするために、水分摂取を最小限に抑えた」としています。

コースは39.99キロ、厳しく長い7つの丘がある、舗装のない埃だらけの道路でした。馬や犬がコースを横切り、コーチや医者を乗せた車がランナーと併走して走り、埃を巻き上げていました。ランナーはほこりを吸い込んで、激しく咳き込んでいました。吸い込んだ埃はこのあとランナーの肺を痛めつけることになります。

フレッド・ローツが先頭に立ちトーマス・ヒックスが後を追います。途中、米国のウイリアムガルシアが道路脇で倒れ、オリンピックマラソン史上初の死者になりかけていました。病院に担ぎ込まれたガルシアの食道は埃だらけで、内部が侵食されていました。米国有力選手のジョン・ロードンは嘔吐の発作に苦しみ、途中で棄権します。

キューバのカルバジャルはブロークン英語で観客とお喋りしたり、先頭を争いながらレースを楽しんでいました。途中、車に乗った男が桃を食べているのをみて、欲しいと手を出したのですが断られます。彼はふざけてももを二つひったくり、走りながら食べたのです。

40時間以上なにも食べずにいた空腹の彼は道ばたのリンゴの青い実に気づいて(腐っていたという説もあります)二つとって平らげます。すぐに強烈な腹痛に襲われた彼は、横になって昼寝をして休み、その後立ち上がり4位に食い込んでレースを終えることになります。昼寝をしなかったら優勝したかもしれないと、彼の実力と健闘を称える記事があります。

南アから黒人としてはじめてオリンピックに参加した二人の黒人のうち、マシアン・ヤンは野犬に追いかけられて、コースから数キロも離れてしまいました。ヤンは完走して12位に入り、もう一人のレン・タウは9位に入っています。

9マイル地点でけいれんに悩まされていたローツは、伴走していた自動車に乗ってヒッチハイクをすることに決めました。途中ローツはゴールの競技場に向かう車の上から「通り過ぎる観客や、他のランナーに手を振っていた」(スミソニアン記事)と報告されています。

・・・ローツが意図して不正を仕組んでいたのなら、この行動は極めて不自然と言わざるをえません。

一方、優勝をしたヒックスはこのときあと10マイル地点で2人のサポートクルーの管理の下に走っていました。疲労困憊し、喉が渇いたヒックスはハンドラー(助言者・クルーのこと)に飲み物を欲しいと訴えますが、拒否されます。許されたのは、暖かい蒸留水で口を拭うことだけでした。

二人のハンドラーとトーマス・ヒックス

二人のクルーとトーマス・ヒックス

フィニッシュから7マイルに近づいたとき、よれよれになったヒックスにハンドラーは「ストリキニーネと卵白の混合物」を与えました。ストリキニーネは毒物ですが、当時は少量で刺激剤として使われていました。これはオリンピックで薬物が使用された初めての記録です。薬物使用が禁止されるのは後のことです。

その間、車に乗ってけいれんから回復したローツは11マイルを稼いでくれた車からコースに降りました。車が故障して動かなくなったのです。「車から現れたローツを見てヒックスのハンドラーの1人がコースから外れるように命じます」(カッコ内はスミソニアンの記事からの引用です。他の記事ではこの様子は見当たりません)

しかしローツはそのまま走り続け、3時間弱のタイムで競技場のゴールにフィニッシュしました。アメリカ人のゴールに喜んだ観衆が歓声を上げ、ルーズベルト大統領の娘のアリス・ルーズベルトが金メダルをローツの首にかけようとしたときです。だれかが「その男は車に乗ってフィニッシュラインまで来た詐欺男だ」と告げて歓声はブーイングに変わります。

ローツは微笑んで「これは冗談だ。名誉を受け入れるつもりはなかった」と主張しました。しかし主催者はローツの生涯の選手活動を禁じる決定を下したのです。

その頃、ヒックスはストリキニーネの影響で顔は青ざめ、足を引きずっていました。ローツが失格になったと聞いて、ヒックスは足を速めようとしますが、トレーナーはヒックスの体力では無理な試みと思い、卵白入りのストリキニーネをもう一彼に与えます。今回は食べ物をうまく喉に通すために、ブランデーを飲ませました。

「ヒックスは油を差した機械のように、機械的に走っていました。目はくすんで、肌の色は青白く、腕には重りがついたようで、膝は硬く、足はほとんど持ち上がらない状態でした」(大会オフィシャル チャールズ・ルーカス談)

ヒックスはこのとき幻覚症状を呈しています。ゴールまではまだまだ遠い20マイル地点にいると錯覚していました。元気になるために、さらに食べものを頼み、横になり、ブランデーを飲み、卵白を二つ食べます。

ヒックスは丘を越え、最後の坂を速度を落としてゆっくりと下りました。ついにスタジアムについたとき、ヒックスは観客の前をスピードを上げて走ろうとしましたが、足がもつれました。彼のトレーナーはフィニッシュラインまで彼を運び、彼の足を前後に動かし、身体を持ち上げてゴールラインを越えさせたのです。

ヒックスは勝者と宣言されました。そのあとヒックスがその場を離れるのに4人の医師と1時間が必要でした。レースで8ポンドも体重を失ったヒックスは言っています。「この恐るべき丘は選手を粉々に引き裂いた」と。

ヒックスの記録は3時間28分45秒で従来のオリンピック記録から30分も遅く、マラソンの参加選手32名のうち完走は18名、棄権は14名。これらは代々のオリンピックのマラソン史上最悪の結果として記録に残りました。ローツの「わたしは冗談を言ってるんだ」という主張が通り、彼の出場停止は1年間にとどまります。

ヒックスとローツは翌年のボストンマラソンで再会し、ローツは「自分の足以外の助けなしに見事に優勝を果たしました」(スミソニアン記事)

(おわり)

[主な参照記事と引用画像出典]

The 1904 Olympic Marathon May Have Been the Strangest Ever SMITHSONIANMAG.COM

Disastrous  1904 Men’s Olympic MarathonExpress To Nowhere 

Wikipedia Athletics at the 1904 Summer Olympics – Men’s marathon

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下條 俊隆

下條 俊隆

ペンネーム:筒井俊隆  作品:「消去」(SFマガジン)「相撲喪失」(宝石)他  大阪府出身・兵庫県芦屋市在住  大阪大学工学部入学・法学部卒業  職歴:(株)電通 上席常務執行役員・コンテンツ事業本部長  大阪国際会議場参与 学校法人顧問  プロフィール:学生時代に、筒井俊隆姓でSF小説を書いて小遣いを稼いでいました。 そのあと広告代理店・電通に勤めました。芦屋で阪神大震災に遭い、復興イベント「第一回神戸ルミナリエ」をみんなで立ち上げました。一人のおばあちゃんの「生きててよかった」の一声で、みんなと一緒に抱き合いました。 仕事はワールドサッカーからオリンピック、万博などのコンテンツビジネス。「千と千尋」など映画投資からITベンチャー投資。さいごに人事。まるでカオスな40年間でした。   人生の〆で、終活ブログをスタートしました。雑学とクレージーSF。チェックインしてみてくださいね。

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コメント

  1. 平石滋 より:

    わはは。なんとドタバタでブラックなオリンピックのマラソンだったのでしょう!
    これをもとに、というかほとんどそのまま映像化したら、とんでもない喜劇映画ができそうです。
    いい加減だけど、人間味あふれる大会だったのでしょうね。これはこれでとても魅力的です。

    • 下條 俊隆 下條 俊隆 より:

      ご感想文、投稿ありがとうございます。
      キセル事件は有名な逸話ですが、いくつかのエピソードも実話です。スミソニアンの記事や、他の記録記事をよく読むとエピソードの主人公や脇役の選手の気持ちを想像するだけで吹き出してしまって、我慢ができずに記事化しました。
      野犬に追われて必死で逃げている南アの選手の風景がわたしのお気に入りです。凄いスピードが出てたと思います。あれオリンピック新記録です!