筒井俊隆のSFファンタジー
の~んびりした人類絶滅小説です。
今回は、地球に生き残った六人の子供達が、先祖の魂が暮らす黄泉の国へ体験旅行に出かけます。
黄泉の国では、誰でも一人だけ好きな人に出会うことができるのです。
匠は大好きだったおばあちゃんに会うことに決めていました。
・・ 長編の連載ですので、ゆっくりお読みください。
(前回までの話は下記をご覧ください)
この世の果ての中学校 プロローグ「ついにあいつがやって来た」
この世の果ての中学校 一章 ハッピーフライデー「ペトロの誕生日」
この夜の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(前編)
この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(中編)
この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(後編)
3章 黄色いバス停
「おはよー」
Tシャツに紺のブレザー、Gパンにスニーカーというお得意のオールド・ファッションに、愛用のハットを斜めにかぶったカレル教授が、金曜日の朝一番に教室に入ってきた。
これが先生の正装だった。
今日は特別の日、生徒たち全員で黄泉の国を訪問する記念すべき日だ。
天の国の先祖の霊に、地球に残された人類である六人の子供たちをお披露目する大事なセレモニーの時だ。
先生はハットを脱いで教壇のデスクに置くと、教室の窓に近づいて、顔を外に突き出した。
校庭の空の雲の具合を眺めたり、空気の湿り気を嗅いだり、指を突き出して風向きを調べたりして、今日のドームの天気を予測している。
「みんな!今日は絶好の散歩日和だ。暑苦しい身体なんかは脱ぎ捨てて、魂一つになって、風に揺られて黄泉の国へいこうじゃないか!」
カレル先生はよっぽどの悪天候でなければ、今日は子供達を黄泉の国の体験旅行に連れ出すことに決めていた。
黄泉の国は生身の身体では行けない。
そんなことをしたら、二度とこの世には戻ってこられない。
幽体離脱して魂だけになれば一度だけの体験旅行として、黄泉の国に行ける。
そしてどうしても会いたい人に、一人だけ面会することができるのだ。
「いつかは逝かねばならない処だから、少し早い目にどんなところかこの目で事前に確かめておきましょう」
そう言って、先生はリアルの王様からの黄泉の国への招待状であるバスの乗車券を、六人の生徒たちに一通ずつ手渡した。
「カレル先生、僕はこのツアーに参加できません。実は僕の魂は身体からなかなか離れてくれないのです」
生徒会長の裕大が乗車券を手にして情けない声を出した。
「私も黄泉の国で、ファンタジーの大先輩に相談したいことがあるのですが、肝心の幽体離脱で失敗ばかりしています」
咲良が悔しそうに口をとがらせた。
「幽体離脱が出来るのは子供の時だけなのだよ。身体が大きくなると、幽体離脱が難しくなってしまう。中学三年の裕大と咲良はこれがラスト・チャンスかもしれない。リラックスしてもう一度チャレンジしてみようよ」
カレル先生はみんなを隣のトレーニング・ルームに連れていった。
そこには六つのマットが床の上に整然と並べられていた。
「よーく聞いてくれよ!幽体離脱の方法は実は二つある」
マットに座り込んだ生徒を前にして、先生は魂を肉体から離脱させる方法を教えた。
「一つ目はいつものやり方、意識を分散させて魂の分身を作りだし、取り出す方法だ。意識をもうろうとさせて、魂を二つに仕分けるタイミングがキーポイントとなる。ペトロはすでに自分の分身をマイワールドに作っているから、三体目を作ることになる」
先生は裕大と咲良に視線を合わせて、話を続ける。
「次に成功が確実な新しい方法はだ・・肉体を極限まで痛めつけて、耐えきれなくなった魂が肉体から逃げ出すのを待つ方法だ。こちらの方は臨死状態つまり『ひとだま』ができあがるのと同じ理屈だ。痛みの極限状態をどこまで我慢できるか、そこがポイントだ」
カレル教授は鋭い目つきで、生徒を見渡した。
「一つ目は医務室のヒーラーおばさまにお願いして、ヒーリングの超絶技法を駆使して、睡眠状態の君たちから魂を分離させる施術をしてもらう。これには30分から40分が必要となる。二つ目はこの私が瀕死の状態を作るお手伝いをさせて頂く。こちらは簡単で5分でできる。ではどちらでも好きな方法を選びなさい」
しばらくしてカレル先生が手持ちぶさたに部屋から出て行った。
入れ替わりに、緊急連絡を受けた医務室のヒーラーおばさまが、秘蔵の「ハーブ・ボックス」を六つ抱えてトレーニングルームに駆け込んでいった。
30分が経過してトレーニング・ルームから四人が元気に出てきた。
中学二年のエーヴァと匠、一年生のマリエとペトロが「準備完了です」と教室で待ち構えていたカレル先生に報告した。
本物の身体より少し小さくなった四人の身体は、プラズマのように白く輝き、その上に軽くなったシャツにジーパン、スニーカーを履いていた。
さらに10分が経過して、咲良と裕大が身体を小さくして教室に現れた。
「まただめでしたわ」咲良がうつむいた。
「修行不足でした」裕大がつぶやいた。
「仕方がない、臨死覚悟でやってみるか!」
カレル先生が腕まくりをして、いやがる二人をトレーニング・ルームに連れて行くと、ヒーラーおばさまが部屋に一人残っていた。
「あら、裕大も咲良もこんなところで何をしてるの。あなたたちのマットをよくご覧なさい!」
二人はマットを見つめ直した。
六つのマットの上では生徒たちが静かに寝息をかいている。
その中には咲良と裕大の姿があった。
二人は幽体分離に成功していた。
「ヤッター」咲良と裕大が跳び上がった。
「さーてと、先生もそろそろ準備をして、みんなに同行するとしますか」
カレル先生が恥ずかしそうに、呟いた。
「あれっ? カレル先生も黄泉の国のご体験は初めてなのでしょうか? そのお年で随分と奥手ですこと。ヒーラーおばさま! 追加であと一人施術をお願いしますわ」
咲良が教授をからかった。
「咲良! 驚くんじゃねーぞ!」
カレル教授がいきなり自分の服を脱ぎ始めた。
咲良が慌てて目を逸らそうとしたが、そらせない。
ハットと服を脱ぎ捨てると、その下から同じようなTシャツにジーパンと紺のブレザー姿の先生が現れた。
その身体はぱちぱちと火花を発して、怪しげな青い色に輝き始めた。
教授は、プラズマ用の軽いハットをどこかから取り出して斜めにかぶり、ふわりと宙に浮かび上がった。
そして空中から、妖しく咲良に微笑む。
「咲良、このファッションどうかな?」
「せ、先生は・・」
咲良の顔は真っ青。
「・・や、やっぱり・・本物のひとだま」
倒れかけた咲良の体を、そばにいた裕大が慌てて支えた。
カレル先生が肉体を失った魂であることを咲良も裕大も、生徒たちみんなも感づいていた。
カレル先生はとても軽くて、走ると宙に浮かびあがる。
その上相当のお年寄りの筈なのに、とても若く見える。
いつでもどこでも、エネルギー切れですぐに寝込んでしまう。
先生の正体を疑う理由はいっぱいあった。
でも大好きな、尊敬する先生であることに疑いはなかった。
「みんな集まってくれるかな」
カレル先生は軽やかに床に着地すると、いつもの調子で生徒を呼び集めた。
・・白状すると、先生は大昔に本物の幽体離脱を済ませているので、今さら離脱の必要は無いんだよ。
みんなも先生が幽体であることを知っていて、知らない振りをしてくれていたんだと思う。
気を遣わせるのも今日限りにして、いまから真実を明らかにしたい。
少し長くなるから席に着いて聞いて欲しい・・
先生が長~い告白を始めた。
先生は学校にいるときでも、できるだけエネルギーの消費を節約するために、自分の個室で一日の半分は寝て過ごしていた。
幽体の活動に必要な特殊エネルギーを補給するために、先生は週に一度、黄泉の国と往復をしなければならない。
その物質は先祖の幽体から少しずつ分けて頂くとても貴重なものなので、無駄には使えないのだ。
なぜならその物質がなくなれば幽体は消滅してしまうからだった。
告白が続いた。
・・みんなもよく知っているとおり、2070年代の頃から、ゲノムの逆襲と呼ばれる非常事態が起こり、研究者の仲間が次々に倒れていった。
最後に残った先生も例の病原体にやられて命を失ってしまった。
でも幸いなことに、身体から離れた先生の魂は天国に漂着して、たくさんの先祖の霊に会うことが出来たんだ。
そこは善良な魂の集まった平和な世界で、黄泉の国と呼ばれている。
今は週に一度、みんなを教えるために、学校と黄泉の国を往復をしている。
そんな先生だけど、みんなには、この姿をあるがままに受け止めて欲しい・・
カレル先生は辛い出来事を思い出して、思わず言葉に詰まってしまった。
ヒーラーおばさまが椅子から立ち上がって、教授を優しく抱いた。
カレル先生の本当の姿が明らかになった。
なんだかもやもやしていた気持ちがどこかへ飛んでいった生徒たちは、尊敬するカレル先生をあるがままに受け止めようと、固く心に誓った。
「出発!」
元気を回復したカレル先生が、大事のハットを教室の窓から校庭の空高く放り上げて、誰かに合図を送った。
リアルの王の使いが校庭でハットをしっかり受け止めると、いつもの様に窓を乗り越えて、汗をふきふき教室に入ってきた。
「おはようございます。ただいまから皆さんを黄泉の国行きのバス停までご案内いたします。そこまでは宇宙遊泳で参りますので、練習と準備運動をお願いします」
生徒たちがグラウンドに出て、宇宙遊泳に備えたストレッチを開始した。
「匠、宇宙遊泳って、どうすりゃいいの?」
咲良と裕大が匠に聞いた。
「簡単だよ。まず両足で思い切り地面を蹴る。幽体は軽いから、宙に浮く。それから遊泳開始だよ。一番スピードが出るのは、クロールをすればいいんだ。腕で水の代わりに空気を掴まえて、身体の下を、後ろに送るんだよ。同時にバタ足をして、空気を後ろに蹴飛ばす。水の中と違って、いつでも息ができるからずっと楽だよ」
裕大と咲良の特訓が終わり、王の使いが「それでは整列して下さい」とみんなに声をかけた。
「私の姿が見えるところから決して離れないようにして下さい。黄泉への道筋では、軽い魂は風に飛ばされて迷子になりやすいのです。ときどき行方不明になって帰ってこないお客様がおられます。今日は初心者のために二人ずつペアーを組んで雁形の二列縦隊で参りましょう」
生徒たちは隊列を組み、地面を蹴って空に飛び立った。
王の使いが先頭に立ち、エーヴァが咲良を、匠が裕大を横からサポートして続く。
マリエとペトロがお喋りしながら空を飛ぶ。
最後尾のカレル先生が落ちこぼれがないか確かめながら、生徒たちのお尻を叩いた。
上昇を続けてドームの天井に到着した。
薄青い天蓋をくぐり抜けると、「バス停留所」と書かれた黄色い看板が雲の中で揺れていた。
そこには黄色いバスと黄色い制服を着た運転手が待っていた。
「ここからは皆さんにお供することが出来ません。黄泉の国の運転手がご案内しますので、楽しんできて下さい。帰りはこのバス停まで定刻にお迎えに上がります。帰りのバスにはくれぐれも乗り遅れないようにして下さい」
それだけ言うと、王の使いはバスの停留所から大きくジャンプして地上の世界に帰っていった。
全員がバスに乗り込んで、シートに落ち着くと、逞しい体をした若い男の運転手が黄泉の国の説明を始めた。
「今日は皆さんの人生でただ一度のチャンスです。どなたも一番会いたい人に面会が可能です。ここに召された人となら誰とでもです。懐かしいおばあちゃんや、お爺ちゃん、亡くなった友達、誰とでも会えます。尊敬する過去の偉い人に会って、どうしても聞きたいことを質問しても良いのですよ」
「あれみろペトロ!」
匠がペトロの脇腹をつついた。
ペトロがよく見ると、黄色いバスの運転手の髪の毛は黄色い炎で包まれていた。
「ごめん! エネルギーをすこし頂きます」
カレル先生がいきなり運転手の髪の毛に手を伸ばして、黄色い炎を一つかみして、口に入れた。
「カレル先生! 僕のエネルギーをつまみ食いしないでください」
マジで怒った運転手が先生の手をぴしゃりと叩いた。
「うまそうで、ついつい手が伸びて・・ごめん!」
先生が謝ると、運転手は機嫌を直して説明を続けた。
「いまからお渡しするのは面会希望カードです。会いたい人の名前とその理由をわかりやすく書いて下さい。しっかり願いを込めて、ふっと自分の息を吹きかけてから、運転席の横の黄色いポストに入れて下さい。ポストからはお目当ての御霊の処にカードが飛んで参ります。それから面会の時間はきっかり30分です。これだけは守ってください。黄泉の御霊は疲れやすいのです」
匠はおばあちゃんのフルネームをカードに書いて、ポストに入れた。
匠は優しかったおばあちゃんに会うことに決めていた。
小さかった頃、匠の夏の日は毎年暑くなっていった。
大好きな夏休みがやって来ると、朝早くから畑や森に出かけて、トンボ取りや、魚釣りをして過ごした。
オスのヤンマは自分の飛び回るテリトリーを決めていて、同じところをグルグル廻って来る。
通り道でじっと待ち構えていて網で捕る。
一匹獲れば後は棒の先に長い糸でくくりつけて飛ばすと、他のオスが誘われて追いかけて来るので、網で獲る。
おばあちゃんや、おじいちゃんが子供の頃は、昼前には大きなかごがいっぱいになってヤンマの羽根が痛むので、可哀相だから掴まえたらすぐに放してやったと言っていた。
最後の夏休みの日、午前中かかってようやく銀ヤンマを一匹捕まえた。
近くの森の中の池からは魚の影が消えたので、もう魚釣りはあきらめていた。
友達の数がなぜだかどんどん少なくなって、とうとう一人になった。
午後になると木陰を探してもなかなか見つからなくて、汗をいっぱい掻いて、お腹も空いたので急いで家に帰った。
おばあちゃんが一人で留守番をしていて、匠が大好きな冷たいお素麺をいっぱい作って待っていてくれた。
「今朝は遠くの《牛が首池》までトンボ取りに、一人で行ってきたけど、フナもコイもきれいなタナゴもみんないなくなってたよ」
お腹がふくれた匠は、涼しい縁側で寝っ転がりながらおばあちゃんに《今日の報告》をした。
疲れて昼寝を始めた匠を、おばあちゃんは長い間うちわで仰いでくれた。
夕方になるとおばあちゃんが「さー匠、そろそろトンボを家に帰してあげましょう」と言った。
かごから庭に放してやると、トンボは真っ赤に燃え上がった夕空に舞い上がって、嬉しそうに山に帰っていった。
おばあちゃんも目を細めて嬉しそうに笑っていた。
次の日、朝からママが目を真っ赤にしているので、どうしたのと聞くと、おばあちゃんが亡くなったよと言った。
匠は思い切り泣いて、おばーちゃんにお別れをした。
それ以来トンボも姿を消した。
今日はもうすぐ大好きなおばあちゃんに会える。
本当に久しぶりだ。
「終点です」
運転手の声が聞こえて、匠の目が覚めた。
広場の真ん中に「バス停・終点」と書かれた黄色い案内板が立っていた。
広場はいくつものふわふわの白い雲が小さな小山のように折り重なってできていた。
運転手と同じ顔をして、黄色い髪をした案内人が二人も待っていてくれて、生徒を一人ずつバスから離れたところに連れて行った。
「匠君だね、お待たせしました」
最後に残った匠は、案内人に先導されて、雲の小山をいくつか越えて、小さな窪地に着いた。
凹みには小さな可愛いベンチが匠を待っていた。
ベンチに座って、おばーちゃんを待つように、と言って案内人はバス停に戻っていった。
ベンチは雲で出来ていて、座ると身体が沈み込んで、とても居心地が良かった。
ふと気がつくと、仲間の姿がどこにも見えなかった。
心細くなった匠は、肩に担いできた小さなリュックを横に置いて、腕組みをした。
それから、おばあちゃんの事だけを考えて、静かに待つことにした。
時間がたって、匠は立ち上がった。
足踏みをして、、また座り込んだ。
もう待ちきれなくなったとき、白い雲の切れ目からおばあちゃんが現れた。
「匠!」おばあちゃんは大きな声を上げて両腕を拡げた。
匠はおばあちゃんの胸に飛びこんでいった。
おばあちゃんは昔のままでちっとも変わっていなかった。
二人で隣り合わせにベンチに座ると、匠はおばあちゃんがいなくなってからいっぱい溜まってしまった《今日の報告》をしたくなった。
「あの日縁側でどこまで話したっけ」
匠が聞くと・・。
「《牛が首池》の魚がいなくなったとこまでだよ」
おばあちゃんはあの日のことを覚えてくれていた。
匠はそれから友達が一人もいなくなったことや、緑がどこかへ消えたこと。
大阪の田舎の家から東京の学校にママと一緒に移ってきたこと。
新しい学校には世界から集められた五人の仲間と家族がいて、一緒に暮らしていること。
おじいちゃんに習った武術の練習を今でも毎朝一人で続けていることまで、何から何までみんな話した。
おばあちゃんはにこにこ笑いながら、匠の話を最後まで聞いてくれた。
匠はリュックを開けて、おばあちゃんとおじいちゃんへの贈り物を取り出した。
匠のマイ・ワールドで育てた大きな柿の実だ。
昔、おじいちゃんとおばあちゃんが結婚記念日に田舎の家の庭に植えて大事に育て上げ、毎年食べるのを楽しみにしていた柿の木は、東京の学校へ移ってくる前に枯れてしまった。
匠は悲しくて、マイ・ワールドに柿の木の苗を植えて、育てた。
実が見事に大きくなって、今が食べ頃だ。
「今朝、僕が木に登って取ったんだよ。二人で食べてくれるまでは、幻になって消えてしまわないように念力をかけてあるんだ」
匠が自慢をすると、おばあちゃんは柿の実をバッグに大事にしまい込んで、匠をしっかり抱きしめた。
おばあちゃんはとても軽くなっていた。
匠がおばあちゃんを抱きしめ返すと、おばあちゃんの身体が空中に浮かび上がってしまった。
慌てておばーちゃんをベンチに戻して、二人で大笑いした。
おじいちゃんから匠へのメッセージを預かってきましたよ、とおばあちゃんがいった。
「匠の身体にはおじいちゃんからの贈り物がしっかり組み込まれているそうですよ。それは《絶対諦めないアスリートの魂》ですって。苦しいときはおじいちゃんを思い出してその魂を取り出して、自分を励ましなさい。きっと役に立ちます、そう言ってましたよ」
自慢話になるといやなので、仲間の誰にも話さなかったけれども、匠のおじいちゃんは宇宙マラソンの初代金メダリストだった。
それは世界一過酷な宇宙遊泳レースだった。
匠は、武道や宇宙遊泳の基本を教えてもらったおじいちゃんを思い出して、何が何でも会いたくなってきた。
ピッ、ピッ! と腕の時計が鳴った。
あっという間に約束の30分が過ぎてしまった。
「ママと元気に暮らすのですよ」
最後にもう一度匠を抱きしめると、おばあちゃんは何度も何度も振り返りながら、雲の中へ消えていった。
匠は、おじいちゃんはきっとおばあちゃんと一緒に暮らしているのに違いないと思った。
どうしてもおじいちゃんに会いたくて、我慢できなくなった匠は、おばあちゃんのあとをこっそり付けて行った。
雲の小山に隠れながら、見え隠れするおばーちゃんの後ろ姿を追いかけている中に、乳白色の濃い霧が出てきて、視界が遮られた。
気が付くとおばあちゃんの姿が消え、匠は迷子になっていた。
その上、風まで強くなって来た。
「バス停・終点」の看板は遠くに消えた。
強い風が吹きつけてきて、匠の身体はいつの間にか黄泉の国の暗い片隅に運ばれていった。
・・・
集合場所のバス停前に生徒たちが次々と帰ってきた。
マリエはいつも一緒だった教会の近くの農家の親友、エーヴァは一枚も売れない気のいい画家のおじいちゃん、裕大はよく怒られた隣の面白いおばちゃんに会ってきていた。
咲良は作家のミハエル・エンデ先生とファンタジーアの将来をどうするか相談してきたわよ、と自慢した。
「なんてったって先生の小説『果てしない物語』の世界『ファンタージェン』は咲良の住む世界『ファンタジーア』と見えないトンネルで繋がってるんだから」と咲良は断言した。
ペトロは、真っ白いもじゃもじゃ頭のアインシュタイン博士に会って、2020年の宇宙物理学界での出来事を報告していた。
ペトロは壇上の科学者に、宇宙の法則を修正してあげた話をした。
感激したアインシュタイン博士は、ハル先生が取り組んでいる宇宙の第二方程式のヒントを思いついて、ペトロの用意した電子メモ帳に書き込んでくれた。
「ハル先生が大喜びするぞ」と、ペトロは電子メモを持って跳びはねていた。
黄泉の国の案内人が慌て始めた。
面会の時間はとっくに過ぎているのに、匠だけが帰ってこない。
「ベンチの側の白い雲に残されたスニーカーの足跡では、匠は祖母の後をつけていったものと思われます。行方不明です」
案内人の黄色い髪の毛が心配で逆立っていた。
今度ばかりはカレル先生も途方に暮れた。
黄泉の国に結界の張り出し保険はかけられない。
匠が迷い込んだ黄泉の果ては、異次元や幻想の世界どころか、学校から続くリアル・現実の領域だった。
「匠が危ない!」
先生は匠を求めて、頭上を流れる白い霧の中に飛び込んでいった。
黄泉の案内人が数人、一斉に後を追っていった。
・・こんな雲ばかり広がる世界で、霧が流れて、風が吹き荒れて、視界がゼロで、カレル先生はどうやって、匠を見つけるつもり?・・
五人の生徒は顔を見合わせた。
ペトロが小声で聞き覚えのある唄を歌い始めた。
「こんな時に童謡なんか歌って何事よ!」
匠と仲良しのエーヴァがペトロに目をむいた。
ペトロはリュックを肩から外すと、水筒を取り出して、一口水を飲んだ。
それから、リュックの底をかき回して、大きな鍵を取り出した。
鍵を自分の胸のポケットの鍵穴にさし込んで、カチリと廻す。
ペテロの胸のあたりから青い風船のようなものが現れて、プーッとみんなの背丈の三倍ぐらいに膨らんだ。
ペトロは、マイ・ワールドの鍵をいつもリュックに入れて持ち歩いていた。
「ヤットコ、ヤットコ繰り出した・・」
ペトロが調子外れに歌い始めると、風船の中から10頭の騎馬と十人の兵隊がばらばらと転がり出してきた。
ペトロの歩兵軍団は、天馬が加わった騎馬軍団にパワー・アップされていた。
「いいかお前達、霧の中から匠を探し出して、ここへ連れ戻して来るんだ。必ずだ!」
騎馬兵に命令を下すと、匠はリュックから指揮棒を取り出して振り上げ、一拍おいた。
「サー、みんな、いこうぜ! おもちゃのマーチだ」
目を丸くしているみんなの前で、指揮棒が一気に振り下ろされた。
みんなは「おもちゃのマーチ」を空に向かって声を合わせて歌った。
歌声が風に乗って舞い上がると、騎馬軍団は空高く雲を蹴り、白い霧の中に消えていった。
匠は懸命に泳いでいたが、何の目印も無い霧の中では、黄色いバス停の方向がさっぱり分からなくなった。
匠は疲れ果てて灰色の霧の中を流されていった。
疲労が限界までやってくると、魂が抜け落ちていくように心地よかった。
匠は風と霧に身を任せて漂い始めた。
「匠! 諦めてはだめだ!」
叱咤する声が身体の中から聞こえた。
おじいちゃんから受け継いだ「アスリートの魂」が目を覚まして、五感を蘇らせる。
遠くから、仲間の歌う声が風に乗って聞こえてきた。
「ペトロだ! ペトロの兵隊の歌だ」
匠は声を張り上げて歌った。
霧の中から、一騎、二騎と騎馬兵が現れてきた。
先頭の騎馬兵が匠を担ぎ上げ、馬上に乗せた。
騎馬兵は集合して一列に並び、生徒たちの歌声に向かって戻っていった。
霧が晴れて、騎馬軍団が生徒たちの頭上に現れた。
先頭の馬上で、匠が元気に歌っていた。
天馬の背中から飛び降りた匠に、ペトロが駆け寄った。
「こら匠、一体どこで遊んでたんだよ!」
ペトロが背伸びして匠の頭をゴンと叩いた。
みんなが走りよってきて、匠の頭をぼこぼこにした。
・・・
黄色いバスが、約束の時間に大幅に遅れてドーム近くの《バス停》に帰り着いた。
「全員もうこの世に帰ってこないのではないかと心配しましたよ」
裕大のパパが噴き出す汗をハンカチでぬぐった。
帰りの宇宙遊泳はとても楽だった。
バス停からジャンプするとあっという間に学校の校庭に着陸した。
みんなはトレーニングルームに駆け込んだ。
気持ちよさそうに寝込んでいる自分たちの身体を確認した。
全員「ただいま」と言いながら、幽体から生身への帰還を無事果たしていった。
「約束事はお互いに守らなければとんでもないことが起こる。それがリアルの掟だ。滅多なことでは迷いの旅路になど出てはならない。しっかり現実に足を踏みしめて生き抜くのだ!」
教室に生徒を集めて、カレル先生がみんなを睨み付けた。
窓の外でリアルの王の使いが頷いた。
それからカレル先生はいつもの優しい表情に戻って言った。
「それにしてもペトロのサイコキネシスは進化したもんだ。ファンタジーアを離れた黄泉の国でも幻想を実体化するまでの力を身につけていたとはね。参った参った」
教授はぶつぶつと独り言を言いながら、ペトロの頭を一撫でして個室へ戻り、そのまま特殊魔法瓶に潜り込んで、ぐっすりお休みになった。
ペトロはハル先生を探していた。
ハル先生の部屋まで行って、ドアをノックしてみたが、返事がない。
部屋の中から小さな音が聞こえるので、ノブを回してドアを少し開け、中を覗き込んだ。
部屋の中には誰もいない。
デスクが窓際にあって、その上のナノコンが勝手に軽やかな音を立てていた。
「ハル先生!」呼んでも誰も出てこないので、ペトロは諦めてドアを締め、Uターンして教室に戻り始めた。
「ペトロ! どうかしたの?」
いま閉めたドアが開いて、中からハル先生が顔を出した。
「あれっ、先生、部屋にいらしたのですか?」
「お入りなさい。デスクに向かって仕事していたのですよ」
さっきは確かに誰の姿も見えなかったのに、僕の勘違いかなと思いながら、部屋に入って、小さなメモリー・ノートをハル先生に差し出した。
「これ、お土産だよ。黄泉の国でアインシュタイン博士とお会いして、議論して来たんだ。これは博士から頂いた宇宙の第二方程式のヒントだよ。ハル先生のお役に立てれば良いのですが、とおっしゃってたよ」
ハル先生は「きゃっ!」と叫んで椅子から飛び上った。
「ペトロ、一緒に見てみましょう」
先生が震える手で、ナノコンにメモリーを差し込むと、博士からのメッセージと手書きのサインがディスプレーに現れた。
「ハル先生! 気をつけてください。宇宙はやはり膨張を続けているようです。宇宙の方程式を完成するには、空間の歪みの解明と幸運が少し必要でしょう。A・アインシュタイン」
ハル先生は「空間の歪みの構図」と書かれた同封のファイルを開けると、ナノコンに大事に写し替え、直ちに計算に取りかかった。
ハル先生の目がめらめらと燃え上がっていった。
これはだめだ! ハル先生はもう半日は計算の世界から帰ってこない。
ペトロは先生の邪魔にならないようにドアをそっと締めると、教室に戻った。
教室で匠が一人残って、ペトロの帰りを待っていた。
「ペトロ、今日は助けてくれてありがとう!」
匠はぺこんと頭を下げてペトロにお礼を言った。
それから「さっきのお返しだ」といってペトロの頭を軽く叩いた。
匠のスマホでラインが騒いだ。
「門の前にいます。ママ」
カレル先生からの緊急連絡で匠のママが迎えに来ていた。
おばあちゃんと話した「今日の報告」をママにしたくて、匠は一目散に校庭に駆け出していった。
(続く)
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