筒井俊隆のSFファンタジー。
の~んびりした人類絶滅物語です。
22世紀始め、人類が絶滅した地球に残された六人の中学生が、2016年のカレル先生の子供時代にタイム・ワープしました。
ネイチャーアドベンチャー号で東京近鄕の山に出かけて、自然観察と川遊びをしていた六人を待っていたのは、怖ろしい異常気象と突然の局地豪雨でした。
・・毎週連載のSF長編です。
ゆっくり読んでくださいね。
ここまでの話は、下記をご覧ください。
この世の果ての中学校 プロローグ「ついにあいつがやって来た」
この世の果ての中学校 一章 ハッピーフライデー「ペトロの誕生日」
この夜の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(前編)
この世の果ての中学校 2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(中編)
2章 リアルの世界は一度逝ったら戻れない(後編)
「めっちゃ腹減った!」
朝早く、マリエがベッドで叫んだ。
「ウオー!昨日の晩ご飯、あんなに沢山頂いたのに、どうしてこんなに飢えてるの?」
エーヴァが両手を天井に向けて思い切り伸ばす。
「ここは空気がきれいだから、あっという間にお腹が減るのよ」
咲良が窓を開けて、朝日の届けてくれた柔らかい風を胸一杯、吸い込む。
朝の食事はカレルのママが用意してくれたものではとても足りなくて、生徒達はリュックか
ら非常食と飲料水をいっぱい持ち出して来た。
カレルのママが目を丸くして見守る中、みんなは昼食用に少しだけ取って置いて、残りを完食してしまった。
軽くなったリュックを担いで、生徒たちがカレル家の門の前に集合した。
おじさんとおばさん、カレル少年とブー太郎が見送りに出てきた。
集合時間きっかりに、カレル先生が寝ぼけ眼で現れた。
最後にマリエが「遅れて御免なさい」と言って道の向こうから走ってきた。
全員がそろうと、生徒たちは横一列に並んで、カレル家の人々にお礼を言った。
「たいへんお世話になりました。ごちそうさまでした」
ブブー!と騒々しい音がして「ネイチャー・アドベンチャー号」の表示板をつけた10人乗りの小さなバスが現れて、門の前に止まった。
ものすごく大きなサングラスをかけた背の高い外国人みたいな運転手が降りてきた。
「お待たせしました。ただいまからネイチャー・アドベンチャーの旅にご案内いたします。どうぞご乗車ください」
英語みたいな日本語で運転手が喋った。
「裕大兄ちゃん!あの運転手どこかでみたことあるよ」
「何言ってんだペトロ、ここは2019年の東京だぞ。バスの運転手を知ってる訳ねーだろが・・」
ペトロは首をかしげながら、バスに乗り込んで、一番後ろの席に着いた。
バスがゆっくり動き出すと、生徒たちは窓から身を乗り出して、カレル家の人たちの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
カレル先生は一番前の助手席に座ると、すぐに椅子をリクライニングした。
サングラスの運転手に、登山口に着いたら起こしてくれるように頼んで、愛用のハットで顔を隠し、さっさと寝込んでしまった。
マリエがペトロの席にやって来て、横の空いているシートを指さした。
「ここ、座ってもいい?」
「いいよ。でもさっきはどうして集合時間に遅れたの?」
「カレル家のすぐそばに可愛い教会があるのを、昨日見つけておいたの。朝の礼拝に行ってきたわ。昔からのお勤めなの」
マリエはポーランドのワルシャワ郊外にある小さな教会の娘だった。
教会は丘の上にあった。
丘の麓からどこまでも続く一本道は緑の畑に囲まれていて、その先は地平線に重なって消えていた。
マリエは教会の自分の小さな部屋から、外の世界を眺めるのが大好きだった。
一本道の両側には農家が点在していて、どの家にもマリエの友達がいた。
日曜日には友達が両親に連れられてミサにやって来た。
ミサのあと、マリエは友達とお茶を飲んだり、お喋りをして遊んだ。
そんなある日、急に丘の空気が熱くなってきた。
黄色い太陽のせいで、地平線が黄色くなった。
畑も丘も茶色い荒れ地に変わっていった。
マリエには病気の原因がよくわからないのだけれど、友達や、知り合いの人やその家族が次々に亡くなっていった。
教会の毎日はお葬式で忙しくなった。
日曜日は逆にミサに来る人の数がどんどん減っていった。
ある日の朝、牧師のパパの姿が消えた。
ママはパパが天に召されたと言ったけれども、マリエは信じない。
マリエに挨拶なしでパパが黙って消えるはずがない。
パパはどこかにいる。
マリエはパパがいつか帰ってくるまでお祈りを続けることにした。
「さっき教会でお祈りしたら、神様に私のお祈りが届いて、しっかり聞いてくれてたわ。ドームの世界ではね、いくらお祈りしても神様の声はもう聞こえない。人間を守ってくれる神様はいなくなったの」
となりのシートからペトロに話しかけるマリエの表情がふっと曇った。
マリエはいつもどこか遠くを見ている。
ペトロはそんなマリエのことがとても心配で気にかかる。
「はい、これ。カレル君からペトロに秘密のプレゼントだって」
マリエがこっそりペトロに新聞を手渡した。
日付は今日、朝刊だ。
「宇宙物理学会は大混乱!天才少年かいたずらか?」
一面に大きな見出しで、監視カメラのぼやけた顔写真と「少年の行方を捜しています」と言う囲み記事が掲載されていた。
「その新聞、先生には絶対見せない方がいいよってカレル君が言ってたわ。むちゃくちゃ怒られるって」
慌てたペトロはバスの助手席にいるカレル先生を、身体を伸ばしてちらっと見た。
先生はいびきを掻いて熟睡していた。
ペトロは一安心して、マリエにお礼を言ってから、さっき別れたカレル君にも小さくお礼を呟いた。
それから新聞を小さく畳んで自分のリュックの底に隠した。
みんなを乗せたバスは山の斜面をS字にカーブしながら、坂を登り切って目的の登山口に着いた。
カレル先生は運転手に荒っぽく起こされて、急いでバスから飛び降りた。
「うーん」一つ大きな伸びをして、先生は周りの山々を懐かしそうに眺めた。
マリエがまねをして小さな伸びをして、まわりの山々を眺める。
「今日は午後から天気が変わるかもしれないから、皆さん気をつけて下さいよ」
運転手がラジオの天気予報を伝えて、「帰りのお迎えはいいのですね?」と先生に何度も念を押した。
先生が頷くと、運転手はでっかいサングラスをかけ直してバスをUターンさせ、元来た道を戻って行った。
カレル先生は子どもの頃、夏休みにパパに連れられてこの山を何回も登っていた。
曲がりくねった細い登山道や、迷い込んだら危ない脇道や、冷たくておいしい飲み水の湧いているところや、雨が降るとでっかいミミズが出て来て、たまり水で足が滑ってひっくり返るところや、絶対に近寄ってはいけない崩れそうな崖や、瓦礫で危険な川筋を今でも良く覚えていた。
今日は一番安全な道を選んで、生徒たちを先導して行く。
急坂をしばらく上ると、少し開けた場所にたどり着いた。
そこは日当たりのいい小さな広場になっていて、生徒の背丈くらいの樹木と小さな草花でいっぱい覆われていた。
「全員集合!いまから昆虫採集を始めまーす」
先生の大きな声が青い空に突き抜ける。
カレル先生はナップザックから大きな白い布を取り出して、ふわふわした白い花が一杯咲いている樹木に近づく。
匠とペトロを呼んで、布の四隅を持たせて、木のすぐ下の空間に拡げさせた。
次に細長い枯れ枝を裕大に渡して、花の付いた樹木を上からとんとんと叩かせた。
甘い香りに誘われて白い花に集まっていた昆虫が、ばらばらと白い布の上に落ちてきた。
白い布の上では色の付いた昆虫は丸見えだ。
ひっくり返っている昆虫たちを、咲良とエーヴァとマリエがピンセットでピックアップして、小さな観察用のガラス瓶に入れていく。
「これは新種だ。おまえは珍種だ」
ガラス瓶の中の昆虫を、カレル先生が一匹ずつ生徒に解説していった。
「カメちゃん!元気か。久しぶりだな」
先生はカメムシというくさい匂いのする虫にキスをした。
匠がまねをしてカメムシにキスをした。
「おえーっ!」
「匠、仲良くしろよ!虫も人間も生き物は先祖をたどれば、海の中で生まれたらしいぞ。
おれたちみんな海から生まれた兄弟なんだ」
生徒たちが暮らしているドームに昆虫はいない。
指の先ほどの小さな生きものが、ガラス瓶の中から命がけで逃れようとする様子に生徒達は心を奪われていた。
「お疲れさん。君たち解放の時だ」
先生の合図で、生徒たちは観察を終えた昆虫を、ガラス瓶から白い捕獲網の上に放してやった。
一センチほどの小さな金色のコガネムシが捕獲網から飛び立とうとして、薄い羽根を必死でぷるぷると震わせた。
「がんばれ!」マリエが両手を握りしめて叫んだ。
マリエの大きな声に驚いた虫たちが一斉に飛び立って逃げていった。
・・再び山道を登ると、道幅は狭くなり、危ない急斜面が続いた。
「確かこのあたりだ」先頭のカレル先生が立ち止まった。
「小休止!」
カレル先生、愛用のハットを脱いでバタバタと顔を仰いで、辺りを見渡す。
「先生、前方、右斜め下に渓流発見!」
匠が、生え茂っている木々の隙間から、急斜面の下に細い渓流が太陽の日を浴びて銀色に輝いているのを見つけた。
飛び散る飛沫の中に小さな影がちらちらと動いていた。
「ここだ。間違いない、あの渓流は先生が中学生の頃、魚獲りをした秘密の場所だよ」
先生は細い下り道を見つけると、周りの木に掴まりながら後ろ向きに降りていく。
六人が大騒ぎをしながら先生のあとについて降りる。
「しっ!静かに!」
先生が川の流れを指さした。
流れの速い岩場を、数匹の魚が流れに逆らって上流に向かって泳いでいる。
「あれは岩魚(いわな)だ」
・・上流から落ちてくる昆虫とか、エサになるものなら何でも食べようと待ち構えているんだ。
川魚は人の影が見えたらさっと岩陰に隠れるからな。
いいか、隠れた場所をよーく覚えておくんだぞ。
隠れている岩魚にそーっと近づいて、一気につかみ取りだ・・。
先生は用意しておいた軍手をナップザックから取り出してみんなに手渡した。
「岩魚は滑りやすいから、これでしっかり押さえるんだ!」
水辺に近づくと、人影が水面に落ち、泳いでいた岩魚はさっと散って、岩陰に隠れ、姿を消した。
ペトロは靴を脱いで、ズボンの裾をまくり上げて、流れに忍び込んだ。
覚えておいた岩陰に近づくと、そーっと両手を下から伸ばした。
魚の身体に手が触れると、一気に両手で掴みかかった。
魚はすばしこく跳ねて逃げていった。
裕大がようやく小さい岩魚を一匹掴まえた。
「二十センチに届かないのはまだ子供だからリリースしなさい」
先生に注意されて、裕大が渋々放してやった。
エーヴァと咲良とマリエが三人チームで追いかけ回して、砂場に追い詰め、でかいのを一匹掴まえた。
・・ しばらく姿を消していた匠が、上流から戻ってきた。
二、三十センチぐらいの脂がのった立派な岩魚を十匹も獲っていた。
匠は、2本の岩笹で結わえた岩魚をみんなの目の前でぶらぶらさせた。
「お前すげーな、どうやってとるんだ?」
一匹も掴めなかったペトロが匠に聞いた。
「ペトロ、大発見だ。いいか、魚は後ろには泳げない。魚の気持ちになって、頭の方から逃げ道を抑えるんだ。あとは両手で素早くゲットだ!」
ペトロが「なるほどー」と言ってトライしたが一匹も掴めなかった。
「集合! 匠のおかげで旨そうなのがいっぱい獲れたからもう十分だ。自炊の準備だ」
先生の先導で、みんなは川岸に打ち上げられている乾燥した木ぎれを集めて来た。
川のそばで火を起こし、小さな枝をナイフで削って串を作った。
「ご免なさい、お命、頂きます」
両手を合わせて拝んでから、先生は用意した塩を岩魚にまぶして、一匹ずつ頭から串に突き刺した。
マリエが横で十字を切った。
先生は、できあがった串を焚火から少し離して、地面に斜めに立てた。
焼き上がってきた岩魚の脂がしたたり落ちて、香ばしい匂いがみんなの鼻を突いた。
こんがり焼き上がると紙の取り皿に移して身をほぐし、先生の用意してきたショウガ醤油をかけた。
飯ごうで炊き上げたご飯に、岩魚の身をまぶして一気に食べた。
「ウメーッ!」
全員でがっついた。
食事が済むと水生動物の生態観察が始まった。
「川にはトンボのヤゴや、カゲロウやトビケラの幼虫や、小さな山椒魚の子供やいろんな生き物が隠れてるよ」
カレル先生に教えられて、生徒たちは大きな岩をひっくり返して、底にへばりついている生き物の観察を始めた。
みんなは時間を忘れて夢中で遊んだ。
カレル先生は岸辺の草むらに入って、昼寝を始めた。
先生は中学生の頃、この岸辺の草むらに一人で入り込んだ時のことを思い出していた。
・・あのとき、僕の足音に驚いた蝶の大群が、隠れていた草むらや低木から一斉に飛び立って、空をピンク色に染めて舞った。
薄いピンク色をした中型の蝶々、アサギマダラは夏が近づくと、遠いところからはるばる海を渡って山深い渓谷に集まってくる。
きっと子孫を残すために大きな群れになるんだ・・。
カレル先生は少年に戻って、優しいピンクの風に身を任せ、蝶の群れに乗って飛翔していた。
「さわさわ!」
不思議な風の音が上流から聞こえて来た。
川遊びをしていた咲良が物音に気付いて小首をかしげた。
咲良は、音の正体を確かめようと、流れの中の大きな岩に登って立ち上がった。
幻想の世界「ファンタジーア」の王女・咲良には、ときどき誰にも聞こえない音が聞こえた
り、誰にも見えない景色が見えたりする。
ひとときが経ち、川の上流から淡いピンク色をした、目も覚めるような美しい蝶が群れをな
して風に流されてきた。
咲良はアサギマダラの群翔の中にいた。
蝶たちは咲良にぶつかりそうになるとひらりひらりと身をかわす。
そして慌てた様子で集まり、下流の方に群れて飛び去っていく。
咲良は岩の上に立ち尽くして蝶の群れが飛び去るのを眺めた。
さわさわという音の正体は蝶の群れを運ぶ沢風の音だった。
咲良には、その音がなにかよくないことが起きる前兆に聞こえた。
蝶はなにかに怯えて逃げている。
咲良は岩の上で待ち構えた。
「ざわざわーっ!」
風の様子がいきなり変わった。
蝶の群れを追い立てるように、上流から強風が吹き付けてきた。
風に巻き込まれた木の葉が咲良の顔や身体にぶつかっては散っていく。
咲良は風に吹き飛ばされそうになりながら、岩の上に両足を踏ん張って堪(こら)えた。
蝶の群れを追いかけて遊んでいたマリエとエーヴァが、突風に身体を持って行かれて流れに倒れ、悲鳴を上げた。
咲良は、乱暴な風に向かって両手を力強く伸ばして、命令を発した。
「私はファンタジーアの王女・咲良! どうか静かにして下さい! お願い、止まって下さい! こら、止まれ!」
咲良の声が渓谷に響いた。
咲良には乱暴な風の正体がはっきりと見えた。
それは半透明で緑色の輪郭をしていた。
咲良は岩の上で背筋を伸ばし、握りしめた両の拳を、風の心臓部めがけて突き刺した。
「鎮まりなさい!」咲良の声が響き渡った。
勢いよく沢を駆け下りてきた風は、咲良の拳に体を貫かれて、驚いて立ち止まり、その姿を現した。
巨大な二つの緑の目が、岩の上に立つ咲良の顔を見つめ、咲良の心に探りを入れた。
「何だ、この娘は・・森に住む幻想一族の者じゃないか」
風は咲良の言葉を理解し、警告のひと風をビユッと咲良の顔に吹き付けた。
そして散らばった身体を集めると、元通りに体を整え、蝶の群れを追いかけて川下に走り抜けていった。
咲良には風が吹きかけていった一声が、はっきりと聞こえた。
「咲良とやら!俺よりもっとでかい奴がすぐやってくるぞ。危ないぞ、気をつけろよ!」
風の声は警告をしていた。
「早く逃げろ!」と。
咲良は岩の上から仲間を振り向いた。
「みんな聞いて! いまの強風よりもっと大きなのがすぐここへやってくるわ! 急いで岸辺に逃げて!」
エーヴァとマリエは蝶の群れの残りを追いかけていた。
裕大と匠とペトロは川の中でひっくり返ったまま水を掛け合っていた。
咲良の声はまるで耳に届いていない。
咲良は、血相を変え、声を限りに叫んだ。
「恐ろしいのがすぐにやってくるわよ! みんな早く川から逃げなさい!」
咲良の顔が、今まで見たことがないような鬼の形相に変わっていた。
マリエとエーヴァは怖くなって、慌てて岸に上がった。
木陰で、のんびりと昼寝をしていたカレル先生が咲良の甲高い声で目を覚ました。
ポケットの中でカレル少年から借りてきたスマホがなにか叫んでいた。
取り出して見ると画面に緊急避難警報が入っていた。
先生は驚いて立ち上がり、生徒たちに向かって大声を上げた。
「この川の上流で局地豪雨だ! 急いで川からあがれ!」
水際に残っていた男子生徒も水をはね飛ばして、岸に駈け上がった。
「ゴーッ!」
大地が震えるような音が上流から響いてきた。
突然、川の水かさが増して、上流の水面はふくれ上がっている。
「鉄砲水だ、みんな川から離れろ!」
カレル先生が慌てて叫んだ。
生徒たちは近くの森に向かって逃げ出した。
「あれっ?」
森の手前で、裕大が仲間の数が一人足りないことに気が付いた。
振り返ると咲良がまだ川の真ん中にいた。
逃げろ!と叫んでいた咲良が一人岩の上に残っている。
裕大は慌てて川岸まで走って戻った。
「咲良! 戻ってこい。咲良!」
裕大がいくら呼んでも咲良は振り返りもしない。
「止まれ! 静まれ! 消え失せろ!」
咲良は両手を拡げて、上流から迫ってくる水の流れに向かって叫んでいた。
咲良はファンタジーアの王女だ。
ファンタジアーアでは、咲良が三回表現を変えて命令すると邪悪な者たちは立ち去って行く。
緑の怪物は理解してくれたのに、どうしたことか、今度の邪悪な奴は姿を見せない。
「止まれ! 静まれ! 消え失せろ!」
咲良は濁流に向かって両腕を突き出し、命令を繰り返している。
裕大が気が付いた。
リアルの王の息子、裕大は現実の怖さを知っていた。
リアルから一度、危険な旅に足を踏み外すと、この世に帰ってくることが出来ない。
幻想の森から出てきた咲良は、現実というものの怖さをまだ知らない。
迫ってくる濁流に向かって、恐れることはないと、一歩も引く気がない。
裕大は咲良を助けようと心に決めて、頭から流れに飛びこんでいった。
カレル先生が、咲良と裕大が濁流の中にいるのを見つけ、茫然と岸辺に立ちすくんだ。
先生の軽い身体では、こんな流れの中では二人に近づく前に自分が一気に押し流されてしまう。
濁流が音を立てて盛り上がり、岩の上の咲良を呑み込もうとした。
裕大は岩に飛び乗ると、咲良の身体を後ろから両腕で担ぎ上げ、岸辺に向かって、力の限り放り投げた。
咲良の身体が水際に落ち、カレル先生が咲良の手を掴んで岸に引っ張り上げた。
咲良と入れ違うように、濁流が裕大を襲った。
裕大は流れに足を取られて岩から転び、うねりの中に呑み込まれていった。
カレル先生が、覚悟を決めて、裕大を助けに飛び込んで行った。
瞬く間に、二人の姿は荒れ狂う流れの中に消えていった。
震えている咲良を真ん中に囲んで、生徒たちは森の大きな木の下で身体を寄せ合って、雨と横なぐりの風をしのいでいた。
冷え切った身体を足踏みをして温め、声を掛け合いながら、先生と裕大が戻ってくるのをいつまでも待った。
夕闇が近づいた頃、びしょ濡れのカレル先生が疲れきった様子で戻ってきた。
先生の表情が凍り付いていた。
「裕大を見うしなった!」
先生は咳き込みながら、声を絞り出した。
「裕大は濁流に呑まれて、川下へ流されてしまった」
生徒たちは声もなく青ざめ、雨の中を立ちつくした。
咲良が声を上げて泣き出した。
雷鳴が轟いて、すぐ側に稲妻が落ちた。
カレル先生と五人の生徒は身動きが取れなくなった。
「ここにいると全員が危ない。いったん元の世界にもどろう!」
先生が深刻な顔つきで、タイム・トラベル・スオッチを、学校を出発した日の翌日の午後に合わせるように生徒たちに指示した。
「GO!」
先生の合図でみんなは一斉にスオッチを稼働させた。
一瞬にして世界は銀色に輝き、豪雨と雷鳴はあっという間に遠い過去へと流れ去って行った。
見慣れた教室が目の前に現れ、みんなはびしょ濡れのまま、椅子に座り込んだ。
だが、どこかへいってしまって戻らない生徒が一人出てしまった。
カレル先生は「21世紀の旅・実習講座」と書かれた教壇の大きな電子ボードに「裕太は
逝ってしまった」と書き加えた。
咲良がまた泣きだした。
他の四人は泣くのを必死にこらえている。
カレル先生はボードの「逝」という字を二本線で消して、「行」という字に書き変えた。
「咲良がみんなを助けて、代わりに裕太が『行って』しまった。先生はこれからもう一度、裕大を探しに出かける」
先生はスオッチをもう一度ONにした。
先生の身体は銀色の光に包まれて輝き、次の瞬間飛び散って次元の薄闇に消えていった。
・・医務室のヒーラーおばさまが、教室にやってきて、大きな乾いたタオルをみんなに優しく配って、言った。
「さーみんな、このタオルで身体をよく拭いて、温まりなさい。心配しないで、二人の帰りを待ちましょう」
教室のドアがバタンと開いて、突風が吹き込んできた。
愛用のハットを斜めに被ったカレル先生が、全身ずぶ濡れの裕大を連れて帰ってきた。
裕大が元気に手を振ると、咲良が裕大めがけて飛びついていった。
カレル先生が黒板の前に立って真面目な顔をして講釈を始めた。
「リアルの世界には気をつけろと、いつもみんなに言っておいたはずです。
21世紀の始め頃から地球の環境は荒れ始めたのです。
さっきの山も緑が少なくなって、保水能力が落ちたところに、局地豪雨に見舞われて、とんで
もない鉄砲水が出たのです」
カレル先生は濡れたハットをタオルで挟んで、水気を取った。
・・でも今回は初めてのタイム・トラベルなので、万一に備えて私たちの世界から【虚構の領
域】にトラベル保険をかけておきましたから、裕大を無事取り戻せました。
昔の世界は本物でしたが、実は皆さんの身体だけはここの世界の内部にいたわけです。
過去に張り出した結界越しに、昔を覗いたり、接触したりしていたというわけでした。
カレル先生は乾いたハットを廻しながらにやりと笑った。
・・みんなはお腹が減ったはずだ。
旨かった料理も所詮は虚構の一品。
お腹の中で消えて無くなったのでした。
お疲れ様。
でも記憶は本物。
カレル先生と手品師の共作、21世紀・虚構の旅の一幕でした・・
カレル先生はさらりと言ってのけた。
生徒たちはあっけにとられて椅子からのけぞった。
カレル先生の課外授業のまとめの言葉を教室の窓の外からこっそり聞いている男がいた。
男は歌うように喋りながら、窓枠を一跨ぎして教室の中に入ってきた。
「次からは気をつけて下さい。この世界のリアルに出て行くときは特に気をつけるのですよ。リアルで逝くと取り返しがつきませんからね」
この男はいつも忙しそうに近道をして窓から入って来る。
「リアルの王の使いの者です。王様からの招待状をお持ちしました」
男はカレル先生に一言挨拶すると、ポケットから封書を取り出し、汗をふきふき読み上げた。
「現実というものの凄さはこの程度ではございません。真のリアルの迫力を是非とも生徒のみなさんに実感して頂きたい。次回の課外授業は、黄泉の国への体験をご招待いたします。黄泉の国へは一度逝けばもう戻れません。しかしです、一生にただ一度だけ体験実習が可能なのです」
男は、一息ついてもう一度ハンカチで汗を拭った。
「ただし、参加できるのは肉体から魂を分離する『幽体離脱の技』が出来る人に限られます。・・沢山の希望をお待ちしております」
コメントを読み上げると、使いの者はその招待状をカレル先生に丁重に手渡した。
カレル先生が封筒を受け取って中身を確かめてみると、「黄泉の国行きバス乗車券」と太めの
文字で書かれた立派なカードが六枚入っているだけで、メッセージなどどこにも書かれていない。
空説法だ。
王の使いはリアルの王様ご本人だった。
リアルの世界は人手不足で、裕大の行方不明を聞きつけて、王の使いになりすました王様本
人、つまり裕大のパパが心配になって駆けつけてきたのだった。
裕大がパパに付き添われて帰っていくと、ペトロは教室をこっそり抜け出した。
廊下に出ると、リュックを開けてカレル少年からプレゼントされた新聞を取り出そうとした。
宇宙の方程式に取り組んでいるハル先生に見せて、宇宙物理学会での冒険談を自慢しようと思いついたのだ。
もちろんカレル先生には、絶対に内緒でだ。
「アレッ!」リュックの中に入れておいた大事な新聞がない。
リュックを逆さまにして振ってみたが、出てこない。
「ペトロ、コピーならここにあるよ」
後ろからカレル先生の声が聞こえて、ペトロは跳び上がった。
「ペトロ、お土産はだめだと言っただろ。過去の世界のものはこの世界には持ち込めないんだ。いずれは消えてしまう運命なんだよ。ほら! 結界越しに新聞をコピーしておいた。でもな、ペトロのせいであの世界の宇宙物理は一日で60年近く進歩してしまったはずだ。こんないたずらは今回限りだよ」
先生は新聞紙のコピーを丸めてペトロの頭をトンと叩くと、そのコピーをペトロに手渡して、教授室に姿を消した。
ペトロはコピーを大事にリュックに収め、ママに見せて自慢をすることにした。
生徒たちは、2016年の冒険談をママやパパに早く報告したくなった。
みんなはドームの厳しい夕陽の中を、それぞれの家に向かって元気に走り出していった。
カレル先生の教授室にノックがあって一人の男が入ってきた。
ひょろりと背が高く、鋭く切り込んだ彫像のような顔は、黒い仮面を被っているように見える。
パラレル宇宙を舞台にしてトリックを仕掛ける「虚構の手品師」だ。
手品師は顔を隠したまま今回の時間旅行に同行していた。
咲良にぶつかった繁華街の通行人だったり、ネイチャー・アドベンチャー号のバス運転手だったりした。
「カレル先生、今朝は登山口までお送りしたあと、近くにバスを止めてずっと待機してたのですよ! どうにも天気が心配で・・」
カレル教授は笑みを浮かべて立ち上がり、親しそうに手品師と握手を交わした。
「仕掛けて頂いた結界のおかげで、全員無事帰還できました。私も久しぶりに両親とカレルに会って、ゆっくり話が出来ました。おまけに可愛いハルちゃんとぶー太郎にもね・・重ねてお礼を申し上げますよ」
「ぶー太郎?」横に座っていた校長先生が首をかしげた。
「失礼、私の可愛いワンコです」
手品師の能面が崩れ、ぷっと吹き出した。
手品師が話題を変えた。
「結界の張り出しくらいはお安いご用です。それより教授、私にはカレル坊やとハルちゃんの行く末の方が気になるのですが」
虚構の手品師は、カレル教授とハル先生が不幸な結末を迎えたことを知っていて、カレル少
年と天才ハルちゃんの行く末も同じ結末にならないかと心配していた。
カレル教授は机に置いたハットを手に取ると、クルクルと廻して自分に言い聞かせるように答えた。
「私は以前、私たちのたどった運命をカレルとハルちゃんに伝えてあります。賢い二人だから、これからは自分たちで自分たちの道を切り開いてくれるものと信じています。ご心配はありがたいのですが、私たちと同じ運命には至らないと思います」
手品師は一瞬考え込んだ。
それから、時空のパラドックスに関わる、とても際どい質問を教授にした。
「それでは教授ご自身のことをお聞きしますが、教授は子どもの頃に未来のご自分とお会いになった記憶はおありですか?」
教授は廻していたハットの手を止めて、質問の意味を確かめるように手品師の能面を見据えた。
「そのことですが、実は私には未来の自分と出会った記憶が無いのです。だからこそ私のカレルへの助言は有効だと信じているのです」
教授は・・子供の頃に未来の自分に会って、助言をもらいながら、我が身の事故が防げなかったのなら、未来からの助言など何の役にも立たない。
しかしそんな助言をもらった記憶が無いのだから、今回のカレル少年とハルちゃんへの助言はきっと二人の未来への役に立つ筈だ・・と信じきっていた。
「それをお聞きして、ホッとしました」手品師の表情が緩んだ。
「そうだ、手品師のあなたにもう一つお礼を言うのを忘れるところでした。昨晩、2016年の科学者への招待状を確かに二人に手渡してきました。2年前の彼らの学校視察の時にも大変お世話になりました」
教授が一年前のお礼を改めて手品師に言った。
「世界は無数、無限に存在します。過去から未来まで、ご要望のままに旅の御用達が可能です。少し高く付きますが、心配事が出てきましたらまたいつでもご相談下さい。それでは私はこれで失礼して、趣味の古書を漁りにちょっと過去に出かけてまいります」
手品師は校長先生から、契約した高額の電子マネーを受け取ると、電子財布にチャージを済
ませ、忙しそうに過去への一人旅に出かけて行った。
「あの電子マネーは今でも有効ですが、お金で買える商品もサービスもこの地球のどこにも存在しません。彼も分かっていて受け取ってくれるのです。大した男です」
校長先生はクスクス笑ってから、天井を向いて長ーい溜息をついた。
「校長先生、彼は時空を旅する孤独な詩人です。むかしは儲からない古書店のオナーだったとか冗談を言ってますが、あの男は科学の枠を超えたふしぎな存在なのです。彼の希望どおり、生徒たちには正体は不明ということにしておきましょう」
カレル教授の言葉に頷いて校長先生は立ち上がった。
「さて、今回の実習講座には感服いたしました。おかげさまで、子どもたちは昨日と今日の二日間で、数年分は逞しく成長したと思います」
教授と握手を交わすと、校長先生は教室の廊下の外れにある医務室のヒーラーおばさまのと
ころに向かった。生徒たちの健康状態や、おばさまに任せてある学校の財務や食料事情を確か
めるために、長い廊下をとことこと歩き始めた。
一人になったカレル教授は愛用のハットを、型崩れしないように大事にデスクのボックスに
納めた。
次に壁際に近づいて隣の部屋の様子を窺った。
カタカタとナノコンを叩く音が聞こえてきた。
ハル先生の宇宙の方程式の計算が続いていることを確かめると、ウーンと大きく伸びをして服を脱ぎ捨てた。
気楽なプラズマ姿に戻った先生は、部屋の片隅にある大きな内部全面反射型の専用電子魔法瓶に入り込んでお休みになった。
生徒たちには秘密だったが、そこは先生のベッド・ルームで、カレル先生の正体は実は「ひとだま」なのだった。
(続く)
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下條 俊隆
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