六人のシニア仲間で行く終活旅の散歩のルポです。
会社に勤めた頃に始めた異業種交流会のOB仲間が集まって、奈良飛鳥方面を中心に日帰り旅行をしています。
今回は“お里・沢市の心中物語”壺坂霊験記で有名な古刹・壺阪寺から、奈良にあるのに“土佐街道”を経由して、“現れた竜の壁画の展示”キトラ古墳を見学。
最後にもう一度、高取町の古い町並みをすこしだけ歩きました。
決して無理はしないツアーですので、シニアの方やゆっくり旅したい方にはお役に立つ情報です。
新緑の色濃い6月の終活散歩、報告スタートです。
目次
壺阪寺のご本尊は眼を守る観音様だった!
貞淑な妻お里と目の悪い沢市の夫婦の愛の物語“壺坂霊験記”の舞台となったここ壺坂寺は、本尊の十一面観世音菩薩に拝むことで、眼病が治ると言われています。
二人が身を投げた谷を上から覗いてみましたがそれほど深い谷ではありませんでしたよ・・。
ふたりの切ない夫婦愛が観音様に通じて奇跡が起こり、お里も沢市も命が助かり、沢市の目も開眼したというハッピーエンドなお話です。
壺坂寺には観音様やお釈迦様が方々にいっぱいおられて、参道の途中でも眼病に効果のある観音様とパワーストーンを発見しました。
私達も、お里・沢市にあやかろうと、観音様の見守る中、パワーストーンに靴を脱いで登り、順番に開眼パワーを頂きましたよ。
今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。
そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。
「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。
疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。
不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。(壺阪寺公式サイト)
壺阪寺はお釈迦様のテーマパーク?
壺阪寺は正式には南法華寺(みなみほっけじ)といって、西国三十三所の第6札所です。
京都の清水寺の北法華寺に対して南法華寺といい、“終の観音霊場”として古くから多くの人にお参りされてきました。
壺阪寺はまるでパノラマのようにインド渡来の石像が本尊や三重塔などの建造物に囲まれて配置されています。
壺阪寺という一つの山が、宗教的な香に包まれたテーマパークのように広がっていましたよ。
橋の手前からの眺めで・・
朱色の太鼓橋の明るさと、三重塔の静けさのコントラストが見事でした。
壺阪寺の国際交流
壺阪寺は昭和40年からインドにおいてハンセン病患者の救済活動に参加して、その後もインド国内で奨学金事業など様々な国際交流を展開しています。
壺阪寺にある多くの石彫文化はこのような日印交流のご縁で御招来されたものです。
壺阪寺を象徴する全長20m、全重量1200t に達する天竺渡来大観音石像もインド政府の協力でインドから招来したものです。
南インドカルカラの三億年前の古石から、7万人のインドの石工が参加してすべて手造りで製作されました。
20mの巨岩は66個に分割して彫刻し、日本に運ばれ組み立てられました。
この巨岩を支える土台は深く基礎岩盤にまで掘り下げられ、数万巻の写経と土台石が埋納されています。
立像のまわりをぐるっと一周して眺めてみて、石像の重量感に圧倒されました。
でも、後ろにまわって見たら大観音様のヒップのあたりは盛り上がりがすこし欠けてましたよ。
・・こんなとこまで観る人いないですよね(笑い)
大宝3年(703)に創建された本尊十一面千手観世音菩薩を祀る八角形の御堂です。
まるでシルクロードのパビリオンのようでした。
ご本尊の十一面千手千眼観音菩薩は・・
無数の手とたくさんの眼を持つ、頬がふくよかで、優しそうな観音様でした。
壺坂寺へのアクセス
近鉄吉野線の壷阪山駅から壺阪寺まで、奈良交通バスで約11分でした。
バス利用のときは、本数が大変少ないので事前に運行時間チェックが必要です。
ゆっくり歩いて登れば片道30~40分です。
壺阪寺参拝のあと、土佐街道やキトラ古墳の行程を予定されるのであれば、体力と時間を残してバスを利用することをお勧めします。
(自家用車を利用されるときは壺坂寺の入り口に有料駐車場があります)
壺阪寺の公式サイト
http://www.tsubosaka1300.or.jp/
高取町を抜けてキトラ古墳へ
壺阪寺参拝と昼の弁当を済ませた仲間六人は・・
壺阪寺からバスに乗って、「壺坂手口」停留所で途中下車、高取町を斜めに抜けて次の目的地キトラ古墳に向かいました。
高取町は富山と並ぶ薬売りの町でした。
道路のところどころに自然の草花の薬効が説明されたプレートがありましたよ。
高取町は高取城の城下町
ここは私達がキトラ古墳へ向かうときにクロスしたところです。
むかしは、ここに高札が建てられ「お触書(御触書)」を掲示した場所でした。
300年前の長屋門をそのまま残した武家屋敷です。
窓の格子が横向きになっている「与力窓」を二つ、つけています。
高取町観光ガイド
http://sightseeing.takatori.info/cource/no3.html
キトラ古墳で青龍の壁画(実物)を初めて見た!
高取町を抜けてキトラ古墳に到着しました。
古墳全景写真の円盤状の丘の下に古墳の石室があります。
一般の人はもちろんキトラ古墳の室に入ることはできません。
古墳のすぐ近くに「キトラ古墳壁画体験館・四神の館」という立派な建物があり、この中で様々な古墳にかかわるプレゼンテーションが行われて、見学者が楽しみながら勉強出るようになっています。
今回、古墳の石室の東壁「青龍、十二支・寅」の実物が公開されたので、応募して見学に行きました。
今回お世話になった友人に応募予約をしていただいたのですが、予約時間より相当早く着いてしまって、係の人に頼み込んで、前の組に入れて頂きました。
青龍の画像は東壁から切り取られて、ガードマン二人に警護された一階の特別展示室のショーケースに治められていました。
青龍は古代中国では東の方角を守ると言われる想像上の生き物です。
古墳では東の壁に描かれて、高貴な身分の埋葬者(不詳)を長い年月にわたって守っていたことになります。
この写真が、今回展示されていた実物の壁の「青龍」です。
右下に流れるように跳ねている赤い線が竜の舌です。
左側にあるべき竜の姿は消えています。
後世に侵入した泥土に覆われていたため、主要な部分が判然とせず失われたと説明されています。
近くの高松塚古墳の青龍は元気に飛んでいます。
二つの赤い舌を比較してみますと同じ壁画画家が描いたようにみられるほど、舌の形がそっくりです。
キトラ古墳の青龍もむかしはこのような姿で、元気に飛んでいたのです。
二つの古墳はすぐ近くにあります。
古墳で埋葬者を守る儀式として、飛鳥のころ、石室の壁面に誰がどのような気持ちでこのような絵を描いたのか、その姿を想像するとなんだか時を超えて興奮させられますね。
もう一枚の展示は同じ東の壁に描かれた寅の壁画の写真です。
キトラ古墳の石室には頭は獣で身体は人間の姿をした十二支が描かれています。
埋葬者の魂を鎮めたり邪悪なものから守るためです。
この画像は斜光写真です。
壁画の実物ではなく、写真ですが、暗闇に“ぬぼーっ”と立っている虎の姿が戯画っぽくて面白かったですよ。
国宝になることが決まったキトラ古墳の壁画の特別展が続いています。
毎回展示の内容が異なりますので、事前に展示の壁と壁画の内容をチェックしていくと、興味が増して楽しいですよ。
キトラ壁画の公開見学の説明はここからご覧になれます。
最後に・・
キトラ古墳の壁画見学を終えて、近鉄の壺坂山駅に向かう途中、土佐街道を右に折れて子嶋寺に参拝しました。
写真は弘法大師由来の国宝「両界曼荼羅」を寺宝に頂く真言宗の子嶋寺です。
立派な山門と本堂の写真です。
目的は寺の山門でした。
日本三大山城の一つ、高取城が明治に入り廃城とされたとき、城の二の門がここ子嶋寺の山門として移築されていたのです。
この門は構造的に大きな特徴がありました。
- 普通の寺の山門に比べて柱が太くて頑丈です。
- 屋根の構造が寺の外側(正面)に向かって傾斜した部分が内側より相当長く垂れ下がっています。
同行の設計会社の建築士M氏にいろいろと調べてもらった結果を基に、二人で構造上の理由を結論してみました。
結論の一は、 柱が太く頑丈にできているのは敵の攻撃で簡単に倒れないようにしたためである。
守備の兵士は柱の陰から出て敵と応戦したはずだから、柱は身体を隠すための大きさが必要だった。
・・ 門の種類は“薬医門”というのだそうです。
“薬医門”のいわれの一説に矢の攻撃を食い止める“矢食い”とあります。
結論の二つ目は、外側の屋根が内側より広いのは敵の矢による攻撃を防ぐためのものである、ということになりました。
二つの結論が正解であればいいのですが・・。
日本・三大山城の中、最強の山城と言われた高取城の二の門が、廃城のあとも子嶋寺の山門として、逞しく生き続けていたのですから、感動の物語ですね。
・・「おお 大砲」という司馬遼太郎の短編に、幕末の“天誅組の変”のとき、戦った高取城の軍勢がたった一門の大砲で敵方を遁走させたというエピソードがあります。
その時の大砲“ブリキトース”のレプリカが元の商工会議所の玄関においてあるそうです。
・・高取町とその近辺にはまだまだ歴史物語のお宝が眠っているようです。
毎年秋の祭日に挙行される“たかとり城まつり”には古い時代のパフォーマンスやフリーマーケットが出て、町中がお祭り騒ぎになります。
私たち六人の終活顧問で、親友の信貴山の和尚さんも剣舞の詩吟で特別出演する予定です。
秋にこの町を再訪することを子嶋寺の山門に誓って、この日の終活の旅は終わり、仲間六人は近鉄壷阪山の駅に向かいました。
(終わり)
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下條 俊隆
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