「生きてて良かった!」1995年第一回の神戸ルミナリエ誕生のエピソード

阪神・淡路を大地震が襲った年の暮れ、1995年12月15日の日没後、神戸市の旧居留地で震災復興イベント「第一回の神戸ルミナリエ」点灯式が行われました。

 

「生きてて良かった!」

これは点灯の瞬間、一人のおばあちゃんの口から出た言葉です。

数百メーターの光の回廊が突然、観客の目の前に現れたとき、感激したおばあちゃんが思わず叫んだ言葉でした。

第一回神戸ルミナリエは「鎮魂から祝祭へ」のテーマのもと、多くの人の努力によって、震災の年の暮れに実現しました。

神戸ルミナリを実現されたすべての方々に深い敬意を表したいと存じます。

筆者も阪神間で被災し、その年のルミナリエを立ち上げた関係者の一人です。

記憶が風化しないうちに、ルミナリエが誕生するまでのエピソードを紹介したくて、この記事を書きました。

1章 それは一本の電話から始まった。

1995年 第一回の神戸ルミナリエ 会場風景

震災の年の四月のある朝、兵庫県産業政策課長(当時)の神田栄治さんから筆者のデスクに電話がかかってきました。

「このままでは神戸から人がいなくなります。なんとかなりませんでしょうか?」

当時、広告代理店・電通の関西プロジェクト室長を務めていた下條俊隆(筆者)は、大震災のとき阪神間の自宅で被災した者の一人でした。

「兵庫県に、そのための予算はないのですね?」

質問への答えは予想通りでした。

「そのとおりです」

「わかりました。考えてみます」

自分の口から出た無謀な言葉に、驚きました。

被災者の一人として、後先を考える前に出てしまった言葉でした。

当時、兵庫県と神戸市は震災後に起こった人口の激減に悩んでいました。

水道、電気、ガスといった生活インフラが応急的に手当てされたあと、数ヶ月経っても神戸から避難した人たちは戻ってくる気配がなかったのです。

崩壊した神戸には観光客も訪れることはありません。

神戸市も兵庫県も観光対策まで手が回らなかったのでしょう。

復興資金はインフラや被災者の救済にあてられて、観光対策の予算を組む余裕はなかったはずです。

山手の観光施設や駅に近い商店街の店舗が、いつ元通りに復旧できるのか、まるで目処の立たない状況でした。

神戸の街から灯が消え、夜はゴースト・タウンのようでした。

犯罪が起こりやすい環境でもありました。

そんなとき、困り切った産業政策課長が思いついてかけた一本の電話から、震災復興企画「神戸ルミナリエ」が動き始めたのでした。

2章 神戸ルミナリエは政府の震災復興委員長、下河辺先生の一言で決まった。

 

電通の関西プロジェクト室に徳永眞一郎さんというイベント・クリエイターがいました。

彼は1990年に大阪市の鶴見緑地で行われた「花と緑の博覧会」で、光と噴水のパフォーマンス「デイリーフィナーレ難波宮イリュージョン」を企画し、クライアントを見つけ、会場の中心で毎晩実施して、多くの観客に感動を与えた素晴らしいクリエイターです。

徳永さんの主導で、直ちに様々なジャンルの震災復興企画が集められました。

その中の1つに、南イタリアで、祭礼行事(宗教的な祝祭)として毎年行われていた光の祭典「ルミナリエ」が入っていたのです。

ビデオでルミナリエをはじめてみたときの印象は、ラスベガスの華やかな色彩のネオンに包まれた町並みと全く異なるものでした。

ルミナリエの光は、心に沈み込むように静かでやさしいものでした。

「徳さん」とわたしは、まず、政府の「阪神・淡路復興委員会」の委員に私たちの復興企画の説明をして、意見を聞くことにしました。

先般亡くなられた、政府の阪神・淡路復興委員の一人、堺屋太一先生にいくつかの復興企画について、説明をしたときの答えは、「テレビで震災復興の特別番組を作る」案でした。

一方、たまたま政府の復興委員長の下河辺淳先生とお話をする機会を手に入れたときのことです。

すべての企画の説明を聞いて頂いたあと、下河辺先生の答えは詳しい説明抜きで只一言・・

灯りをともす案が良いとおもいます」でした。

「神戸を明るくする」→「灯をともす」→「人を集める」 

神戸の街がパット光に包まれる、そんな情景が浮かびました。

企画はシンプルがベストです。

「徳さん」とわたしの頭の中で、遠いイタリアの港町の祝祭「ルミナリエ」が震災復興イベント「神戸ルミナリエ」となった瞬間でした。

3章「100万人は集まるでしょう!」と言ってしまった。

当時、兵庫県庁に倉持治彦さんという産業復興局長がおられました。

「神戸ルミナリエ」を復興イベントして進めようと意気込んだ神田さんから、上司の倉持さんに企画の説明をして欲しいと頼まれたときのことです。

倉持さんは通産省から兵庫県庁に出向してきた人でした。

通産省は一般の企業との接点がおおくて、倉持さんも企業活動としてのビジネスをよく理解された人でした。

ルミナリエを実現させるためには、協賛社を集めることが必須の課題でした。

そのために、県庁の中でも、倉持さんの様な企業のマーケテイング活動を理解できる人がキーマンになってもらうことが必要です。

ルミナリエは直接企業活動に役立つイベントではありません。

社会的イベントとしてのルミナリエに協賛社を集めるためには、兵庫県と神戸市が主体的に動いてもらわないと話が始まらないのです。

倉持さんは理解が早い人でした。

ルミナリエは何人の人を集めることができますか?

単刀直入な質問が飛んできました。

倉持さんとしては、兵庫県と神戸市が主導する復興イベントして相応しいかどうかを判断するために、ルミナリエのイベント価値、集客動員予測が必要でした。

100万人は集まるでしょう!

わたしの口が勝手に喋っていました。

「100万人!」

倉持さんの表情が固まりました。

しばらくして・・「それは絶対やらなくっちゃ」

倉持さんが立ち上がってどこかへ電話をされたようでした。

電話の先が通産省本庁なのか、県知事なのか、どこなのかはわかりません。

ただ、倉持局長の気持ちが固まったことだけは伝わってきました。

100万人と言う数字の重さを倉持さんは即座に理解してくれたのです。

100万人という数字は無謀な発言ではなく、直感的なものでした。

震災の年から5年前、1990年に大阪の鶴見緑地で開催された「花の博覧会」の総合プロデューサー事務所の仕事をしたときに、毎日9万人から10万人の入場者を動員したことを肌身で実感していたからです。

花博と比べて会場の広さはまるで違いますが、オープンな道路という観客の動線と、入場料が無料であるという有利さがありました。

神戸ルミナリエは、一日8万人として2週間で100万人を動員できるだろうという、咄嗟の計算でした。

わたしのような一民間人の言う確証のない数字に心を動かして頂いた倉持局長の姿勢に、復興に賭ける男の強い意志を感じました。

その後、倉持局長と神田課長には、行政と民間の橋渡しを含めて、ルミナリエが実現するまで、推進役としての旗を振り続けていただきました。

4章 ルミナリエを電通のソーシャルイベントと捉えた電通副社長の意気込み!

 

復興企画「ルミナリエ」を電通の仕事として推進するかどうか、当時関西支社長で副社長の山下和彦氏に相談したときのことです。

兵庫県にも神戸市にもルミナリエ予算はつかないこと。

数億の経費は協賛社を募って集めると言う困難な仕事になるだろうこと。

候補の企業は震災の地元である関西財界、特に大阪の企業になるだろうこと。

社会的イベントとしてプロモーションは当面、兵庫県と電通の連携プレーになること。

ルミナリエは「鎮魂から祝祭へ」と言うテーマだから、震災の年の暮れには開催すべきこと。

100万人動員を目標とすること。

最後に、この計画は億単位の赤字を覚悟する必要があること。

報告を終えたとたんに返ってきた答えは・・「わかった。セールスは俺に任せろ!」でした。

「電通は駆け込み寺だ。最後の頼りにしてもらうことが電通の希望だ」

これが副社長の口癖でした。

阪神大震災復興という社会的イベントは、経営のトップ自らが動く必要があるという副社長の心意気でした。

副社長主催の戦略会議が行われ、得意先の候補が大手2社にしぼられました。

山下副社長のトップ・セールスが始められたのは数日後のことでした。

5章 「おーい、船が出るぞ-」

 

その年の夏の終わりの頃です。

イタリアからルミナリエの機材や電飾を積んだ船が日本に向けて出るぞ、と言う連絡が来ました。

船で数ヶ月、神戸で組み立てる時間を入れたらそろそろ船を出さないと間に合わないぞと、プロモーション局から言ってきたのです。

電通のイベントの実行部隊はプロモーション局と言うところです。

実は、このときはまだルミナリエをGOにするのか、ストップするのか決められる状態ではなかったのです。

協賛をお願いしている大手の2社のうち、1社からは前向きの返事を頂いていたのですが、1社からは結論が出ていません。

副社長と徳さんとわたしは兵庫県の貝原俊民知事に相談に行くことにしました。

副社長と知事は昔からの昵懇の仲でした。

知事に協賛の状況を説明したあと、わたしは知事にお願いをしました。

「知事から直接スポンサーに協賛のお願いをしていただけませんでしょうか?」

「知事は(立場上、特定の企業に)セールスはできないのです」

やんわりと断られたのですが、もう一押ししてみました。

秘書さんを呼んで大手企業の副社長に電話をするように頼みました。

それから思いきって知事にお願いしたのです。

「いざというときには知事もセールスするのです」

もちろん副社長と知事の親密な間柄を知った上での失礼な発言でした。

苦笑しながら知事は電話を取り上げ、候補企業の副社長に協賛のお願いを直接してくれました。

数日後、2社の内定で、総経費の半分の目安がついた時点で、イタリアから船が神戸に向かいました。

クライアントを始め、主催者や関係者の方々の真の苦労はここから始まったのかもしれません。

6章 プロデューサー・徳永さんの語るエピソード

徳さんの話では、最初「神戸ルミナリエ」の観客の動線(決められた道順)は一方通行ではなくて自由動線(フリー)だったそうです。

わたしの記憶では「始めから一方通行だった」のですが間違っていました。

想定外の大混雑となったため、会期の途中から一方通行に切り替えたそうです。

この章は電通の徳永EP(現・エグゼクテイブ・プロデューサー)から、初回の神戸ルミナリエ・プロデューサーとして記憶に残る思い出を寄稿していただきました。

そのまま記載させていただきます。

・・・

苦労話は数々ありますが・・

「ルミナリエ」は16世紀からイタリアで行われていた伝統的な祭礼行事です。

とはいえ、「日本の法律や規制には馴染まない点が多かった」ことから、いろいろな苦労がありました。

例えば、作品の組み立てでも、本来であれば、しっかりとした基礎を固める必要がある訳ですが、それにかかる経費はもちろん、申請手続のための日程的な余裕もありませんでした。

神戸市の道路管理のご担当者と、関係法規をにらみつつ、あれこれ知恵をめぐらした結果、例外規定の適用、すなわち「芸術作品の展示」とすることで、何とか設置に漕ぎ着けたといういきさつもありました。

また、会場を横切る幹線道路は、交通規制は行っているものの、信号に関しては、点灯時間のあいだもずっと点いたままでした。

ところが、開幕から数日たったある日、その信号が消されました。

驚いて、所轄の警察署の方に訊ねたところ、「消したほうが綺麗やろ」との返事・・。

数日が経過して、安全確認ができた上での判断だったと思いますが、粋な計らいが心に染みましたし、いろんな人の気持ちを動かしたイベントであることを実感しました。

また電通は、オリンピックや万博など、大きなイベントを手がけますが、このルミナリエだけは、電通の存在がなかったら、誕生しなかったものだと思っています。

口はばったい言い方になりますが、地域が直面した大難事に際して、採算度外視でリソースを注いだ経営の姿勢とともに、その点は、密やかに誇りとするところです。

・・・

最終章 そして254万3000人が集まった

  

大震災の年の暮れ、神戸ルミナリエは254万人という驚異的な数の観客を動員しました。

12月15日(金)から12月25日(月)の11日間、神戸の夜は連日10万人を超える人で埋められました。

神戸ルミナリエは傷ついた魂を静かな光で癒やし、暗かった神戸の町並みに、希望の輪を大きく広げたのでした。

大震災の記憶も、長い年月が経過する中で風化していきます。

しかし、人々の「鎮魂」と「希望」への思いが続く限りは、「神戸ルミナリエ」の灯がともされるでしょう。

徳さんの話では京都の祇園祭も、都の人々が夏場に疫病に苦しんだ経験や、その厄払いが契機となって伝統的な祭り事になったそうです。

人々の魂が宿った催事こそが、長く受け継がれていくのだと彼は言います。

「ルミナリエが今日まで続いてきたのも、街の活性化や観光客の呼び込みといった具体的な目標が掲げられただけではなくて、復興にかかわったすべての人の魂が「透かし」のようにルミナリエの灯りの中に刻まれているからでしょう」と。

 追記

神田栄治さんは、その後も県幹部としてのキャリアを積まれ、兵庫県立大学の客員教授として、後進の育成指導に当たられた後、2018年に退官されたそうです。

倉持治彦さんは、通産省に戻られ、イギリス公使などをつとめられ、現在もなお、日本機械輸出組合の専務理事の要職におられます。

貝原俊民氏は2014年11月13日に逝去されています。

下河辺淳氏は2016年8月13日に逝去されています。

徳永眞一郎さんは現在

  電通関西支社ソリューション・デザイン局

  エグゼクティブ・プロデューサー

山下和彦氏は、その後大阪国際会議場の社長を務められ、退任後もお元気にご活躍中です。

先日この記事原稿をお見せして、掲載のご了解をいただいたのですが、ご意見をお聞きしましたら「ルミナリエには僕の思いも山ほどあるからな・・」と懐かしそうにおっしゃってました。

付帯資料 1995年 神戸ルミナリエ 開催報告書より抜粋

     ①公式チラシ

     ②会場風景写真

     ③来場者数

・・開催報告書は主催構成団体から、協賛、協力の各方面に、お届けしたものです。

 2回目からは報告書も印刷物になりましたが、初回はとにかく万事に手づくりで、コピーの 束を、市販のファイルに綴じ込んでお渡ししたような代物でした。

・・会場風景写真

 写真に写っている人物の方々は、掲載をお許しください。

・・来場者数  
  会期中合計 254万3000人 
 ( 12月15日(金)から12月25日(月)の11日間)
 一日の最大は、12月24日の347,000人で、日曜日とクリスマス・イブが重なって、
「気温6.5度、曇り一時雨」にもかかわらず34万7000人の人々が訪れています。
 最終日の12月25日は「気温0.3度、雪」のクリスマスで22万9000人の来場者でした。
 
 
 
 
 
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下條 俊隆

下條 俊隆

ペンネーム:筒井俊隆  作品:「消去」(SFマガジン)「相撲喪失」(宝石)他  大阪府出身・兵庫県芦屋市在住  大阪大学工学部入学・法学部卒業  職歴:(株)電通 上席常務執行役員・コンテンツ事業本部長  大阪国際会議場参与 学校法人顧問  プロフィール:学生時代に、筒井俊隆姓でSF小説を書いて小遣いを稼いでいました。 そのあと広告代理店・電通に勤めました。芦屋で阪神大震災に遭い、復興イベント「第一回神戸ルミナリエ」をみんなで立ち上げました。一人のおばあちゃんの「生きててよかった」の一声で、みんなと一緒に抱き合いました。 仕事はワールドサッカーからオリンピック、万博などのコンテンツビジネス。「千と千尋」など映画投資からITベンチャー投資。さいごに人事。まるでカオスな40年間でした。   人生の〆で、終活ブログをスタートしました。雑学とクレージーSF。チェックインしてみてくださいね。

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コメント

  1. 実田安男 より:

    ルミナリエの秘話?大変懐かしく
    興味深く拝見させていただきました。スタ-ト当時のやりとり、なかなか面白く、20年以上前の苦労話しを
    もっとみんなに知ってもらいたいものですね。

    西宮のじっちゃんより

    • 下條 俊隆 下條 俊隆 より:

      実田さん

      第一回の神戸ルミナリエ、記事お読みいただきありがとうございます。
      その節は協賛のほどありがとうございました。

      添付資料の公式チラシに御社のお名前が入っております。
      ご確認ください。

      小説「未来からのブログ」始めました。
      クレイジーSFで、テンポアップした短編集です。

      お読みくださいね。